第34話:戻れる場所
メールは昼休みの終わり、オフィスの喧騒が熱を取り戻し始めた頃に届いた。
デスクトップの右下にポップアップ通知が無機質に浮かび上がる。
差出人は直属の上司。毎日顔を合わせ進捗という名の数字を報告し合っている相手だ。
『今後のキャリアについて』
業務連絡にしては異質な短すぎる件名。本文には夕方の会議室指定だけが記されていた。
内容は容易に想像がついた。最近の自分は、定時を過ぎると脱皮するように退社している。残業はせず、付き合いの飲み会も断る。業務に穴は空けていないが組織への「コミットメント」が低下しているのは、誰の目にも明らかだった。
夕方のミーティングルーム。
ガラスで仕切られた空間は空調が完璧に制御され、外部のノイズを遮断した無菌室のようだった。
「単刀直入に言うよ」
上司はタブレットを指先で滑らせ、輝度の高い画面を見せた。
「来期からのDXプロジェクト、君をリーダーに推したいと思っている」
それは、あちら側の世界における「正当な評価」だった。
給与ランクの上昇、裁量権の拡大。ITエンジニアとして磨き上げてきた論理と調整能力が、ようやく市場価値として結晶化しようとしている。
「君の代わりになる人間は、今のチームにはいない」
代わりがいない。かつて黒田に言われた言葉と同じ響き。
だが、ここではスキルという交換可能なパーツに対する「性能評価」としてその言葉が贈られる。
「ただ」
上司は、わずかに声を落とした。
「最近、外の活動が多いようだな。商店街のボランティアか何かか。バランスが崩れているように見える」
望は否定せず、事実だけを肯定した。
「個人の活動を制限するつもりはない。だが、リーダーは別だ。プロジェクトにフルコミットしてもらいたい。責任の重さが変わるんだ」
条件は明快だった。
頑張れば報われ数字を出せば賞賛される。インピーダンスが整合した効率の良い世界。
「君のキャリアにとっても、ここが勝負所だ」
「……検討します」
会議室を出るとオフィスのLED照明が白々しく網膜を刺した。
ここには「戻れる場所」がある。泥臭い交渉も、定義できない雑用もない。
ただシステムを最適化し期待された出力を出し続ければいい。それが自分の最も得意なはずの領域だ。
その夜、望は商店街を歩いた。
スーツの上着を指に掛けネクタイを緩める。
誰の命令でもないし、評価も日報も存在しない。それでも足は重力に引かれるようにこの通りに向いていた。
通りの向こうから黒田が歩いてくる。望の服装を見て、黒田は一瞬だけ目を細めた。
「会社か」
「……はい」
「言われたか。本線に戻れと」
黒田は歩調を緩めない。同情も引き止めもしない。
その冷淡さが今は心地よかった。
「言われるうちは、ええ。期待されとる証拠や」
「条件の良いポジションを提示されました。今の活動を控えるなら、評価すると」
望は黒田の背中に向かって問いを投げた。
商店街の端にある自販機の青白い光が、二人の影をアスファルトに長く引き伸ばす。
「戻った方が、いいでしょうか?」
今の活動は予算も停滞し、外部からは「既得権益」と誤解されている。
潮時ではないか?そんな金属疲労のような弱気が喉の奥までせり上がっていた。
黒田は自販機で缶コーヒーを二本買った。
一本を放り投げ、受け取った望の手のひらにアルミの熱が伝わる。
「戻れる場所があるうちはな、まだ決めんでええ」
黒田はプルタブを弾き、低い音を立てて開けた。
「どっちかに決めなアカンと思うな。理由を決めてしもうたら、もう戻れんようになる」
その声は低く重い。
「『これが正義や』なんて立派な旗を立ててしもうたら、もう会社には戻れん。普通の暮らしはできんようになる」
黒田が望を見た。その目はこの「名前のない生き方」を選び、戻る場所を失った男の静かな諦念を帯びていた。
「お前はまだ揺れとれ。どっちも中途半端や。せやけど、それでええ時期や」
中途半端。
会社では上の空、商店街では数字を出せない。今の自分を最も残酷に正確に定義する言葉。
「揺れとるうちは倒れん」
黒田はコーヒーを啜った。
「倒れんかったら、続く」
それは慰めではなく、この澱んだ現実を生き延びるための冷徹な工学的知恵だった。
深夜、アパートに戻りノートパソコンを開く。
左のウィンドウには、会社のDXプロジェクトのロードマップ。
右のウィンドウには、商店街の『傍楽マイレージ』の断片的なメモ。
画面の中で二つのレイヤーが並んでいる。
論理と体温。評価される場所と必要とされる場所。
どちらも自分を構成する変数だ。どちらかを切り捨てればシステムとしての自分は不全を起こす。
望は返信メールの下書きを保存し、静かに液晶を閉じた。
選ばないという選択を今は「仮置き」する。
中途半端なまま揺れ続ける。
それが今の自分にできる唯一の不純物を含まない誠実さだと信じて。




