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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第4章】崩れる正しさ ―正解は誰を救うのか―
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第27話:傍楽マイレージ

集会所のホワイトボードは、いつの間にか黒と赤の文字と線で埋め尽くされていた。

『見回り』『清掃』『近隣対応』『入居判断』——それぞれの周りに『コストは?』『誰がやる?』『頻度は?』という疑問符が増殖している。

どれも黒田が一人でこなしてきたことだ。だが「組織の図」として書き出そうとした途端、矛盾が噴き出した。

蛍光灯の光の下、インクの混じった色が安っぽく滲んでいる。部屋の隅の石油ストーブが低くうなり、湿った空気をかき回していた。


「で?」

和菓子屋の女将が腕を組んで言った。


「これ、一言でどう説明するんや。役所に出すんやろ?」


望はインクの切れたペンを握ったまま、白板の前に立ち尽くしていた。キャップの端を親指の腹で何度も押す。カチ、カチ、と小さな音が鳴るだけでペン先は動かない。


予算を使う、制度にする、町の仕事として公認する。

そのためには、この混沌を貫く一本の串が要る。誰もが納得し、かつ誤解されない名前が。


「安全対策費じゃ、見回りは入るけど入居相談が入らん」

「環境美化活動じゃ、掃除だけや」

「よろず相談じゃ、何でも屋と変わらん」


店主たちが口々に案を出すが、どれもしっくりこない。

正解に近いようで、本質だけが抜け落ちている。


黒田は部屋の隅の壁にもたれ、腕を組んだまま議論に加わらない。ただそこに在る、という感じで目だけが動いている。店主たちの声が重なるたびに、その視線がホワイトボードをさっと掃く。何も言わないのに、その沈黙が余計に望を焦らせた。「名前なんぞない」という主張が無言のまま沈黙から滲み出ていた。その存在感が余計に望を焦らせる。


——名前をつけなければ制度にならない

——だが変な名前をつければ黒田さんの仕事が腐る


思考が空転する。ホワイトボードの前でペンを持て余していると、ふと自分が以前黒田に言った言葉を思い出した。「見える形にする」という、あの約束を。


「……ポイント、みたいなものです」

気づいたら口に出していた。

何人かが怪訝な顔でこちらを見た。


「ポイント!?スーパーのカードみたいなか?」

「貯めたら現金になるんか?」


場がざわつく。金銭的な報酬の話だと思われた。

「違います」と望は首を振った。慌てて否定し言葉を繋ぐ。


「やった分だけ小遣いが稼げるとか、そういう話じゃありません。お金を絡めた瞬間、誰も善意ではやらなくなる」

「せやったら、何のためのポイントや」


望はマーカーのキャップを外し、ホワイトボードの余白に一本の長い横線を引いた。

「距離、です」

「距離?」

「ええ、飛行機のマイレージみたいなものです。どこかへ行った、何かをした——その移動した距離そのものを記録する」


ペン先がホワイトボードを走り、乾いた音が静かな部屋に響く。

横線の上に小さな円を望はいくつも描いた。


「誰かの傍が少し楽になった。トラブルを未然に防いで何も起きなかった。その積み重ねを成果としてではなく履歴として残す。お金にはならなくても、この人はこれだけ動いたという証明になる」


望は、店主たちの顔を見渡した。

自分でも回りくどいと感じたが、これ以上削ると嘘になる。


「成果というより足跡です。何をしてきたか。何が起きなかったか」

横線を見ながら、ぽつりと続けた。


「溜まっていく、というより……そう、マイレージみたいな」

わずかに、空気が緩んだ。


「マイレージか」

「なるほどな、飛んだ分だけ残るアレか」

「それなら、金とはちゃうな」


店主たちが顔を見合わせながら頷き合う。

「仮の言い方です。傍を楽にする行動が、少しずつ溜まっていく……」と望は苦笑した。


「正確じゃありません。でも『傍楽』を『マイレージ』にすると言えば、説明はしやすくなるかなと」



その時だった。部屋の隅から低い声が響いた。

「……アホか」

誰も笑わなかった。

黒田がゆっくりとこちらを向く。壁から背中を離し組んでいた腕を解いた。


その動作だけで、部屋の空気が変わった。

一拍、置く。


「名前、付けたら終わる言うたやろ」

怒鳴ってはいないが、その目は本気だった。


「ポイントでもマイレージでも一緒や。『貯まる』となったら、人は『貯めるために』動き出す。ゴミが落ちてなくても探して拾うようになる。困ってない人にも、無理やり声をかけるようになる」

「数字を目当てにした時点で、それはもう傍楽ちゃう。ただの点数稼ぎや」


誰も口を挟めなかった。図星だからだ。

それは善意のゲーム化に対する鋭い警告だった。

手段が目的になった瞬間、その仕事は腐る。黒田はそれを本能的に知っている。


増田が何か言おうとしたが、それを制するように望が一歩前に出た。

「分かっています」

黒田の目を真っすぐに見返した。


「だから仮です。これで皆さんを縛るつもりはないし、数字を競わせるつもりもありません。ただ——、役所や次の世代に伝えるには、言葉が要るんです」

「言葉は、一人歩きするぞ」

「させません」

即答した。


「本質からズレそうになったら止めます。現場が苦しくなったら仕組みを変えます。数字遊びになりそうなら、廃止します」

望は深く息を吸った。

「そのために、僕がここにいます」


それはシステムエンジニアとしての意地だった。

バグが出たら直す、暴走したら止める——それがシステムを扱う人間の仕事だ。

ここでも同じことをやればいい。


黒田はしばらく黙っていた。じっと望を見つめ、値踏みするように目を細める。

やがて、肩の力を抜いて笑った。


「……ほんまに、面倒なブラックやな」

いつもの憎まれ口だが、その声に拒絶はなかった。

「そこまで言うなら、やってみぃ」という信頼に近い呆れだった。


「傍楽……マイレージ、やったか」

馴染まない言葉を、噛みしめるように繰り返す。


「仮やぞ」

「はい」

「ワシは認めとらんからな」

「分かっています」

「仮やからな」


念を押すたびに、望は力強く頷いた。

増田がタイミングを見計らって口を開いた。


「では、この呼び方で一度進めましょう。ルールはこれから皆で作っていけばいい」


反対の声は出なかった。

望はホワイトボードの端に、小さな字で書き込んだ。


傍楽はたらくマイレージ(仮)』


誰も拍手しなかった。誰も頷きもしなかった。

ただ何人かが、その文字をしばらく眺めていた。黒田だけは見ていなかった。天井の隅に視線を向けたまま、小さく息を吐いただけだった。でも、それで十分だった。


完成した制度ではない、守るべき定義もない。

だが、誰かの傍を楽にするために使われるなら、この名前でいい。

誤解されるかもしれないし、笑われるかもしれない。それでも望は、逃げずに見届けるつもりだった。


傍楽マイレージはその夜、行政の制度としてではなく商店街の小さな約束として生まれた。

マーカーのキャップを閉める。カチリ、という音が静かな部屋に響いた。



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