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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第4章】崩れる正しさ ―正解は誰を救うのか―
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第26話:町の予算

話は磨かれた床の会議室では始まらなかった。

町会の集会所への引き戸を開けると、畳んだ座布団の埃っぽい匂いがした。

壁には手書きの防災標語が画鋲で留めてあり、その横に「使用後は必ず消灯」と油性ペンの貼り紙が貼ってある。

天井の蛍光灯は六本あるうちの一本だけ、ひとりで白々と違う色を放っている。

折り畳みの長机はどれも脚が微妙に歪んでいて、書類を置くとかすかに傾いた。

座ると軋むパイプ椅子は膝が隣と当たる間隔で、既に七、八人が黙って座っていた。


誰かが淹れた番茶の湯飲みが、ひとつずつ回ってくる。

安っぽいけれど落ち着く匂いだ。口をつけると想像通りぬるい。

そのぬるさが、ここでは丁度よかった。


「予算の話をします」

町議会議員である増田高志が、湯飲みを置いて切り出した。

彼は他の政治家と違い、選挙ポスターの中だけに存在する笑顔の男ではない。

この商店街で育ち、祭りの法被を着て神輿を担いできた男なのだ。

名前より先に顔を覚えられるたぐいの人間だった。


「最初に言っておきますが、大きな額ではありません。AONが出してきたような桁とは、比べものにならない」


増田は場を見渡し、苦笑交じりに付け加えた。


「正直、スズメの涙です。ですが、使い方次第で意味は変わる」


集まっているのは商店街の主だった店主たちと、町会の役員。

そして、オブザーバーとして呼ばれた望。


黒田は輪には入らず、部屋の隅のパイプ椅子に浅く腰掛けて腕を組んでいる。

前には出ない。それがこの男の座り方であり流儀だった。

増田が一枚の資料を広げた。

コピー機の癖で右端が少し切れている、手作りのプリントだ。


「これまで町の予算はイベントの開催費か、アーケードの照明交換か。要するに『形に残るもの』に使われてきました。写真が撮れる、報告書に書ける、だから通る」


誰も異を唱えない。

何に使ったかが目に見える正しい使い道であり、事実だからだ。


「ですが、今回は別の使い方を提案したい」

増田は一拍置き、全員の顔を見た。


「維持管理です」


間を空けたのは、効果を狙ったわけではないようだった。

自分の中で、もう一度言葉を確かめるような間だった。


「見回り、清掃、近隣の独居老人への声かけ。これまで予算の対象にならなかった『名前のない仕事』です」


何人かが、ちらりと黒田の方を見た。

黒田は腕を組んだまま、天井を見上げている。


「行政の理屈では、これらに金は出せません」

増田は正直に言った。


「なぜなら成果が見えないからです。事故は起きていない、ボヤも出ていない、孤独死も防がれている。しかし『何も起きていない』ことに対価を払う項目が、今の制度にはないんです」


望は膝の上で拳を握っていた。ITの現場と同じなのだ。

システムが正常に動いている間、管理者の仕事は誰の目にも映らない。

サーバーが落ちて初めて、その重要性と共に名前を呼ばれる。

「平和」とは、コストがかかるのに評価されない商品の代表なのだ。


「しかし!」

増田の声が低くなった。熱を帯びたのではなく、むしろ抑えていた。


「『何も起きていない』こと自体が、最高の結果だとしたら?」

誰も口を挟まなかった。空気が、少しだけ張り詰める。


「嵐の夜に誰かが黙って見回った。嫌われると分かっていて入居を断った。腰を痛めながら側溝のゴミを拾った。その積み重ねの上に、今日の『普通の日常』がある」


淡々とした言葉だったが、この場にいる全員がAONの騒動を通り抜けている。

「普通」がどれほど薄い板の上にあるか、身体で知っていた。


増田は資料を指先で叩いた。

「これを個人の善意で終わらせたくない。一人に背負わせるのではなく、町の仕事として扱う。そのための小さな予算です」


だがその場にいる全員がAONの騒動を経て、その「普通」がいかに脆いかを知っていた。

予算とは数字であり、制度である。

望は、黒田が最も嫌いAONが切り捨てた「合理性」の世界をこの場に持ち込むのかと思った。


沈黙の中で、和菓子屋の女将が湯飲みを両手で包んだまま口を開いた。

「名前が要りますねぇ」

場の空気が、少し実務に寄った。


「予算を付けるなら、費目……名前が必要や。なんて呼ぶ?」

「清掃費か」

「警備費か」

「それやと、業者に頼むのと変わらんようになる」


声がぽつぽつと上がりかけた、そのときだった。

黒田の椅子が軋んだ。


「名前つけたら終わる言うたやろ」


低い低い声、話し合いに加わるつもりのない人間の、それでも黙っていられなくなった声だった。

黒田の目が増田を射抜く。


「掃除係と名前がついたら、みんな『掃除はあいつの仕事や』と思うてゴミを平気で捨てるようになる。警備員と名前がついたら、『何かあったらあいつの責任や』と押し付けるようになる」


誰も口を挟めなかった。

それは理屈ではなく、現場で何年も浴びてきた言葉の澱みたいなものだった。


「役割を決めた瞬間に感謝は消える。残るのは要求だけや。『仕事なんやから当たり前やろ』その空気が、善意を殺すんや」


黒田は増田から目を逸らさなかった。


「金をもろうて名前がついたら、それはもう『傍を楽にする』ことやない。ただの作業や」


沈黙が落ち、反論できる者は誰もいなかった。

番茶の湯気だけが、蛍光灯の下でかすかに揺れていた。


望も唇を噛んだ。自分がやろうとした「翻訳」も、結局は名前をつける行為だったからだ。

黒田の仕事を言葉に変換した瞬間、こぼれ落ちたものがある。

それを、つい最近思い知ったばかりなのだ。


増田は黙っていた。五秒、あるいは十秒、長い間だった。

言葉を探しているのか、飲み込んでいるのか、望には分からなかった。

やがて増田は、一度だけ小さく頷いた。それは自分自身に頷くような仕草だった。


「おっしゃる通り、だからこそです黒田さん」

そこから始めた。


「名前をつければ固定される、固定されれば押し付けになる。黒田さんが見てきたものを、否定するつもりはありません」


増田は資料に目を落とし、しばらくして顔を上げた。

少しだけ声の調子が変わっていた。もはや政治家の声ではないように感じた。


「だから、作業の名前はつけません」

しばしの間、静寂が全体に広がった。


「掃除代でも、警備代でもない。特定の仕事に紐づけない予算にしたい」

増田は言葉を選びながら、慎重に続けた。


「困っている人を助けた。汚れていた場所をきれいにした。気になったから声をかけた。その行為そのものを、結果で評価する。何をしたかではなく、それで誰かが少し楽になったかどうか。それだけを基準に、そう『行為』そのものを評価する仕組みにするんです」


黒田は何も言わなかった。否定もしなかった。

増田は全員を見渡した。


「作業内容は問いません。大事なのは、その結果誰かが少し楽になったかどうか。それだけを基準にする」

「確かに前例はありませんし、監査に通すのも簡単ではない。正直、行政の言葉に直すだけで相当苦労すると思います」


苦笑ではなく覚悟を見せる顔だった。


「ですが今やらなければ、また同じことが繰り返される。誰か一人が静かに擦り減って、町がそれに気づかないまま続いていく」

はたを楽にするための活動、それに予算をつける!」


その言葉に、望の胸がドクンと鳴った。

再び沈黙が訪れたが、それは重苦しい沈黙ではなかった。

誰もが、新しい何かが始まろうとする気配を感じていた。


反対の声は上がらなかったが、形式的な拍手もなかった。

ただ何人かが小さく頷き、何人かが腕を組んだまま目を閉じていた。

賛成とも反対ともつかない、けれど確かに受け止めたという空気だった。


「高井さん」

不意に、増田が望に声をかけた。


「この考え方を実際に動かせる形にしなければなりません。基準をどう作るか、記録をどう残すか、行政の言葉にどう変換するか、制度の設計が要ります」


望は増田の目を見返した。

「手伝ってもらえますか?」


その問いかけは丁寧だったが、望にはその丁寧さの奥にある切実さが理解できた。

増田一人では、この仕組みは形にならないし、想いだけでは予算書は書けないのだ。

望は湯飲みに目を落とした。番茶はもう冷めていた。


手伝う、その言葉が喉まで出かかって止まった。手伝うという距離感は、もう正しくないと思ったのだ。

前回、自分は外側から黒田の仕事を「翻訳」しようとした。それは善意のつもりだった。

しかし外側にいたまま不躾に内部へ触れたから、黒田の想いを壊しそうになってしまった。

今度もまた「手伝う」と言えば、それは結局外から来た人間が技術を貸す、という構図になる。失敗したら引き上げればいい場所に、自分を置くことになるのは嫌だった。


だが……、「翻訳」の失敗で傷つけたものを、もう一度つなぎ直せるなら。

正しい技術を、正しい場所で使えるのなら。

そう決意し、望はゆっくりと答えた。


「……手伝う、ではありません」

その声は低かった。会議室でプレゼンをしたときの通りのいい声ではない。

腹の底から押し出すような、不器用な声だった。


「やります。僕に担わせてください」


担う……、その言葉を選んだのはおそらく無意識だ。

けれど口にした瞬間、手伝うとは違う重さが感じられた。逃げ場を自分で塞ぐ重さだった。

増田が少しだけ目を見開いた。それから頷いた。深く一度だけ。


誰かが「ほう」と息を吐いた。

和菓子屋の女将が黙って望の湯飲みに番茶を足した。温かい茶碗が望の指先に伝わる。


椅子の軋む音がして望が振り向くと、黒田が後ろで小さく息を吐き、天井を仰ぎながら口元を緩めた。


「……ほんまに、ブラックやな」


独り言のような声だった。

誰に向けたのかも分からないけれど、その声にはいつもの棘がなかった。

棘の代わりに長い間一人で握っていたものを、少しだけ手のひらから離すような、そんな響きがあった。その声にはもう孤独な諦めは感じなかった。


町の予算は小さい。AONの提示した額の百分の一にも満たないだろう。

だが、それは寂れゆく商店街において初めて形になった「一歩」なのは確かだった。


名前のない仕事が、一人の背中から降ろされようとしていた。

自己犠牲ではなく意思として。善意ではなく選択として。


集会所を出ると、夜の空気が冷たかった。

どこか遠くで拍子木の音がした。二つ、乾いた音。

火の用心の見回りだろう。誰かが今夜も名前のない仕事をしている。


望はその音が消えるまで、立ち止まって聞いていた。


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