第36話:線を越える前夜
その日は拍子抜けするほど特別なことは何も起きなかった。
プレゼンの資料は承認され進捗会議も予定通り終わった。評価もなければ叱責もない。自分が「優秀な社員」という役を演じているような、薄い膜越しの感覚だけがオフィスの蛍光灯の下に漂っていた。
「中途半端だな」
デスクを片付けながら望は自嘲気味に呟いた。開いたままのカバンの中に会社の機密書類が入ったクリアファイルと、商店街の殴り書きのメモが混在している。両立している、と言えば聞こえはいい。だがどちら側から見ても今の自分は「心ここにあらず」だろう。アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような疲労感が、澱のように溜まっていた。
仕事帰りの夜、商店街に向かう。
午後八時。まだ何店舗かは開いていてもいい時間だ。しかし通りを歩くと店の明かりがいくつか歯抜けのように消えている。定休日ではない。早仕舞いだ。理由は聞かなくても痛いほど分かる。高齢の店主の体力低下。雇えないアルバイト。あるいは客が来ないことへの徒労感。シャッターという瞼を閉じて、眠るしかない町。
「こんばんは」
半分だけシャッターが下りた文具店の前で、望は声をかけた。返事は少し遅れて、奥から聞こえてきた。
「……おう、高井さんか」
顔を出したのは、腰の曲がった店主だった。手には重そうな在庫の段ボールを抱えている。店の奥から古い紙と埃の匂いが漂ってきた。
「今日は、早いですね」
「ああ……もう、体が無理や」
店主は笑っていたが、その笑顔は乾いたスポンジのようにカサついていた。
「明日も早いしな. 今日はもう閉めるわ」
「手伝いましょうか。在庫整理とか」
望は思わず聞いた。ITのスキルはいらない。ただの力仕事なら自分にもできる。だが店主は首を横に振った。
「ええよ。人に頼めるほど金になるような仕事はない」
その言葉が望の胸に棘のように刺さった。仕事として成立しない。時給を払えるほどの利益がない。だから外注もできないし雇用も生まれない。「名前のない仕事」以前に、「値段のつかない仕事」なのだ。
「……すみません」
それ以上何も言えなかった。
通りを進む。他にも同じような店がある。閉める理由はそれぞれ違うが結果は同じだ。
静寂が虫食いのように広がっていく。誰も悪くない。誰もサボっていない。ただ限界が来ているだけで、それが一番厄介だった。
黒田はその夜、姿を見せなかった。
いつもの自販機の前にも公園のベンチにもいない。連絡もない。これまでも黒田がふらりと消えることはあった。だが今夜は何かが違った。
望は通りの真ん中で立ち止まり、自分がすでに周囲を見回していることに気づいた。「黒田がいないなら誰が面倒を見るんだ?」という問いが、考えるより先に体の中にあった。ボランティアでもない。外部のコンサルタントでもない。「自分がここに居る」という前提で、異常がないかを探している。その自覚が足裏から冷たく這い上がってきた。
そのときポケットの中で、スマホが震えた。
登録してある惣菜屋の番号だった。
「……はい、高井です」
『高井さんか? 今、近くにおるか?』
店主の声が切迫している。
『すまん、ちょっと手を貸してくれ。水道が止まらんのや。パッキンか何かやと思うんやけど、ワシじゃどうにもならんで……店中、水浸しや』
大事ではない。火事でも強盗でもないただの水漏れだ。業者を呼べばいい。だがこの時間の業者は高い。そして彼らがその出費をどれだけ痛手と感じるかを、望は知っていた。
腕時計を見た。夜の九時前。明日は朝から重要な会議がある。濡れればスーツも汚れる。
「業者を呼んでください」と言うのが、社会人としての正解だ。「黒田さんに連絡します」と言うのが、これまでの逃げ道だ。今夜はその逃げ道がない。
望は歩き出した。足が思考よりも先に動いていた。
惣菜屋の裏口が開いていた。
「こっちや!」
店主が雑巾を握りしめて困り果てた顔で立っていた。床は水浸しで古いシンクの下から水が噴き出している。白っぽい蛍光灯の光が、濡れた床に反射してぎらついていた。
「元栓は?」
「固くて回らんのや!」
望は上着を脱いで放り投げた。シャツの袖をまくりシンクの下に潜り込む。冷たい水が容赦なく顔にかかった。錆びついたバルブに両手をかけ全体重を込める。配管のヌメリが手にまとわりつく。
「……くっ」
キッ、と金属が擦れる音がして水の勢いが止まった。
安堵と共に静寂が戻る。残っているのは水滴の落ちる音と、二人の荒い息遣いだけだった。
「……止まった」
望は濡れた髪をかき上げて這い出した。店主が、へなへなとその場に座り込む。
「助かった……ほんまに、助かったわ。お高い業者呼ばなアカンかと思うて、目の前真っ暗やったわ」
感謝されたからではなかった。「間に合った」という手触りのある安堵がそこにあった。修理自体は大したことではない。ただバルブを閉めただけで誰にでもできることだ。でも今夜ここにいたのは、自分だけだった。
「すまんな、こんなことまでさせて」
店主がタオルを渡してくれる。望は首を振った。
「たまたま、近くにいましたから」
帰り道、濡れたシャツを夜風が通り抜けた。冷たかった。それでも頭は恐ろしいほど冴えていた。
これは誰の仕事だ。会社の仕事ではない。町の予算が出る仕事でもない。黒田に頼まれたわけでもない。それでも体が動いた. 考えるより先に足が向いていた。
こちら側とあちら側の線は、まだ越えていない。明日になればまたスーツを着て、涼しいオフィスに出社する。それは変わらない。
ただ重心がどちらに傾いているかだけは、もう分かっていた。
望はビルの隙間から見える狭い夜空を見上げた。濡れた手のひらを、ゆっくりと握りしめた。




