第27話:傍楽マイレージ
集会所のホワイトボードは、いつの間にか黒と赤の文字と線で埋め尽くされていた。
『見回り』『清掃』『近隣対応』『入居判断』——それぞれの周りに『コストは?』『誰がやる?』『頻度は?』という疑問符が増殖している。
どれも黒田が一人でこなしてきたことだ。だが「組織の図」として書き出そうとした途端、矛盾が噴き出した。
蛍光灯の光の下、インクの混じった色が安っぽく滲んでいる。部屋の隅の石油ストーブが低くうなり、湿った空気をかき回していた。
「で?」
和菓子屋の女将が腕を組んで言った。
「これ、一言でどう説明するんや。役所に出すんやろ?」
望はインクの切れたペンを握ったまま、白板の前に立ち尽くしていた。キャップの端を親指の腹で何度も押す。カチ、カチ、と小さな音が鳴るだけでペン先は動かない。
予算を使う、制度にする、町の仕事として公認する。
そのためには、この混沌を貫く一本の串が要る。誰もが納得し、かつ誤解されない名前が。
「安全対策費じゃ、見回りは入るけど入居相談が入らん」
「環境美化活動じゃ、掃除だけや」
「よろず相談じゃ、何でも屋と変わらん」
店主たちが口々に案を出すが、どれもしっくりこない。
正解に近いようで、本質だけが抜け落ちている。
黒田は部屋の隅の壁にもたれ、腕を組んだまま議論に加わらない。ただそこに在る、という感じで目だけが動いている。店主たちの声が重なるたびに、その視線がホワイトボードをさっと掃く。何も言わないのに、その沈黙が余計に望を焦らせた。「名前なんぞない」という主張が無言のまま沈黙から滲み出ていた。その存在感が余計に望を焦らせる。
——名前をつけなければ制度にならない
——だが変な名前をつければ黒田さんの仕事が腐る
思考が空転する。ホワイトボードの前でペンを持て余していると、ふと自分が以前黒田に言った言葉を思い出した。「見える形にする」という、あの約束を。
「……ポイント、みたいなものです」
気づいたら口に出していた。
何人かが怪訝な顔でこちらを見た。
「ポイント!?スーパーのカードみたいなか?」
「貯めたら現金になるんか?」
場がざわつく。金銭的な報酬の話だと思われた。
「違います」と望は首を振った。慌てて否定し言葉を繋ぐ。
「やった分だけ小遣いが稼げるとか、そういう話じゃありません。お金を絡めた瞬間、誰も善意ではやらなくなる」
「せやったら、何のためのポイントや」
望はマーカーのキャップを外し、ホワイトボードの余白に一本の長い横線を引いた。
「距離、です」
「距離?」
「ええ、飛行機のマイレージみたいなものです。どこかへ行った、何かをした——その移動した距離そのものを記録する」
ペン先がホワイトボードを走り、乾いた音が静かな部屋に響く。
横線の上に小さな円を望はいくつも描いた。
「誰かの傍が少し楽になった。トラブルを未然に防いで何も起きなかった。その積み重ねを成果としてではなく履歴として残す。お金にはならなくても、この人はこれだけ動いたという証明になる」
望は、店主たちの顔を見渡した。
自分でも回りくどいと感じたが、これ以上削ると嘘になる。
「成果というより足跡です。何をしてきたか。何が起きなかったか」
横線を見ながら、ぽつりと続けた。
「溜まっていく、というより……そう、マイレージみたいな」
わずかに、空気が緩んだ。
「マイレージか」
「なるほどな、飛んだ分だけ残るアレか」
「それなら、金とはちゃうな」
店主たちが顔を見合わせながら頷き合う。
「仮の言い方です。傍を楽にする行動が、少しずつ溜まっていく……」と望は苦笑した。
「正確じゃありません。でも『傍楽』を『マイレージ』にすると言えば、説明はしやすくなるかなと」
その時だった。部屋の隅から低い声が響いた。
「……アホか」
誰も笑わなかった。
黒田がゆっくりとこちらを向く。壁から背中を離し組んでいた腕を解いた。
その動作だけで、部屋の空気が変わった。
一拍、置く。
「名前、付けたら終わる言うたやろ」
怒鳴ってはいないが、その目は本気だった。
「ポイントでもマイレージでも一緒や。『貯まる』となったら、人は『貯めるために』動き出す。ゴミが落ちてなくても探して拾うようになる。困ってない人にも、無理やり声をかけるようになる」
「数字を目当てにした時点で、それはもう傍楽ちゃう。ただの点数稼ぎや」
誰も口を挟めなかった。図星だからだ。
それは善意のゲーム化に対する鋭い警告だった。
手段が目的になった瞬間、その仕事は腐る。黒田はそれを本能的に知っている。
増田が何か言おうとしたが、それを制するように望が一歩前に出た。
「分かっています」
黒田の目を真っすぐに見返した。
「だから仮です。これで皆さんを縛るつもりはないし、数字を競わせるつもりもありません。ただ——、役所や次の世代に伝えるには、言葉が要るんです」
「言葉は、一人歩きするぞ」
「させません」
即答した。
「本質からズレそうになったら止めます。現場が苦しくなったら仕組みを変えます。数字遊びになりそうなら、廃止します」
望は深く息を吸った。
「そのために、僕がここにいます」
それはシステムエンジニアとしての意地だった。
バグが出たら直す、暴走したら止める——それがシステムを扱う人間の仕事だ。
ここでも同じことをやればいい。
黒田はしばらく黙っていた。じっと望を見つめ、値踏みするように目を細める。
やがて、肩の力を抜いて笑った。
「……ほんまに、面倒なブラックやな」
いつもの憎まれ口だが、その声に拒絶はなかった。
「そこまで言うなら、やってみぃ」という信頼に近い呆れだった。
「傍楽……マイレージ、やったか」
馴染まない言葉を、噛みしめるように繰り返す。
「仮やぞ」
「はい」
「ワシは認めとらんからな」
「分かっています」
「仮やからな」
念を押すたびに、望は力強く頷いた。
増田がタイミングを見計らって口を開いた。
「では、この呼び方で一度進めましょう。ルールはこれから皆で作っていけばいい」
反対の声は出なかった。
望はホワイトボードの端に、小さな字で書き込んだ。
『傍楽マイレージ(仮)』
誰も拍手しなかった。誰も頷きもしなかった。
ただ何人かが、その文字をしばらく眺めていた。黒田だけは見ていなかった。天井の隅に視線を向けたまま、小さく息を吐いただけだった。でも、それで十分だった。
完成した制度ではない、守るべき定義もない。
だが、誰かの傍を楽にするために使われるなら、この名前でいい。
誤解されるかもしれないし、笑われるかもしれない。それでも望は、逃げずに見届けるつもりだった。
傍楽マイレージはその夜、行政の制度としてではなく商店街の小さな約束として生まれた。
マーカーのキャップを閉める。カチリ、という音が静かな部屋に響いた。




