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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第5章】選ばないという選択 ―正しさの外側に立つ―
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第37話:選択

次の朝、望は目覚ましのアラームが鳴る数分前に目が覚めた。

眠れなかったわけではない。体が勝手に今日という日を警戒しているようだった。


カーテン越しの光が薄く部屋を満たしている。いつもと変わらない平日の朝。

いつもと違うのは、胸の奥に鉛を飲み込んだような重さがあることだった。


機械的に体を動かす。顔を洗う。歯を磨く。コーヒーを流し込む。スーツに袖を通す。ネクタイを締める。社員証を首にかける。

鏡の中には、昨日と同じ「会社員」が立っている。

完璧な擬態だ。それなのに中身だけが、決定的に変質してしまった気がした。


玄関のドアを開け、外に出る。駅へと向かう道は、スーツ姿の群れで埋め尽くされている。

実際、電車を使わなくても会社には行ける。なにせ一駅しか電車には乗らないからだ。

しかし朝から商店街を通ることには、以前から抵抗があった。


以前は商店街の雰囲気が、これから仕事へ向かうモチベ―ションを下げる気がしていたからだ。しかし今は違う。どちらか一方の比重を大きくすることは、自らの今後の判断に影響を及ぼす気がしたからだ。


最寄り駅までの道中は、誰もが前だけを見て同じ歩調で進んでいく。

望もまた、その巨大な流れの一滴として流れている。


駅が見えてくる。自動改札機の電子音が遠くから聞こえる。

日常への入り口。戻れる場所へのゲート。


改札を目の前にしたその時、ポケットの中で携帯が震えた。

会社からではない。登録してある商店街の集会所の固定電話だった。

咄嗟に足を止める。背後に並んでいた人が、舌打ちをして望を避けていく。


「……はい、高井です」

『あ、高井さんか。朝早くにすまん』


町会役員の焦った声だった。


『今日、ちょっと……集まれますか』

『役所に出す書類のことで揉めてしもうて。あんたがおらんと、どうにもならんのや』


理由は聞かなくても分かった。

彼らにとって、望はもう「外部の協力者」ではない。「システムの一部」なのだ。


行けば何かを求められる。時間を、知恵を、労力を。

それは会社員としての自分のリソースを削り取る行為だ。


改札の向こうには、約束された将来がある。

電話の向こうには、泥臭いトラブルがある。


『無理ならええんや。仕事やろ?』

役員は気を使って言った。


「……」

望は駅の時計を見上げた。


あと十分で電車に乗らなければ、会社に遅刻する。一歩改札に向けて踏み出せば会社だ。

「すみません、行けません」と言えば、すべて丸く収まる。


どちらも間違いではない。むしろ会社に行く方が「正しい」。

しかし決断しないまま流れに乗れば、自分の中の大事な何かが死ぬ気がした。


望は深く息を吸い込んだ。

肺の中の空気をすべて入れ替えるように。


黒田の言葉が頭をよぎる。

――理由を決めたら、戻れんぞ。


理由は、まだ言葉にならない。

「好きだから」なんて綺麗な言葉では説明できない。

でも体はもう、答えを知っていた。


「……行きます」

望は答えた。


『え? 仕事は』

「これから、向かいます」


通話を切る。目の前では自動改札機が開いている。

ICカードをかざせば、いつもの日常が続く。


望は、踵を返した。改札を通らなかったのだ。

駅を背にして、流れに逆らうように歩き出した。


決して派手な決断の場面ではない。誰かに宣言したわけでもない。

ただ足が向いた方へ進んだ。それだけの動きだが、確かに人生の分岐点だった。


商店街に着くと集会所の灯りが点いていた。

朝の静けさの中、そこだけが熱を帯びている。


扉を開ける。役員、店主たち、数人が頭を抱えて書類を囲んでいた。

望の顔を見た瞬間、その表情が一気に緩んだ。


「来てくれて、ありがとう」

「無理言うて、すまんな」

「助かったわ……」


安堵の声。その響きが望の冷えた体を内側から温める。

望は上着を脱いで席に着いた。


話の内容は、町全体を揺るがすような大事ではなかった。書類の不備。手続きの混乱。

誰かが整理すれば、すぐに解決することだ。

でも、彼らにはそれができない。そして望にはできる。


一通り整理がついた頃、役員が申し訳なさそうに言った。


「正直に言うとな……」

役員は、視線を落とした。


「高井さんがおらんと、もう回らんのや」

「ワシらだけじゃ、この新しい仕組みは支えきれん」


その言葉は重かった。期待であり、甘えであり、そして依存でもあった。

これを許せば、望は際限なく搾取されることになるかもしれない。


「でもな」

役員が顔を上げた。


「それを当たり前にしたら、あかんことも分かっとる」

「あんたにはあんたの生活がある。無理はさせられん」


望は救われた気がした。彼らもまた葛藤しているのだ。

ただ利用しようとしているわけではない。


「ありがとうございます」

望は、一度気持ちを落ち着かせてゆっくりと話した。


「全部は、できません」

「会社の仕事もあります。生活もあります」


「ただ……」

一度、言葉を切る。そして全員の目を見る。


「ここを放っておくつもりも、ありません」


静寂が、望の次の言葉を待っている。


「だから、選びます」


その言葉を口にした瞬間、胸の奥のつかえが取れた。


「自分がやることと、やらないことを僕が決めます」

「言われたからやるんじゃなく、必要だと思うことだけをやります」

「一人で抱えない。できることだけをやる。その代わり……途中で投げ出しません」


それは以前からやってきたことの延長だ。でも今は覚悟の質が違う。

流されてここにいるのではない。自分の意思で改札を背にして、ここに座っている。


タイミング良く扉が開き、黒田が入ってきた。遅れての登場だ。

状況を一目見て、すべてを悟ったような顔をした。もしくは立ち聞きしていたのかもしれない。


「……やっと、腹くくったか」

からかうような、けれど温かい口調。


望は黒田を見て頷いた。

「はい」


それだけで、十分だった。

選んだのは「会社か、商店街か」という場所の話ではない。

「誰のはたを楽にするか」それを組織や常識に委ねず、自分で決めること。

それが、望が出した「選択」の答えだった。


「ほな、始めよか」

黒田がパイプ椅子を引き寄せた。


望は、その隣に腰を下ろした。

会社には、そろそろ連絡を入れなければならない。

おそらく叱責されるだろう。評価も地に落ちるだろう。


だからと言って戻れなくなったわけではない。

しかし戻らない理由が今、確かな形を持ってここにあった。


望はペンを握り直し、書類に向き合った。

その横顔には、もう迷いはなかった。



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