第38話:望の選択
「で、どうするつもりだ」
上司の声は落ち着いていた。会議室の空調の音だけが低く響いている。窓の外にはビルが並び、その隙間を曇り空が埋めていた。問い詰める調子ではない。プロジェクトリーダーの打診に対する、最終確認だ。
「人事からも聞かれている。最近外の活動が増えている、とな」
上司は手元のタブレットに視線を落としたまま言った。
「業務に支障は出ていない。数字もクリアしている。それは認める。だが、このままリーダーを任せるわけにはいかない。どこかで線を引く必要がある」
望は椅子に深く座り直し、背筋を伸ばした。
辞める。その二文字を用意して来たわけではない。しかし避けては通れない話だと分かっていた。
「……辞める、という話ではありません」
最初に、そう言った。
上司はタブレットから顔を上げ、わずかに眉を上げた。
「ほう。ではリーダーを引き受けると?」
「いいえ」
望は真っすぐに上司を見た。
「会社の仕事は続けます。ただし、比重の配分を調整したいと考えています」
「調整?」
「評価に直結する『フロント業務』からは、一度外してください」
望は続けた。
「代わりに運用保守や、システムの裏方の業務を引き受けます。誰もやりたがらない、数字になりにくい仕事です。ですが、誰かがやらなければシステムが止まる。確実に必要な仕事です」
上司は、すぐには答えなかった。指でデスクを軽く叩く音が規則的に響く。その音を聞きながら、望は自分の膝の上で手をじっと開いていた。震えてはいない。それだけを確認する。
「……左遷を、自ら望むということか?」
「言葉を選ばずに言えば、そうです」
「なぜだ?」
短い問い。理由を聞かれている。望は一瞬だけ迷った。地域貢献だの、自己成長だの、綺麗な言葉はいくらでもある。目先の利益ではない、別の場所にある実感を守るための決断だった。
「今のフロントの仕事は、僕がやらなくても回ります。代わりはいます」
望はもう一度息を吸った。
「ですが、今関わっている場所では……自分が抜けると困る人がいます。代わりがいないんです」
「それは会社の利益ではないな」
「はい」
即答だった。
重苦しい沈黙が部屋を満たす。上司は腕を組み、天井を仰いだ。空調の音だけが変わらず続いている。
「分かっていると思うが」
上司は淡々と続けた。
「評価は下がるぞ。ボーナスも減る。同期が昇進していくのを、指をくわえて見ることになる」
「承知しています」
「キャリアに傷がつく。後になって『やっぱり戻りたい』と言っても、席はない」
「分かっています」
「……後悔は、しないか?」
望は少しだけ考えた。
華やかなプロジェクト。昇給。同期と並んで歩いていくはずだった、安定した未来。それらを手放す恐怖がないと言えば、嘘になる。夜中にふと目が覚めて、後悔するかもしれない。そういう夜が来ることは分かっていた。
「後悔は、すると思います」
正直に答えた。
「でも、ここで選ばなかったことを後悔する方が、きっと大きい」
上司は望の目を見た。そこには、かつてのような「指示待ち」の色も「迷い」の色もなかった。あるのは、自分の足で立つ覚悟だけだ。
上司は、深いため息をついた。
「……自ら『損な役回り』を買って出るとはな」
呆れたような、けれど微かに笑っているような声だった。
「合理的で優秀な君にしては、随分と効率の悪い選択だ。……扱いにくい『確信犯』だよ、君は」
その言葉に、望の頬が緩んだ。決して褒め言葉ではない。しかし拒絶でもない。自分の意志を持つ部下として、認められた証だった。
「分かった」
上司は椅子から立ち上がった。
「配置転換の手続きを進める。ただし期限は設ける。半年だ。その間に裏方としての成果を見せろ。数字でなくていい。だが『意味のある仕事』だと示せ」
それは猶予であり、最後の温情だった。
「ありがとうございます」
深く頭を下げる。
会社を出ると、外の空気が冷たかった。曇っていたはずの空が、いつの間にか少し高く見えた。息を吸うたびに肺の奥まで冷気が届く。会社を辞めてはいない。会社員という立場は残った。しかし出世コースという「戻り道」は、自らの手で閉ざした。
エレベーターホールから社員が吐き出されてくる。誰もが下を向いてスマートフォンを見ている。その流れに混じりながら、望はひとり立ち止まって空を見上げた。
もう言い訳はできない。そのことが恐ろしいよりも清々しかった。
夜、いつものように商店街に向かう。駅のトイレでネクタイを緩め、ジャケットの一番上のボタンを外す。それだけで体の重心が少し下がる気がした。
角を曲がると黒田が立っていた。いつものように紫煙をくゆらせている。街灯の光の中で煙が細く揺れ、すぐに夜の空気に溶けた。
「……言うたか?」
黒田が煙草の火を携帯灰皿に押し込みながら聞いた。
「いいえ」
望は首を横に振った。
「辞める、とは言いませんでした」
黒田は一瞬きょとんとして、それから鼻で笑った。
「中途半端に、残ったか」
「はい。評価されない仕事を会社でも引き受けることにしました」
望は続けた。
「裏方を選びました。誰かがやらなきゃいけない、名前のない仕事を」
黒田はじっと望を見た。街灯の光が横顔を照らしている。値踏みするような間があって、やがてニヤリと口角を上げた。
「ほな……まだ『ブラック』やな」
「はい」
望は笑った。会社でも商店街でも、評価されない仕事を引き受ける。楽な道ではなく泥臭い道を行く。それが自分の選んだことだ。
黒田が歩き出した. 望もその隣に並ぶ。二人分の足音が石畳の上に重なった。
「ブラック企業」という言葉が、望の胸の中でゆっくりと形を変えていく。搾取される場所ではなく、誰かの傍を楽にするために自分を使う覚悟のことだと、今ならそう言える気がした。
通りに並ぶシャッターが、夜の光を鈍く反射している。望はその先を見ながら、静かに歩き続けた。




