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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第5章】選ばないという選択 ―正しさの外側に立つ―
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第33話:評価されない仕事

結果はすぐには出なかった。

正確には「保留」という名の、緩やかな拒絶が届いた。

デスクに置かれた古いパソコンが、メールの受信を知らせる乾いた電子音を立てる。

モニターに表示された件名は、感情を完全に濾過したビジネス文書のそれだった。


『前回提出資料に関する所感と追加確認事項について』


望はマウスをクリックした。液晶の青白い光が、デスクのスチール天板に冷たく反射する。


「高井様、お疲れ様です。先日の資料を拝見しましたが、前回より分かりにくくなりましたね」


否定の言葉はない。だが、承認の印もそこにはなかった。

『他地区との比較が困難』『成果の説明が不十分』『算出根拠が希薄』。

羅列された専門用語は、組織としての正しさを淡々と補強している。結論として添えられた「慎重な検討が必要」という一文は、事実上の無期限の棚上げを意味していた。


望は深く息を吐いた。キーボードの隙間に溜まった埃が、吐息でわずかに舞い上がる。


スマートフォンが震えた。画面には『県・地域振興課』の文字。

「はい、高井です」

「お疲れ様です。メール、ご確認いただけましたか」

相手の声は丁寧だが、逃げ場を塞ぐような圧があった。


「現場の声はどうなっていますか?」

「……落ち着いています。目立ったトラブルもありません」

望は、自分の言葉があまりに軽く響くのを感じた。


「『落ち着いている』を評価指標にするのは難しいですね」

相手の声には、実務家特有の冷徹な響きが混じる。

「何も起きていないことにお金を払うというのは、説明がつかないんです。ご理解いただけますか」


それは問いではなく、一方的な絶縁の通告だった。

通話が切れた後の無機質な音が、耳の奥にこびりついて離れない。


望は事務椅子に深く身体を沈めた。古いスプリングが不快な金属音を立てて軋む。

天井には雨漏りの跡が、歪な等高線のようにシミとなって残っている。


予算の増額は見送り。現状維持どころか、次年度の予算削減すら示唆された。

評価されない。それは覚悟していたことだ。

だが、自分の存在価値が透明になっていくような感覚は、ボディブローのように遅れて効いてきた。


昼間の自分はITの最前線で、数字こそが全うな正義である世界にいる。アクセス数、成約率、稼働時間。すべてが可視化され、リアルタイムでフィードバックされる。グラフが右肩上がりなら賞賛され、下がれば「バグ」として処理される。


そこから切り離された今、自分は境界線の外側に立っている。


商店街に出ると、いつも通りの午後が流れていた。

和菓子屋の主人が竹箒で路面を掃いている。箒の先がアスファルトを撫でる乾いた音が響く。

角のベンチでは高齢者が二人、中身のない会話に笑い合っている。

自転車がゆっくりと通り過ぎる。前かごの買い物袋が、段差を越えるたびに小さく跳ねる。


問題は起きていない。今日も平和だ。

だが、この平和は報告書のどの欄にも書き込めない。


「高井さん、聞いたで」

惣菜屋の主人が、お玉を鍋の縁にカチンと当てた。湯気の中に油の匂いが混じる。

「予算、渋いらしいな。評価されとらんみたいやな」

「……そうですね。すみません」


望が頭を下げると、主人は笑って首を振った。

「謝ることないわ。ワシらは困っとらん。金になろうがなるまいが、やることは一緒や」


現場は強い。だが、その強さに甘え続けるわけにはいかなかった。

備品の一つも買えない状態が続けば、いずれこの善意は金属疲労を起こして折れる。


「高井さん」

夕暮れ時、町会の役員に呼び止められた。

「予算の話、どうなっとる」

「……厳しいです。僕が、数字を出していないので」


役員は眉間の皺を深くした。街灯が点き始め、オレンジ色の光が二人の影をアスファルトに長く伸ばす。

「数字を出したら通るんか? 嘘をつくわけやないんやろ。実際にやっとることを報告して金がもらえるなら、それが一番ええやないか」


論理としては、完全に整合している。

だが、望は首を振った。

「それをやると、意味が変わります。評価されるための仕事になってしまう」


回数を報告すれば、回数を稼ぐようになる。件数を誇れば、些細な問題を無理やり「事案」として掘り起こす。そうして現場の「余白」を埋め尽くしたとき、この自然な空気は死ぬ。


「……高井さん」

役員の目が、憐れむように細められた。

「あんたの言うことは綺麗や。正しいかもしれん。せやけどな」


一拍置いて、言葉が落とされる。

「評価されん仕事を続けるんは、しんどいで。誰も褒めてくれん。それでも続けられるんか?」


それは鋭い、機能的な問いだった。

望は喉の奥の詰まりを飲み込み、頷いた。

「……はい」

掠れた自分の声が、他人のもののように聞こえた。


役員は何も言わず、望の肩を一度だけ強く叩いて去っていった。


その日の夜、黒田と二人で通りを歩く。

歩調の揃わない二人分の足音が、静まり返ったシャッター通りに響く。

「評価、されとらんな」

黒田が夜空を見上げながら、他人事のように笑った。


「そうですね。予算、下りないかもしれません」

「ほな、正解や」


黒田の言葉に、望は足を止めた。

「……正解、ですか?」


黒田はポケットに手を突っ込んだまま、歩き続ける。

「評価される仕事はな、だいたい『分かりやすい』んや。数字になる。言葉になる。マニュアルになる。せやけど、分かりやすい仕事はすぐ代わりが効く。安い方が勝つ世界や」


黒田が振り返る。街灯の逆光で顔は影になり、輪郭だけが白く縁取られていた。

「これは、誰にも分からん。数字にもならん。せやから、ワシらがやるしかないんや」


それは誇りですらない、ただの事実の確認だった。

効率化できない、数値化できない。

だからこそ、AIにも、大手企業のサービスにも、役所の制度にも、この「おり」のような領域には触れられない。


「評価されんいうことは、まだ誰も手をつけてへんいうことや。ブルーオーシャンいうやつやろ」


望は虚を突かれ、それから声を上げて笑った。

「……そうですね。手つかずの市場です」


泥臭くて、金にならなくて、誰からも褒められない海。

そこに確かに存在する「人」という名の質量。


評価はされない。だが、不要ではない。

数字には出ない。だが、消えたらこの町は死ぬ。


『続けるのはしんどいで』

その重荷を、黒田はずっと一人で担ってきたのだ。

今、その荷物の片方を、自分が持っている。


望は肩に掛けたバッグの重みを感じた。

中には、送信しなかったグラフと、数字にならない記録が詰まっている。

その質量だけが、今の自分の実存だった。


二人の影が、街灯の下を揺れながら進んでいく。

夜の商店街に、歪なリズムの足音がいつまでも響いていた。

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