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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第5章】選ばないという選択 ―正しさの外側に立つ―
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第32話:出さない数字

資料は整っていた。

液晶の青白い光がスチールデスクの天板に冷たく反射し、エクセルシートの完璧な直線が画面を埋め尽くしている。


事故件数:ゼロ。通報回数:前年比減。近隣苦情:発生なし。


数字としての整合性は完璧だった。

だが望は送信ボタンを押す直前、キーボードから手を離した。指先の下でプラスチックのキーが微かな余熱を帯び、湿り気を帯びる。


作れる数字はまだある。『夜間巡回実施回数』『清掃稼働時間』『住民相談対応件数』。

ITエンジニアとしてのスキルを使えば、もっともらしいグラフを生成するのは容易だ。棒グラフを彩色し、右肩上がりの矢印を添える。パワーポイントの定型句で「成果」を飾り立てる。

そうして「活動量」を可視化すれば、予算の蛇口は容易に開くだろう。


しかし、その先に待ち受ける構造的なエラーが鮮明すぎた。

巡回回数を指標に据えれば、現場は回数を稼ぐための「無駄な移動」を優先し始める。相談件数を評価すれば、些細な問題を「事案」として掘り起こし始める。そうなれば、今この町にある静けさ――何も起きていないという最高の均衡状態は、内側から崩壊する。


望は右手をマウスから離した。


「……ここまでで、十分でしょうか」


画面の向こうで県の担当者が発言した。オンライン会議の映像はわずかに遅延し、相手のバーチャル背景である青空と白い雲が、不自然な解像度で張り付いている。

表情は読み取れる。だが、そこには温度も空気の揺らぎもない。


「高井さん」

担当者が手元の資料から目を上げた。

「追加で比較データが欲しいですね。活動のプロセス指標(KPI)です。どれだけ動き、他地区と比べてどれだけコストパフォーマンスが良いのか。削減効果を明確にしたいんです」


正論だった。

予算を執行する以上、行政は数字という共通言語で説明責任を果たさなければならない。費用対効果を示せなければ、次年度の財源は絶縁される。


「検討します」

望は即答を避けた。


画面の中の担当者がわずかに眉を寄せた。その動きがコンマ数秒遅れて届く。

「……いいえ」

望は言い直した。


「出せる数字と、出さない数字があります」


スピーカーから低い電子ノイズが漏れた。

エアコンの風が、デスクの隅に置かれた書類を音もなく揺らす。担当者の認識が「協力者」から「未知のリスク」へと切り替わる。その瞬間の冷たさが、画面越しに伝播してきた。


「どういう意味でしょうか」


望はカメラレンズを真っ直ぐに見据えた。

感情を持たない観測機器である黒い穴は、望の表情を淡々と電気信号へ変換し続けている。


「事故ゼロや苦情件数といった『結果』の数字は出せます。ですが、巡回回数や対応件数といった『行動』の指標は出しません」


沈黙。

画面の向こうで、ペンを置く乾いた音が響いた。

「なぜですか。活動の証明になるはずだ」

「回数を成果ゴールに設定した瞬間、目的がすり替わるからです」


望は喉の渇きを無視して言葉を継いだ。

「回数を評価すれば、現場は回数を稼ぐために動く。件数を評価すれば、件数を作るために問題を探し出す。それは監視社会の構築であって、傍を楽にする活動ではない」


「……しかし」

担当者の声に、事務的な苛立ちが混じる。

「評価軸がなければ予算の継続は難しい。何もしていないのか、未然に防いでいるのか、こちらでは判別がつかない」


「承知しています」

望は視線を外さなかった。

「だから、最低限の結果指標(KGI)だけに絞っています。それ以上のマイクロマネジメントは、現場を死滅させます」


画面の向こうで、深い溜息がマイクを叩いた。

「……強いですね」

担当者が苦笑とも厄介払いとも取れる表情で資料を閉じた。


「現場を守るためです」

望は言い切った。

「この取り組みは、数字を増やすために始めたものではありません。本質を守るために、僕は数字を捨てます」


会議は実質的な保留のまま幕を閉じた。

画面が消え、モニターは真っ黒な鏡へと戻る。そこに映る自分の顔は、酷く疲弊していた。


拒絶した。

予算を握る権力に対して、はっきりと。


線は引かれた。

行政が踏み込んでいい領域と、現場が死守すべき聖域の境界線。


椅子の背もたれが軋んだ。古い蛍光灯がかすかに明滅している。

不安は確かにあった。補助金は止まり、全国展開の道も閉ざされるだろう。

だが、不思議と後悔はなかった。黒田の仕事を「数字稼ぎのゲーム」に貶めるくらいなら、予算などない方がマシだ。


通りに出ると、夕暮れの空気が頬を刺した。

アスファルトには日中の熱が微かに残留している。西の空が橙色に溶け、建物の影が墨を流したように長く伸びていた。


商店街の角を曲がると、黒田が歩いてくるのが見えた。

いつも通りの作業着。胸ポケットの手ぬぐい。そして今日も手ぶらだ。道具もゴミ袋もない。ただ、そこを歩いている。


「終わったか」

「はい」

「どうやった?」


望は夕暮れの光に目を細め、一拍置いて答えた。

「……出さない数字を、決めました」


黒田が一瞬だけ足を止めた。靴底がアスファルトを捉え、小さな音を立てる。

「ほう」


それだけだった。

「大丈夫か」とも「何をした」とも聞かない。その一言だけで、すべての合意が完了していた。


「怒られるかもしれません。予算も切られるでしょう」

黒田は肩をすくめ、ニヤリと笑った。その笑みには、冷徹な肯定が宿っていた。


「ええやん。怒られん仕事は、だいたい嘘か、つまらん仕事や」


それは慰めではなく、共犯者への最高の評価だった。


二人は並んで歩く。

シャッターの閉まった通りには、生活のための静けさが横たわっている。

電柱の影が二人の足元を横切り、遠くで自転車のチェーンが回る乾いた音がした。


望は、この静寂を守るために「NO」を選択した。

数字は力だ。だが、その力に飲み込まれれば現場は消費される。


防波堤になること。それが、今の自分の仕事だ。


望はアスファルトを強く踏みしめた。靴底から伝わる確かな反動。自分の体重がこの地面に預けられている。

その物理的な手応えだけが、今の自分の実存を証明していた。

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