第29話:問い合わせ
最初の電話は、平日の昼間に鳴った。
望が商店街の空き店舗で資料を整理している最中だった。段ボールの埃が舞う薄暗い部屋で、古いパイプ椅子を引き寄せて床に積まれた書類を仕分けていた。
スマートフォンに見知らぬ番号が表示されている。市外局番は、隣の市のものだ。
一瞬、出るのをためらった。クレームか、あるいは商工会経由の新たな圧力か。だが無視し続けるわけにもいかない。
「はい、高井です」
『恐れ入ります。そちらの商店街でやっている取り組みについて、お聞きしたくて』
声は丁寧だった。中年男性の声だ。
だが、どこか切羽詰まったような、藁にもすがるような響きがあった。
「どこで、お知りになりましたか?」
『町会の知り合い伝いです。……「傍楽マイレージ」という名前で、面白いことをやっていると』
その名前を聞いて望は手を止めた。書類の束を持ったまま、椅子の背もたれに体を預ける。
噂の足は速い。もう町の外まで漏れ出している。
「……仮の呼び方です」
慎重に予防線を張った。
「ポイント制度のような、金銭的なメリットがあるものではありません。成果を数値化して、ランキングにするような仕組みでもない」
『ええ、そう聞いています』
相手は、食い気味に言った。
『でも、何かしら……人の動きを「評価」しているんですよね』
質問は鋭かった。
金ではないなら、何が人を動かしているのか。その核心を突いている。
「評価、というよりは……」
望は目の前のホワイトボードを見ながら言葉を探した。
「履歴です。誰が何をしたか。そして何が起きなかったか。その事実を、ただ記録として残しているだけです」
電話の向こうで、少しの間沈黙が続いた。
失望されたか?と望が思いかけた時、深いため息が聞こえた。
『……なるほど』
それは腑に落ちたような、羨望の混じったため息だった。
『実を言うと、うちも似たような課題がありまして。夜間の治安悪化に、高齢店主の孤立。 警備会社を入れる予算はないし、ボランティアを募っても長続きしない』
望は、無言で頷いた。
同じだ。場所が違っても、抱えている痛みはよく似ている。
衰退していく町、足りない予算、疲弊する善意。
『見学とか、できますか?』
その一言で、空気が変わった気がした。
「今はまだ、整った制度ではありません。お見せできるようなマニュアルも、立派なシステムもありませんが……」
『それで構いません』
即答だった。
『完成した綺麗なモデルケースより、泥臭くても「動いているもの」が見たいんです』
電話を切ったあと、望はしばらくスマートフォンを手に持ったまま動かなかった。埃の匂いがする静かな部屋に、外の車の音だけが遠く聞こえる。
「全国」という言葉が、頭の片隅をよぎる。まだ、そこまで広げるつもりはなかった。だが、火種は確実に飛び火している。
黒田に話すべきか。
そう思って顔を上げると、いつの間にか黒田が部屋の入り口に立っていた。手にはコンビニの袋を提げている。
「なんや、難しい顔しとるな」
「……他の町から、問い合わせが来ました」
黒田は眉一つ動かさなかった。
「早いな」
それだけだった。想定内だと言わんばかりだ。
「見学したい、そうです。同じように困っている、と」
黒田は、袋からあんパンを取り出しながら言った。
「見せるもんなんて、あるか。ホワイトボード一枚やぞ」
「立派な制度はありません、と伝えたのですが…。それでもいいそうです」
黒田は、小さく鼻で笑った。
「ほな、ええ」
あんパンをかじるり、咀嚼しながら続けた。
「立派やないのが、売りや」
「売り、ですか……」
「せや。立派なシステムやったら金がかかる。金がかかるもんは貧乏な町には真似できん。紙とペンと、やる気さえあればできる。それが一番強いんや」
黒田は、再度あんパンをかじった。
その言葉に、望は肩の力が抜けるのを感じた。高機能より低コスト。誰でもできることの方が、遠くまで届く。
ITの世界では「高機能」が売りになる。ここでは「低コスト」で「誰でもできる(ローテク)」ことの方が、最大の武器になる。
問い合わせは、一件では終わらなかった。
その週だけで、メールが二件、人づての相談が一件。
共通しているのは一つだけだ。「同じことで困っている」。解決策を求めているというより、共に動ける仲間を探しているようだった。
望は気づき始めていた。自分はもう、この商店街一つの話をしているのではない。
「名前のない仕事」に光を当てるための、共通の足場を作ろうとしているのだと。
だが、それでも急がないと決めていた。説明は最小限に、言葉は「仮」のままに。
黒田の「名前を付けたら終わる」という言葉が、まだ戒めとして胸に残っている。
言葉が一人歩きして、中身が空っぽになることだけは避けなければならない。
夜の商店街を歩く。シャッター通りは静かだ。しかし以前のような「死んだ静けさ」ではなく、誰かが見守っている「安心の静けさ」がある。
この静けさが他の町にもあるなら。
それを再現する方法を、少しだけ分け合えればいい。
望は夜空を見上げた。星は少なかった。
それでも、その日に届いた電話の声が「助けてくれ」という、小さなSOSの合図として残っていた。




