表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第5章】選ばないという選択 ―正しさの外側に立つ―
39/52

第39話:黒田聖人という男

黒田聖人という男はいつも少し汚れていた。

服の趣味が悪いわけではない。作業着はサイズが合っているし、革靴も手入れされている。

持っている鞄も、安物だが壊れてはいない。


でも、どこか「使い古された感じ」が抜けない。

まるで何十年も回し続けられた歯車のように、油と鉄と疲労が染み付いている。

言葉遣いも乱暴だ。丁寧さのかけらもない。

誰に対しても「お前」か「あんた」呼ばわり。配慮もなければオブラートに包むこともない。


それでも周りの人間は黒田を避けない。

むしろ困ったときほど、磁石に吸い寄せられる砂鉄のように彼の名前が挙がる。

「とりあえず、黒田に聞いてみるか」

「黒田さんなら、何とかしてくれるやろ」

その一言で場が落ち着く。望はそれがずっと不思議だった。


黒田はリーダーではない。何かを指示するわけでも熱い言葉で励ますわけでもない。

相談を持ちかけられても、第一声はいつも拒絶だ。

「知らんがな」

「無理やな」

「やめとけ、金にならん」


そんな言葉を平気で口にする。

しかし本当に放っておくことは、決してない。

「知らん」と言いながら、現場を見に行く。

「無理や」と言いながら、道具箱を持ってくる。

「やめとけ」と言いながら、一番最後まで付き合う。


言葉で突き放し行動で支える。そしてその順番を、決して間違えない。

それが、この男の流儀だった。


ある日の夕方。望は、黒田と並んで商店街を歩いていた。

特に用事はない。黒田が巡回するコースを無言でついて歩いていただけだ。

「……黒田さん」

望は、ずっと喉に引っかかっていた疑問を口にした。

「なぜ、ここまで面倒を見ているんですか?」


直球だった。

金にもならない。感謝も(これまでは)されなかった。

それでも、なぜこの男は泥をかぶり続けるのか。


黒田はすぐには答えなかった。歩みを止めず、通りを一度見渡す。

シャッターの閉まった店。売れ残りの惣菜を並べる店主。誰もいない薄暗い路地。

「……見てまうからや」

短い答えだった。


「見てしまう?」

「放っとかれへんもんが、目に入る」


黒田は自販機の下に落ちていた空き缶を、足先で器用にゴミ箱へ蹴り込んだ。

「見てしもうたら気になる。気になったら動いてまう。それだけや」

善意ではない。使命感でもない。

逃れられない「呪い」のような響きだった。


望は黒田の横顔を見て違和感を覚えた。

この「目」は、ただの親切なおじさんの目ではない。

もっと冷徹に、物事の構造を見抜いている目だ。


「昔から……こうだったんですか?」

望は、もう一歩踏み込んだ。

「昔から、そうやって損な役回りばかり選んでいたんですか?」


黒田は歩きながら鼻で笑った。乾いた自嘲の音。

「まさか」

その一言に、すべてが含まれていた。昔は違ったのだ。

今の黒田は、最初からこうだったわけではない。何かが彼を、今の姿に変えてしまったのだ。


望は確信した。黒田はかつて「正しかった側」の人間だ。効率を信じ、数字を信じ、結果を出してきた人間。そうでなければ、ここまで現実的な判断はできない。

情だけで動いている人間には、AONの撤退理由やKPIなどの危険性は見抜けない。

彼はこちら側の世界の論理を、骨の髄まで知っている。


「正しいこと、好きやったで」

黒田はぽつりと言った。独り言のようなボリュームだった。

望は足を止めた。黒田は振り返らずに背中を向けたまま歩く。


「正しいことをやっとったら、人は楽になる思とった。無駄を省いて、白黒つけて、整理したら……みんな幸せになると思とった」

声に感情はほとんどない。その異様なまでの軽さが、逆に重かった。

望は続けて聞いた。

「……違ったんですか?」


黒田は少しだけ肩をすくめた。

「楽になる人と、消える人が出る」

それだけだった。

正しさは人を救う。と同時に、正しくないものを切り捨てる。

整理された部屋がきれいなのは、不要なものを捨てたからだ。


黒田は、その「捨てられたもの」を見てしまったのだ。あるいは、自分の手で捨ててしまったのか。

黒田は、それ以上過去を語らない。語れないのではない。語る資格がないと、自分で自分を禁じているようだった。その距離感が、望には痛いほど分かった。


「名前を付けるな」

「制度にするな」

「正しさを振りかざすな」

黒田がこれまで言ってきた言葉のすべてが、ただの職人の頑固さではなく、血の滲むような経験から出た「贖罪」だったのだとしたら。


黒田は立ち止まり、タバコを取り出した。火をつけ、紫煙越しに望を見る。

「高井」

真正面から向き合う目だった。


「お前はな」

「まだ、間に合う」

その一言は忠告でも、命令でもない。祈りだった。

自分のような「使い古された敗残者」になるな、という切実な願い。


望は何も答えられなかった。「間に合う」と言われても、もう戻る気はなかった。

だが、その優しさだけは痛いほど伝わってくる。

黒田は吸いかけのタバコを携帯灰皿にしまい、再び歩き出す。

「行くぞ。見回りや」


望は、その背中を見つめた。少し猫背で汚れた作業着の背中。

この男は腐ってはいない。でもかなり削られている。

正しさというヤスリで磨かれ続け、角が取れ小さくなり、それでもまだ動き続けている。


黒田聖人という男は、決して優しい人間ではない。でも信じられる人間だ。

望はネクタイを緩め、その背中を追った。そして気づいてしまった。

自分は、この男の「続き」を生きようとしているのだと。

彼が捨ててしまったものも、拾い続けてきたものも、すべて背負って。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ