第3話:正しい判断
黒田と出会ってから、数日が過ぎていた。正確に何日目なのかは、望自身にも分からない。
一週間にも満たないような、それでいて、やけに長く感じる時間だった。
仕事は変わらず忙しかった。残業も続いている。
生活のリズムも、体調も、何一つ変わっていない。
それなのに、胸の奥に小さな違和感が居座っていた。
夜の商店街、そして落ちかけた看板。
「効率、ええやろ?」という言葉。
思い出すたびに、何かが引っかかる。
でも、その正体は掴めない。
――考える必要はない
――余計なことだ
そう自分に言い聞かせながら、望はいつも通り仕事の準備をした。
始業のチャイムと同時に、社内の一斉送信メールがポップアップした。
件名は簡潔だ。
『プロジェクト体制の見直しについて』
望は内容を開く前から、マウスカーソルをスクロールバーへと移動させていった。
こういうメールに、文学的な情緒は含まれない。
あるのは「結果」だけだ。
『最適化、再配置、リソースの適正化』
画面を滑る無機質なフォントの羅列の中に、見慣れた文字列が一つ埋もれていた。
あの新人の名前だ。
その理由は明白だった。
処理速度の遅延、理解度の不足、フォローコストの増大。
どれも、新人以外が請け負っている被害事実だ。
感情を排して因数分解すれば、導き出される解は一つしかない。
それは、エラーの排除。
システムを維持するための正常な挙動だ。
ミーティングルームに人が集まる。誰も雑談はしない。
時間を無駄にしないのが、この職場の美徳だった。
上司が淡々と説明を始める。
「現状、このプロジェクトには余裕がありません。全体のパフォーマンスを考えると、今回の判断は妥当だと思います」
異論は出なかった。出せる空気でもなかった。
新人は俯いたまま、自分の膝の上に視線を落としている。
望は、その様子を横目で見ながら資料に目を落とした。
――感情で判断する場面じゃない
――仕事なんだから
そう思った。
上司は形式上の質問を全員に投げる。
「なにか質問は?」
そう言われたが、誰も手を挙げなかった。
会議は五分早く終わった。実に効率的だ。
席に戻る途中、新人が廊下の隅で一人、取り残されるように立っていた。
望は一瞬、足を止めようと思った。
声をかけるべきか、それとも何か言うべきか。
だが、頭の中で答えはすぐに出た。
――今、声をかけても意味はない
――かえって彼を混乱させる
それは望にとって正しい判断だった。
望は、そのまま自分の席へ戻った。
その後の仕事は滞りなく進んだ。
抜けた分のタスクは再配分され、数字上の進捗はむしろ改善した。
結果は出ているし、誰も困っていない。少なくとも表面上は。
定時を過ぎても、オフィスの空気は変わらなかった。
帰る理由がない人間だけが、そこに残る。
望もその一人だった。
資料をまとめながら、ふと、あの日の夕方の商店街を思い出す。
それは、あの日の黒田の言葉。
『やらんと、困るやつがおる』
あの言い方は、理屈ではなかった。
かと言って、上辺だけの綺麗な言葉というわけでもなかった。
今日自分が行ってきた全ての判断は、全部理屈で説明できる。
正しいし、合理的だ。誰からも責められない。
それなのに胸の奥に、小さな引っかかりが残っている。
望はそれを、とりあえず疲労のせいだと結論づけた。
忙しければ、余計なことを考えずに済む。
勤労は美学だと、そう信じてきた。
そう信じてさえいれば、いつだって自分は正しい側にいられる。
望は仕事を終え、PC画面上の開いていたウィンドウを一つずつ閉じていった。
報告書、メーラー、スケジュール表。
指先は慣れた動きで「×」ボタンをクリックしていく。
最後の一つで、指が止まった。
画面には、組織図のPDFが表示されている。
その末端にある新人の名前の上で、マウスカーソルが点滅を続けていた。
クリック一つで消せる、ただのデジタルデータだ。
明日には書き換えられる、過去の記録に過ぎない。
――正しい判断だったはずなのに
望は、人差し指に力を込めることができなかった。
カーソルの無機質な点滅だけが、まるで心拍のように、いつまでも画面の中で明滅していた。




