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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第5章】選ばないという選択 ―正しさの外側に立つ―
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第38話:望の選択

「で、どうするつもりだ」

上司の声は落ち着いていた。会議室の空調の音だけが低く響いている。窓の外にはビルが並び、その隙間を曇り空が埋めていた。問い詰める調子ではない。プロジェクトリーダーの打診に対する、最終確認だ。


「人事からも聞かれている。最近外の活動が増えている、とな」

上司は手元のタブレットに視線を落としたまま言った。

「業務に支障は出ていない。数字もクリアしている。それは認める。だが、このままリーダーを任せるわけにはいかない。どこかで線を引く必要がある」


望は椅子に深く座り直し、背筋を伸ばした。

辞める。その二文字を用意して来たわけではない。しかし避けては通れない話だと分かっていた。

「……辞める、という話ではありません」

最初に、そう言った。

上司はタブレットから顔を上げ、わずかに眉を上げた。


「ほう。ではリーダーを引き受けると?」

「いいえ」

望は真っすぐに上司を見た。


「会社の仕事は続けます。ただし、比重の配分を調整したいと考えています」

「調整?」

「評価に直結する『フロント業務』からは、一度外してください」


望は続けた。

「代わりに運用保守や、システムの裏方の業務を引き受けます。誰もやりたがらない、数字になりにくい仕事です。ですが、誰かがやらなければシステムが止まる。確実に必要な仕事です」


上司は、すぐには答えなかった。指でデスクを軽く叩く音が規則的に響く。その音を聞きながら、望は自分の膝の上で手をじっと開いていた。震えてはいない。それだけを確認する。

「……左遷を、自ら望むということか?」

「言葉を選ばずに言えば、そうです」

「なぜだ?」

短い問い。理由を聞かれている。望は一瞬だけ迷った。地域貢献だの、自己成長だの、綺麗な言葉はいくらでもある。目先の利益ではない、別の場所にある実感を守るための決断だった。


「今のフロントの仕事は、僕がやらなくても回ります。代わりはいます」

望はもう一度息を吸った。

「ですが、今関わっている場所では……自分が抜けると困る人がいます。代わりがいないんです」

「それは会社の利益ではないな」

「はい」

即答だった。

重苦しい沈黙が部屋を満たす。上司は腕を組み、天井を仰いだ。空調の音だけが変わらず続いている。


「分かっていると思うが」

上司は淡々と続けた。

「評価は下がるぞ。ボーナスも減る。同期が昇進していくのを、指をくわえて見ることになる」

「承知しています」

「キャリアに傷がつく。後になって『やっぱり戻りたい』と言っても、席はない」

「分かっています」

「……後悔は、しないか?」


望は少しだけ考えた。

華やかなプロジェクト。昇給。同期と並んで歩いていくはずだった、安定した未来。それらを手放す恐怖がないと言えば、嘘になる。夜中にふと目が覚めて、後悔するかもしれない。そういう夜が来ることは分かっていた。


「後悔は、すると思います」

正直に答えた。

「でも、ここで選ばなかったことを後悔する方が、きっと大きい」

上司は望の目を見た。そこには、かつてのような「指示待ち」の色も「迷い」の色もなかった。あるのは、自分の足で立つ覚悟だけだ。


上司は、深いため息をついた。

「……自ら『損な役回り』を買って出るとはな」

呆れたような、けれど微かに笑っているような声だった。

「合理的で優秀な君にしては、随分と効率の悪い選択だ。……扱いにくい『確信犯』だよ、君は」

その言葉に、望の頬が緩んだ。決して褒め言葉ではない。しかし拒絶でもない。自分の意志を持つ部下として、認められた証だった。


「分かった」

上司は椅子から立ち上がった。

「配置転換の手続きを進める。ただし期限は設ける。半年だ。その間に裏方としての成果を見せろ。数字でなくていい。だが『意味のある仕事』だと示せ」

それは猶予であり、最後の温情だった。


「ありがとうございます」

深く頭を下げる。


会社を出ると、外の空気が冷たかった。曇っていたはずの空が、いつの間にか少し高く見えた。息を吸うたびに肺の奥まで冷気が届く。会社を辞めてはいない。会社員という立場は残った。しかし出世コースという「戻り道」は、自らの手で閉ざした。


エレベーターホールから社員が吐き出されてくる。誰もが下を向いてスマートフォンを見ている。その流れに混じりながら、望はひとり立ち止まって空を見上げた。

もう言い訳はできない。そのことが恐ろしいよりも清々しかった。


夜、いつものように商店街に向かう。駅のトイレでネクタイを緩め、ジャケットの一番上のボタンを外す。それだけで体の重心が少し下がる気がした。

角を曲がると黒田が立っていた。いつものように紫煙をくゆらせている。街灯の光の中で煙が細く揺れ、すぐに夜の空気に溶けた。


「……言うたか?」

黒田が煙草の火を携帯灰皿に押し込みながら聞いた。

「いいえ」

望は首を横に振った。

「辞める、とは言いませんでした」


黒田は一瞬きょとんとして、それから鼻で笑った。

「中途半端に、残ったか」

「はい。評価されない仕事を会社でも引き受けることにしました」

望は続けた。

「裏方を選びました。誰かがやらなきゃいけない、名前のない仕事を」


黒田はじっと望を見た。街灯の光が横顔を照らしている。値踏みするような間があって、やがてニヤリと口角を上げた。

「ほな……まだ『ブラック』やな」

「はい」


望は笑った。会社でも商店街でも、評価されない仕事を引き受ける。楽な道ではなく泥臭い道を行く。それが自分の選んだことだ。


黒田が歩き出した. 望もその隣に並ぶ。二人分の足音が石畳の上に重なった。

「ブラック企業」という言葉が、望の胸の中でゆっくりと形を変えていく。搾取される場所ではなく、誰かの傍を楽にするために自分を使う覚悟のことだと、今ならそう言える気がした。


通りに並ぶシャッターが、夜の光を鈍く反射している。望はその先を見ながら、静かに歩き続けた。

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