第37話:選択
次の朝、望は目覚ましのアラームが鳴る数分前に目が覚めた。
眠れなかったわけではない。体が勝手に今日という日を警戒しているようだった。
カーテン越しの光が薄く部屋を満たしている。いつもと変わらない平日の朝。
いつもと違うのは、胸の奥に鉛を飲み込んだような重さがあることだった。
機械的に体を動かす。顔を洗う。歯を磨く。コーヒーを流し込む。スーツに袖を通す。ネクタイを締める。社員証を首にかける。
鏡の中には、昨日と同じ「会社員」が立っている。
完璧な擬態だ。それなのに中身だけが、決定的に変質してしまった気がした。
玄関のドアを開け、外に出る。駅へと向かう道は、スーツ姿の群れで埋め尽くされている。
実際、電車を使わなくても会社には行ける。なにせ一駅しか電車には乗らないからだ。
しかし朝から商店街を通ることには、以前から抵抗があった。
以前は商店街の雰囲気が、これから仕事へ向かうモチベ―ションを下げる気がしていたからだ。しかし今は違う。どちらか一方の比重を大きくすることは、自らの今後の判断に影響を及ぼす気がしたからだ。
最寄り駅までの道中は、誰もが前だけを見て同じ歩調で進んでいく。
望もまた、その巨大な流れの一滴として流れている。
駅が見えてくる。自動改札機の電子音が遠くから聞こえる。
日常への入り口。戻れる場所へのゲート。
改札を目の前にしたその時、ポケットの中で携帯が震えた。
会社からではない。登録してある商店街の集会所の固定電話だった。
咄嗟に足を止める。背後に並んでいた人が、舌打ちをして望を避けていく。
「……はい、高井です」
『あ、高井さんか。朝早くにすまん』
町会役員の焦った声だった。
『今日、ちょっと……集まれますか』
『役所に出す書類のことで揉めてしもうて。あんたがおらんと、どうにもならんのや』
理由は聞かなくても分かった。
彼らにとって、望はもう「外部の協力者」ではない。「システムの一部」なのだ。
行けば何かを求められる。時間を、知恵を、労力を。
それは会社員としての自分のリソースを削り取る行為だ。
改札の向こうには、約束された将来がある。
電話の向こうには、泥臭いトラブルがある。
『無理ならええんや。仕事やろ?』
役員は気を使って言った。
「……」
望は駅の時計を見上げた。
あと十分で電車に乗らなければ、会社に遅刻する。一歩改札に向けて踏み出せば会社だ。
「すみません、行けません」と言えば、すべて丸く収まる。
どちらも間違いではない。むしろ会社に行く方が「正しい」。
しかし決断しないまま流れに乗れば、自分の中の大事な何かが死ぬ気がした。
望は深く息を吸い込んだ。
肺の中の空気をすべて入れ替えるように。
黒田の言葉が頭をよぎる。
――理由を決めたら、戻れんぞ。
理由は、まだ言葉にならない。
「好きだから」なんて綺麗な言葉では説明できない。
でも体はもう、答えを知っていた。
「……行きます」
望は答えた。
『え? 仕事は』
「これから、向かいます」
通話を切る。目の前では自動改札機が開いている。
ICカードをかざせば、いつもの日常が続く。
望は、踵を返した。改札を通らなかったのだ。
駅を背にして、流れに逆らうように歩き出した。
決して派手な決断の場面ではない。誰かに宣言したわけでもない。
ただ足が向いた方へ進んだ。それだけの動きだが、確かに人生の分岐点だった。
商店街に着くと集会所の灯りが点いていた。
朝の静けさの中、そこだけが熱を帯びている。
扉を開ける。役員、店主たち、数人が頭を抱えて書類を囲んでいた。
望の顔を見た瞬間、その表情が一気に緩んだ。
「来てくれて、ありがとう」
「無理言うて、すまんな」
「助かったわ……」
安堵の声。その響きが望の冷えた体を内側から温める。
望は上着を脱いで席に着いた。
話の内容は、町全体を揺るがすような大事ではなかった。書類の不備。手続きの混乱。
誰かが整理すれば、すぐに解決することだ。
でも、彼らにはそれができない。そして望にはできる。
一通り整理がついた頃、役員が申し訳なさそうに言った。
「正直に言うとな……」
役員は、視線を落とした。
「高井さんがおらんと、もう回らんのや」
「ワシらだけじゃ、この新しい仕組みは支えきれん」
その言葉は重かった。期待であり、甘えであり、そして依存でもあった。
これを許せば、望は際限なく搾取されることになるかもしれない。
「でもな」
役員が顔を上げた。
「それを当たり前にしたら、あかんことも分かっとる」
「あんたにはあんたの生活がある。無理はさせられん」
望は救われた気がした。彼らもまた葛藤しているのだ。
ただ利用しようとしているわけではない。
「ありがとうございます」
望は、一度気持ちを落ち着かせてゆっくりと話した。
「全部は、できません」
「会社の仕事もあります。生活もあります」
「ただ……」
一度、言葉を切る。そして全員の目を見る。
「ここを放っておくつもりも、ありません」
静寂が、望の次の言葉を待っている。
「だから、選びます」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥のつかえが取れた。
「自分がやることと、やらないことを僕が決めます」
「言われたからやるんじゃなく、必要だと思うことだけをやります」
「一人で抱えない。できることだけをやる。その代わり……途中で投げ出しません」
それは以前からやってきたことの延長だ。でも今は覚悟の質が違う。
流されてここにいるのではない。自分の意思で改札を背にして、ここに座っている。
タイミング良く扉が開き、黒田が入ってきた。遅れての登場だ。
状況を一目見て、すべてを悟ったような顔をした。もしくは立ち聞きしていたのかもしれない。
「……やっと、腹くくったか」
からかうような、けれど温かい口調。
望は黒田を見て頷いた。
「はい」
それだけで、十分だった。
選んだのは「会社か、商店街か」という場所の話ではない。
「誰の傍を楽にするか」それを組織や常識に委ねず、自分で決めること。
それが、望が出した「選択」の答えだった。
「ほな、始めよか」
黒田がパイプ椅子を引き寄せた。
望は、その隣に腰を下ろした。
会社には、そろそろ連絡を入れなければならない。
おそらく叱責されるだろう。評価も地に落ちるだろう。
だからと言って戻れなくなったわけではない。
しかし戻らない理由が今、確かな形を持ってここにあった。
望はペンを握り直し、書類に向き合った。
その横顔には、もう迷いはなかった。




