第21話:線を引く
『第2回:AON出店に関する方針説明会について』
次の説明会の正式な連絡は、感情の一切ないメールで届いた。
場所は商工会議所、目的は商店街に対する合意の形成。
文面には、誰が誰を説得するかなどは書かれていない。
ただ出席者リストの中に、望の名前があった。
役割:資料説明および質疑応答。
拒否権のない辞令だった。
メールの画面を閉じた後も、網膜には「合意形成」という四文字が焼き付いて離れない。
反対派の厳しい顔ぶれを想像し、望は胃のあたりに重い塊を感じていた。
逃げ出したくなる気持ちを抑え、資料の修正と想定問答の作成に没頭するうちに、時間は無情に過ぎていった。
その数日後、仮事務所での打ち合わせで、守屋は改めて望に告げた。
「高井さんが話してくれたら、みんな納得する」
望は、これが頼みではないように聞こえた。
パズルのピースをはめるような、事務的な確認だった。
「現場のことも経営の数字も、両方知っているのは、あなただけだ」
確かに、反論の余地がないほど論理的だ。
だからこそ望は、断る理由を見つけられなかった。
それからの準備は、恐ろしいほど効率よく進んだ。
資料作成、数値シミュレーション、想定問答集。
AONが来た場合の経済効果、来なかった場合の衰退予測など。
感情を排した比較表は、誰が見ても一つの答えしか指し示していない。
望は、PCのモニターを見ながら奇妙な浮遊感を覚えていた。
間違っていない、説明としては完璧なはずだ。
だが、何かが欠落しているように感じる。
その「何か」を削ぎ落とすことこそが、今回の仕事だと分かっていても。
説明会の前日、望は夕暮れの路地で黒田を捕まえた。
どうしても、伝えておかなければならなかったのだ。
「明日、商工会議所で……」
言いかけて、喉が詰まる。
黒田は、立ち止まりもしなかった。
「知っとる」
「……話します。現状と可能性について」
「せやろな」
黒田の声には、望を責める響きはない。
ただ、明日の天気を確認するような口調だった。
「黒田さんも、来てください」
望の言葉に、黒田は初めて足を止めた。
ゆっくりと振り返る。
「ワシは、行かん」
「どうしてですか。あなたが当事者じゃないですか!?」
黒田は少しだけ目を細め、自分の足元を見た。
アスファルトに落ちた影と、日向の境目。
「線、引かなあかん時や」
「ここから先は、ワシの場所やない」
その声は何かを諦めたような響きこそなかったが、とても静かだった。
自分の役割の限界を悟った、職人の引き際のようにも聞こえた。
「高井」
名前を呼ばれる。
「お前は、向こう側に立った方がええ」
――向こう側
望の心臓が、早鐘を打った。
「向こうは説明できる世界や。お前の得意な世界や」
黒田は自嘲気味に笑った。
「ワシのやっとることは説明したら終わる。お前が一番、よう分かっとるはずや」
それ以上、会話は続かなかった。
否定したかった。「そんなことはない」と言いたかった。
だが、手元のカバンに入っている資料が、それを許さなかった。
翌日、商工会議所の大会議室は冷房が効いていて肌寒かった。
真っ白な蛍光灯の下、資料が配られ席が埋まっていく。
商店街の店主たち、商工会の役員、そしてAONの担当者。
望は演台の前に立ち、マイクのスイッチを入れた。
ノイズが走り、静寂が訪れる。
と同時に、一気に視線が望に集まる。
話し始めれば、もう戻れない。
このマイクを通した言葉は、すべて「公式な記録」になる。
「……それでは、ご説明します」
自分の声が、他人のもののように響いた。
数字は嘘をつかない、理屈は水のように流れる。
説明は、滞りなく進んだ。
誰も異を唱えない。頷きが増え、空気が「合意」へと固まっていく。
それを演台から見下ろしながら、望は思った。
――線は、もう引かれているんだ
誰かがペンで引いたわけではない。
正しさを積み重ね、効率を突き詰め、異物を排除した結果、自然に浮き上がった境界線。
望の説明が終わり、乾いた拍手が会場を包む。
それは、黒田という存在を過去のものとして葬送する音に聞こえた。
望はもう一度、深く頭を下げた。
その瞬間、脳裏に焼き付いた映像がフラッシュバックする。
汚れた軍手、何もない夜の見回り、名前を呼んでくれた惣菜屋の声、温かい缶コーヒー。
それらは、この完璧な資料には一行たりとも載っていない。
いや、載せられなかった。
会場を出ると、夕方の生ぬるい空気が体にまとわりついた。
望は一人、建物の陰で立ち止まる。
線を引いたのは、自分ではない。
時代の流れと、組織の論理だ。
だが……。
その線の「向こう側」に立ち、こちら側を切り離したのは、紛れもなく自分自身だった。
望は拍手の残響が消えない耳を押さえ、黒田のいない空を見上げた。




