第35話:理由を問われる
「で?」
準備運動もなく、問いは投げられた。
会議室のガラス越しに、オフィスの喧騒が見える。電話をかけながら歩く同僚、モニターに顔を近づけてコードを読む後輩。いつもと変わらない昼下がりの風景が、薄いガラス一枚の向こうで続いていた。
「君はなぜ、そっちに時間を使っているんだ」
直属の上司だった。責めるような剣幕ではない。むしろ不可解なバグの原因を特定しようとするような、冷静で分析的な口調だ。それがかえって答えづらかった。
「業務外の活動だ。会社が口を出す権利はない。それは分かっている」
上司は手元のボールペンを指の間でゆっくりと回しながら続けた。
「君は合理的な人間だ。無駄を嫌い、効率を愛し、最短距離で成果を出す。そういう評価でここまで来た。その君が金にもならず、評価にも繋がらない場所にリソースを割いている。純粋に分からないんだ。その動機と熱意、何が君をそうさせるのかが」
――理由
望は喉の奥で言葉を詰まらせた。頭の中には模範解答がいくつも浮かぶ。
「地域貢献を通じた社会勉強です」「多様な価値観に触れるための越境学習です」「マネジメントスキルの向上に役立っています」——どれも面接なら満点の答えだ。
確かに嘘ではない。しかし、どれも核心ではない。そんな綺麗な言葉で飾れるほど、あの商店街の夜は軽くなかった。
「……理由は」
言いかけて止まる。上司は急かさない。ただじっと、データが出てくるのを待っている。
「数字で説明しろとは言わない。ロジックが破綻していてもいい。ただ、君本人の言葉で聞きたい。君をそこまで駆り立てるものは、何だ?」
望は視線をデスクの木目に落とした。薄い傷が何本か走っている。誰かがここで何年も仕事をして、その痕が残っている。理由が言えないのは理由がないからではない。
むしろ逆だ。あまりにも重すぎて、言語化すると今の生活が壊れてしまう気がした。
「……今は、はっきりとは言えません」
正直にそう答えた。会議室が真空になったように静まり返る。
「分からないのか」
「いいえ」
望は顔を上げた。
「分かってしまうのが、怖いんです」
口から出た言葉に自分でも驚いた。上司はボールペンを回す手を止め片眉を上げる。
「怖い? どういう意味だ」
望は深く息を吸い込んだ。肺の奥に入った空気が、震える心臓を少しだけ鎮める。
「理由を言葉にすると、今の働き方がただの『状態』ではなく『選択』になってしまいます。選択にすると責任が生まれる。どちらかを捨てなければならなくなる」
それは逃げ口上にも聞こえる。優柔不断な人間の甘えた言い訳だ。だが今の望にとって、これ以上の真実はなかった。
「今は両立しているつもりです。でも理由を定義してしまったら、もう『なんとなく』では続けられなくなる。会社か商店街か、どちらが自分の人生なのか決めなければならなくなる」
上司はしばらく黙っていた。値踏みするような目ではなく、珍しい生き物を見るような目で望を見ていた。
「……君は、それを『逃げ』だとは思わないか」
鋭利なナイフのように痛い問いだった。望は首を振った。
「いいえ. 考えています。選ばない、という形で。保留し続けることで、両方の場所に立っていたいんです。……今はまだ」
上司は小さく息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。
「厄介だな」
苦笑に近い表情だった。
「逃げ口上を並べられるよりは信用できる」
上司は立ち上がり会議の終了を告げた。
「期限は決めない。ただし、本業のパフォーマンスが落ちれば話は変わる。プロジェクトリーダーの件も保留にしておく」
現実的な、そして温情のある結論だった。
「ありがとうございます」
会議室を出た瞬間、肩の力が一気に抜けた。その場に座り込みそうになりながら、望はオフィスのざわめきに戻っていく。冷や汗がシャツの背中に張り付いていた。
その夜、望は逃げるように商店街へ向かった。駅のトイレでネクタイを外し会社のIDカードをカバンの奥底にしまい込む。「優秀な社員」の顔を剥がして「名前のない協力者」の顔に切り替える、いつもの儀式だ。それをしている間、鏡の中の自分がひどく他人に見えた。
商店街の入り口、電柱の影に黒田が立っていた。待ち合わせをしたわけではない。それでもなぜか居ると分かっていた。タバコの煙が冷えた夜気にゆっくりと溶けていく。
「……聞かれたか?」
「はい」
「理由か?」
「はい」
短い問いの連なり。すべてお見通しだ、という空気がある。望は少し考えてから答えた。
「答えられませんでした。……怖くて、言えませんでした」
黒田は、鼻で笑った。フン、という短い音だけ。
「ほな、まだ途中や」
否定でも肯定でもない。ただの現在地確認だった。
「理由が言えるようになったら、それはもう『こっち側』の人間や」黒田は吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ。「そのときは覚悟ができとるはずや。戻る橋を焼く覚悟がな」
望は夜の通りを見渡した。シャッターの閉まった店。薄暗い街灯に照らされた石畳。金にもならず評価もされない場所が、それでも体に馴染んでいる。
まだ理由は言葉にならない。「好きだから」とも違う。「義理」とも違う。ただここに来る理由が消えていないことだけは、痛いほど分かっていた。
上司の問いは逃げ道を塞いだ。同時に、進むべき方向を薄っすらと照らしてしまった。望はその頼りない光の中に立ちながら、夜風が首筋を撫でるのを黙って感じていた。




