表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第5章】選ばないという選択 ―正しさの外側に立つ―
35/52

第35話:理由を問われる

「で?」

準備運動もなく、問いは投げられた。

会議室のガラス越しに、オフィスの喧騒が見える。電話をかけながら歩く同僚、モニターに顔を近づけてコードを読む後輩。いつもと変わらない昼下がりの風景が、薄いガラス一枚の向こうで続いていた。


「君はなぜ、そっちに時間を使っているんだ」

直属の上司だった。責めるような剣幕ではない。むしろ不可解なバグの原因を特定しようとするような、冷静で分析的な口調だ。それがかえって答えづらかった。


「業務外の活動だ。会社が口を出す権利はない。それは分かっている」

上司は手元のボールペンを指の間でゆっくりと回しながら続けた。


「君は合理的な人間だ。無駄を嫌い、効率を愛し、最短距離で成果を出す。そういう評価でここまで来た。その君が金にもならず、評価にも繋がらない場所にリソースを割いている。純粋に分からないんだ。その動機と熱意、何が君をそうさせるのかが」


――理由

望は喉の奥で言葉を詰まらせた。頭の中には模範解答がいくつも浮かぶ。

「地域貢献を通じた社会勉強です」「多様な価値観に触れるための越境学習です」「マネジメントスキルの向上に役立っています」——どれも面接なら満点の答えだ。

確かに嘘ではない。しかし、どれも核心ではない。そんな綺麗な言葉で飾れるほど、あの商店街の夜は軽くなかった。


「……理由は」

言いかけて止まる。上司は急かさない。ただじっと、データが出てくるのを待っている。


「数字で説明しろとは言わない。ロジックが破綻していてもいい。ただ、君本人の言葉で聞きたい。君をそこまで駆り立てるものは、何だ?」


望は視線をデスクの木目に落とした。薄い傷が何本か走っている。誰かがここで何年も仕事をして、その痕が残っている。理由が言えないのは理由がないからではない。

むしろ逆だ。あまりにも重すぎて、言語化すると今の生活が壊れてしまう気がした。


「……今は、はっきりとは言えません」

正直にそう答えた。会議室が真空になったように静まり返る。


「分からないのか」

「いいえ」

望は顔を上げた。


「分かってしまうのが、怖いんです」

口から出た言葉に自分でも驚いた。上司はボールペンを回す手を止め片眉を上げる。


「怖い? どういう意味だ」

望は深く息を吸い込んだ。肺の奥に入った空気が、震える心臓を少しだけ鎮める。


「理由を言葉にすると、今の働き方がただの『状態』ではなく『選択』になってしまいます。選択にすると責任が生まれる。どちらかを捨てなければならなくなる」


それは逃げ口上にも聞こえる。優柔不断な人間の甘えた言い訳だ。だが今の望にとって、これ以上の真実はなかった。


「今は両立しているつもりです。でも理由を定義してしまったら、もう『なんとなく』では続けられなくなる。会社か商店街か、どちらが自分の人生なのか決めなければならなくなる」


上司はしばらく黙っていた。値踏みするような目ではなく、珍しい生き物を見るような目で望を見ていた。


「……君は、それを『逃げ』だとは思わないか」

鋭利なナイフのように痛い問いだった。望は首を振った。

「いいえ. 考えています。選ばない、という形で。保留し続けることで、両方の場所に立っていたいんです。……今はまだ」


上司は小さく息を吐き、椅子の背もたれに体を預けた。

「厄介だな」

苦笑に近い表情だった。


「逃げ口上を並べられるよりは信用できる」

上司は立ち上がり会議の終了を告げた。

「期限は決めない。ただし、本業のパフォーマンスが落ちれば話は変わる。プロジェクトリーダーの件も保留にしておく」


現実的な、そして温情のある結論だった。

「ありがとうございます」

会議室を出た瞬間、肩の力が一気に抜けた。その場に座り込みそうになりながら、望はオフィスのざわめきに戻っていく。冷や汗がシャツの背中に張り付いていた。


その夜、望は逃げるように商店街へ向かった。駅のトイレでネクタイを外し会社のIDカードをカバンの奥底にしまい込む。「優秀な社員」の顔を剥がして「名前のない協力者」の顔に切り替える、いつもの儀式だ。それをしている間、鏡の中の自分がひどく他人に見えた。


商店街の入り口、電柱の影に黒田が立っていた。待ち合わせをしたわけではない。それでもなぜか居ると分かっていた。タバコの煙が冷えた夜気にゆっくりと溶けていく。


「……聞かれたか?」

「はい」

「理由か?」

「はい」

短い問いの連なり。すべてお見通しだ、という空気がある。望は少し考えてから答えた。

「答えられませんでした。……怖くて、言えませんでした」


黒田は、鼻で笑った。フン、という短い音だけ。

「ほな、まだ途中や」


否定でも肯定でもない。ただの現在地確認だった。

「理由が言えるようになったら、それはもう『こっち側』の人間や」黒田は吸い殻を携帯灰皿に押し込んだ。「そのときは覚悟ができとるはずや。戻る橋を焼く覚悟がな」


望は夜の通りを見渡した。シャッターの閉まった店。薄暗い街灯に照らされた石畳。金にもならず評価もされない場所が、それでも体に馴染んでいる。


まだ理由は言葉にならない。「好きだから」とも違う。「義理」とも違う。ただここに来る理由が消えていないことだけは、痛いほど分かっていた。


上司の問いは逃げ道を塞いだ。同時に、進むべき方向を薄っすらと照らしてしまった。望はその頼りない光の中に立ちながら、夜風が首筋を撫でるのを黙って感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ