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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第4章】崩れる正しさ ―正解は誰を救うのか―
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第28話:誤解される

噂が広がるのは恐ろしいほど早かった。そして、悪い噂ほど足が速い。

傍楽はたらくマイレージ」


その名前だけが、中身を置き去りにして一人歩きを始めた。SNSの地域コミュニティや、井戸端会議のネットワークに乗って、言葉は瞬く間に変質していく。


「楽してポイントが貯まるらしいで」

「なんや、町の金を身内で分け合う制度か」

「結局、仲良しクラブが得する仕組みちゃうか」


望のスマートフォンには出所不明の書き込みが次々と流れてきた。通知を消しても消しても、また増える。画面を伏せても、頭の中で言葉が反響し続けた。


『税金の無駄遣い』

『評価基準が不明瞭』

『既得権益』


どれも完全な嘘ではない。

新しいことを始めれば、必ず既得権益に見える。

基準を作れば、漏れた人間からは不明瞭に見える。

本質から少しずつ、しかし決定的にずれた言葉が真実のような顔をして町を覆っていく。


「高井さん、説明が足りてへんのと違うか」


商店街の外れで、自転車に乗った男に呼び止められた。この町に長く住む、町内会の役員の一人だ。

責めるような剣幕ではない。だが、その目は明らかに「疑い」の色を帯びていた。


「変なことして、商店街の評判落とさんといてくれよ」


距離を測るような言い方だった。

昨日まで味方だと思っていた人が、一瞬で「審判」に回る。


「……ちゃんと説明します。近いうちに」

頭を下げながら、望は自分の声が空洞のように響くのを感じた。


――説明

その言葉を口にするたびに、胸の奥に鉛のような重りが沈む。

黒田の声が、呪いのように頭をよぎる。


――説明したら、終わる


説明すればするほど言葉は軽くなり、ただの「システム」や「取引」に見えてしまう。

それでも沈黙していれば、悪意ある誤解が真実になってしまう。完全に矛盾していた。出口が、どこにも見えなかった。


商店街の中でも、意見は割れ始めていた。

夜、惣菜屋の裏手で行われた小さな集まりに不安の声が上がった。店の勝手口から漏れる出汁の匂いと鍋の中でぐつぐつと煮える音だけが、重苦しい空気をかろうじて和らげていた。


「やっぱり、分かりにくいんちゃうか」

「名前が軽すぎる。マイレージって何や、遊び半分に見える」

「客から『私にもポイントくれ』言われて、断るのに苦労したわ」


正直な悲鳴だった。彼らは善意で動いているのに、その善意が疑われている。

誰も黙り込んだままの場の中、惣菜屋の店主が鍋をかき混ぜながら独り言のように言った。


「でもな」

全員が顔を上げる。


「夜、静かになったやろ?」

その一言に、誰もがハッとしたように押し黙った。


「ゴミも、減った気がする」と和菓子屋の女将が続けた。

「店の前の吸い殻、最近拾うてへんわ。誰かがやってくれとるんやろな」

「客との揉め事も起きとらん。変なのが入ってこんからや」


数字にはならない。ポイントにも換算されていない。だが、確かな体感がある。肌で感じる治安の良さ。朝、店のシャッターを上げるときの、あの清々しい空気。


「それがマイレージのおかげなんか、黒田さんの顔なんかは知らんけどな」

惣菜屋が煮物を皿に盛りながら言った。湯気が白く立ち登る。


「前より、楽や」

その一言が、場の空気を静かに変えた。「ラクして稼ぐ」という外の誤解とは正反対の、「心地よさ」という核心をその言葉は突いていた。


「……楽を、独り占めしてへんのやな」

呉服屋の主人が、湯飲みを両手で包んだままぽつりと言った。


「誰かが動いて、みんなが楽になる。それを『傍楽』って呼んどる。それだけの話やないか」


望はその言葉を聞いて、ずっと詰めていた息をゆっくりと吐き出した。説明書には書けない。数字でも証明できない。けれど伝わる部分、響く部分は確かにある。


だが、外の世界の尺度は違う。町会や役所にも、問い合わせが入っていた。


「成果はどう測るのか」

「不公平ではないのか」

「誰が管理し、誰が責任を取るのか」


正しい質問だ。管理する側からすれば当然の懸念だ。

増田は矢面に立って、一つ一つ丁寧に答えていた。


「完璧な制度ではありません」

「むしろ、未完成です」

「だから、走りながら見直します」


政治家としてリスクのある発言だ。それでも彼は逃げなかった。

納得しない声は残る。それでも増田は「止める」という選択肢を選ばなかった。


数日後の夜、望は一人で夜の商店街を歩いた。

静かだ。シャッターの落書きもない。路地裏にたむろする若者の影もない。

ただの静寂ではなく、誰かに守られているような安心感のある静けさだった。

誰かが傍にいる。見えなくても誰かが動いている、それが分かる。


向こうから作業着姿の男が歩いてきた。黒田だった。手にはゴミ袋とトングを持っている。マイレージという言葉が生まれる前と、何一つ変わらない姿だった。


「聞いとるで」

すれ違いざま黒田が短く言った。立ち止まりもせず、前を向いたままだ。


「言われとるな。税金泥棒やら何やら」

「……はい」


望は足を止めた。背後の黒田の足音も、一拍遅れて止まる。


「それで、どうする?」

黒田は振り返らずに聞いた。問いは単純だ。言い訳をして回るか、名前を変えるか。それとも怖気づいて撤回するか。

望は夜の空気を深く吸い込んだ。冷たくて、澄んでいた。


「続けます」

迷いはなかった。


「誤解されたままでも、やります」

黒田が初めて振り返った。暗がりの中でも、その目が細くなるのが分かった。


「理由は?」

「今、現に楽になっている人がいるからです」


望はシャッターの並ぶ通りをゆっくりと見渡した。


「外野が何を言おうと、この通りの空気がきれいなことだけは事実ですから」


黒田は何も言わなかった。二人の間に沈黙が落ち、遠くの国道を走るトラックの音だけが低く響く。やがて黒田がトングをカシャン、と鳴らした。


「誤解されるんはな……」

ぽつりと、黒田が言う。


「本気でやっとる証拠や」

望は、黒田を見た。


「どうでもええことなら、人は笑って流す。本気で変えようとするから摩擦が起きる、熱が出る。文句が出るんは、ワシらが動いとるからや」


黒田はニヤリと笑った。

「摩擦のない仕事なんぞ、遊びや」


その言葉が、望の胸の奥深くに静かに落ちた。

正しさは、いつもすぐには理解されない。新しいルールは、いつだって異物として扱われる。だが傍を楽にする行為は嘘をつかない。その積み重ねは、どんな噂よりも強く静かにこの町を支えている。


それを止める理由は、どこにもなかった。

望は黒田の背中が夜の通りに溶けていくのを見送りながら、もう一度「続けます」と心の中で繰り返した。


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