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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第4章】崩れる正しさ ―正解は誰を救うのか―
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第31話:数字を求められる

電話の声は、これまでになく乾いていた。

感情や温度を含まない、整然とした事務的な響き。

「高井望さんですね?」


名乗られた肩書きは、町会や商工会といった地域の枠を超えていた。

『県・地域振興課』予算の蛇口を握る、より上位の組織だ。


「最近のそちらの取り組みについて、報告が上がってきています」

望は無意識に背筋を伸ばし、窓の外に視線を向けた。商店街の通りが、いつもと同じ顔で続いている。受話器を握る手に、じわりと汗が滲む。


「関心はあります。新しいモデルケースになる可能性を感じている」

相手は社交辞令のようにそう言った後、すぐに本題に入った。

「ただし、数字が欲しい」


予想していた言葉だった。だが実際に突きつけられると、その重みは鉛のようだった。


「どれだけ防犯効果があったのか。行政コストが、具体的に何円削減されたのか。他の地域でも再現可能なのか、費用対効果のエビデンスはあるのか」


KPI、ROI、エビデンス。かつて望が毎日使い、今は黒田が最も嫌う言葉たちが次々と投げつけられる。

望は、慎重に言葉を選んで防戦した。


「現時点では、定量的な指標は限られています。まだ始まったばかりで……体感としての治安改善はありますが……」

「体感では、予算はつけられません」


相手の声は穏やかだが、そこには絶対的な線引きがあった。

「税金を使う以上、納税者への説明責任があります。『なんとなく良くなった』では、一円も出せない」


正論だった。反論の余地がないほど、正しい。

「最低限で構いません。来月までに数字を出してください」


電話は、一方的に切れた。

望はスマートフォンを耳に当てたまま、しばらく動けなかった。画面が暗くなっても、手が下りない。ツーツーという電子音が、頭の中で反響する。


――数字。また、そこに戻ってきた。

かつて黒田を追い詰めたあの凶器を、今度は自分が突きつけられている。

どう伝えるべきか。いや、伝えていいのか。


夕暮れの商店街。通りの向こうから、黒田が歩いてくるのが見えた。

今日は手ぶらだ。道具も持たずに、ただ歩いている。

それが「見回り」だということを、数字でどう表現すればいい?『移動距離:500メートル』『成果:異常なし』——そんなデータに、何の意味がある?


「顔、固いな」

黒田が、すれ違いざまに足を止めた。


「……県から、電話がありました」

望は喉の渇きを覚えて言った。

「数字を、出せと」


黒田は、小さく息を吐いた。

「来たか」


驚きはない。いつか来る嵐を予期していたような顔だ。

望は、恐る恐る黒田に確認する。

「出すべきでしょうか?」


黒田は、通りの看板を見上げたまま言った。

「出したら、どうなる」

「評価されます。予算がつきます。活動が広がります」


それは事実だ。だが、黒田はゆっくりと首を横に振った。

「削れる」

「何がですか?」

「大事なところや」


黒田は、望の目を真っ直ぐに見た。

「例えば、『ゴミ拾いの数』を報告するとする。ほな、役所は『今年は百個拾ったから、来年は百二十個拾え』言うてくる。そしたらどうなる?お前らは、ゴミを探して歩くようになる。ゴミがない綺麗な状態を『成果なし』として焦るようになる」


望はハッとした。指標が目的化する。手段が目的にすり替わる。ITの現場で何度も見てきた失敗だ。


「見回りも同じや。『異常なし』は数字にならん。数字にならんもんは『無駄な時間』として削られる。効率化いう名目で一番大事な『余白』の部分が削ぎ落とされる。それが数字を出すいうことや」


反論できなかった。数字は嘘をつかないが真実も語らない。そこにある「空気」までは記録できない。


「せやけどな」

黒田は続けた。

「出さな、終わる」


予算がなければ、活動は個人の持ち出しのままだ。いずれ限界が来て、潰れる。

「出さなくても終わる。出しても変わってしまうかもしれん。……なら、どっちを選ぶかや」


――選択、また選ばされる。

夕暮れの光が、二人の間の石畳を橙色に染めていた。遠くで自転車のベルが鳴り、すぐに静かになる。

組織の論理に従うか、現場の魂を守るか。


望は深く息を吸い込んだ。

自分は何のためにここにいる?ただの連絡係か?違う、翻訳者だ。

異なる言語を話す二つの世界の間に立ち、意味を損なわずに伝えるプロだ。


「……全部は、出しません」

望は、はっきりと言った。


「出していい数字と、出しちゃいけない数字を分けます。予算を取るための『表の数字』は作ります。でも現場を縛るような『管理の数字』は、僕が握りつぶします」


それは、ある種の背信行為だ。組織に対して情報のフィルターをかけることだ。

黒田はじっと望を見た。やがて、口の端をニヤリと吊り上げた。

「ほな、ほんまにブラックやな」


冗談めいた言い方だった。だがその言葉は「共犯者」としての契約の証だった。

嘘をついてでも、守るべきものを守る。その汚れ役を引き受ける覚悟。


「ええ。真っ黒にやりますよ」

望は答えた。

数字を求められるのは広がる合図だ。しかし同時に変化してしまう危険性もある。

その境界線を自分で引く。行政が求める「正しさ」と、黒田が守ってきた「正しさ」の間で、自分が防波堤になる。


望は夜の帳が下りる商店街を見渡した。

ここを数字だけの冷たい場所にはしない。そう心の中で固く誓った。



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