第2話:正しい職場
翌朝、髙井望はいつもどおりの時間に出社した。
エントランスは明るく、床はよく磨かれている。
ガラス張りの壁の向こうに、整然と並んだデスクが見える。
清潔で、合理的で、無駄がない。それが望にとっては居心地が良い。
悪い職場ではない。少なくとも、外から見れば。
望は自分の席に着き、パソコンを立ち上げる。メールはすでに三十件ほど溜まっていた。
その多くが、昨夜までに終わらなかった自分の業務の続きだ。
――問題ない、やるべきことがあるだけだ。
周囲ではキーボードの音だけが、規則正しく鳴っている。
私語はない。誰かと目を合わせる必要もない。
効率的だ、と望は思った。
感情が介在しない分、仕事は早い。
望は、まるで感情の無い機械のように黙々と仕事をこなし、午前中の定例ミーティングの準備をした。
定例のミーティングは時間通りに始まり、予定通りに終わる。
それがこの部署の不文律であり、望にとって最も心地よいリズムだった。
進行役が淡々とした口調で議題を読み上げ、モニターの冷たい光が、無表情に並ぶ社員たちの顔を青白く照らし出す。
すべては、あらかじめ組まれたプログラムのように進むはずだった。
しかし、今日は違った。
その定例ミーティングで、新人の資料に不備が見つかったのだ。
数値の参照元が一つ、間違っている。
致命的ではないが、かなりの修正が必要になる。
「……確認が足りませんでしたね」
上司は淡々と言った。責めるわけでも、庇うわけでもない。
「次から気をつけてください」
それで終わりだった。
新人は小さく頭を下げ、何も言わずに席へ戻る。誰も声をかけない。
望は画面から目を離さず、内心で頷いていた。
――仕事なんだから、徹底した確認は当然するべきだ
――かと言って、自分がフォローする必要な問題じゃない
助けないことが、正しい判断だと思えた。
だが、キーボードを叩く指先が、ほんの一瞬だけ止まった。
新人のデスクから聞こえる、圧し殺したような溜息を聞いたからだ。
それが昨晩、自分が改札の前で漏らした「……ですよね」という呟きと重なった気がした。
いいや、違う。
望はすぐに首を振り、作業に戻った。感傷はノイズだ。
昼休み、休憩スペースで出勤時にコンビニで買った弁当を食べながら、望は昨夜のことを思い出していた。
夜の商店街、落ちかけた看板、よれたジャンパーの男。
「ブラック企業、興味あるか?」
脈絡のない言葉が、妙に頭から離れない。
――くだらない
――ただのノイズだ
望は小さく息を吐いた。
仕事は結果を出す場所だ、善意や気分でやるものじゃない。
望は自分に言い聞かせた。
午後の業務も滞りなく進んだ。資料は整い、数字は揃う。
上司からの指摘もない。とても正しい一日だった。
定時は少し過ぎていたが、誰もそれを気にしない。
帰る人間がいないからだ。
いつもより早く仕事を終えて席を立ったとき、窓の外が視界に入ってきた。
毎日真っ暗だった窓の景色が、今日は夕方の濃い色のままだった。
――今日は商店街で買い物をしてから帰れるな
望は商店街へ向かった。
実は、出勤時はたった1駅だが電車で通勤することにしている。
その方が時間に正確だから、それ以上の理由はない。
しかし徒歩の場合は、商店街を突っ切ることで自宅アパートへの近道になるのだ。
夕方の商店街は、昼とも夜とも違う顔をしている。
人はいるが、賑わっているわけではない。
惣菜屋の前で足を止める主婦。
八百屋で野菜を選ぶ老人。
仕事帰りに通り抜けていく数人。
誰も急いではいないが、長居もしない。
この通りも、昔に比べれば静かになったと聞く。
おもらく理由は一つではない。
インターネットで物が買えるようになり、遠くの店と比べて、値段や品揃えを簡単に確認できる時代になった。
店員と会話をしなくても、買い物は成立する。
それを「効率がいい」と感じる人が増えた。
望自身も、そうだ。
画面を数回タップするだけで、必要なものは翌日には届く。
速くて、正確で、無駄がない。
それでも――この商店街は、まだ続いている。
シャッターが下りた店はある。だが、すべてではない。
掃除をする人がいて、店先に立つ人がいる。
理由は分からないが、ここには人の気配が残っていた。
その中に、見覚えのある背中を見つけた。
よれたジャンパー、少し汚れたズボン、昨日と同じように何かを運んでいる。
――昨晩のあの人だ
声をかけるか、一瞬迷った。もちろん用事はない。話す理由もない。
それでも足を止めた。
「……昨日は、どうも」
望が声をかけると、男は振り返った。
「ああ、終電の兄ちゃん」
覚えられていたことに、少しだけ驚く。
「今日は、早いんやな」
「いえ、たまたまです」
黒田は段ボールを下ろし、額の汗を拭った。
「こっちはな、まだまだ仕事や」
「この時間で、ですか?」
「この時間やから、や」
黒田は商店街を見渡してから、こちらに顔を向ける。
軽く肩をすくめながら話す。
「人も少ない、邪魔も入らへん」
「効率、ええやろ?」
望は周囲を見回した。
確かに人はいるが、多くはない。
通りは静かで、作業の邪魔になるものもない。
「……確かにそうですね」
黒田は段ボールを抱え直し、通りの先を見る。
そして驚くことを言う。
「せやけどなぁ、金にはならへん」
望は、ビックリして反射的に返した。
「それでも、やってるんですか?」
黒田はニヤリと笑い、続けた。
「実はな、やらんと困るやつがおる」
それだけを言って、黒田は歩き出した。
望は反射的に何か言い返そうとしたが、何も言葉が出てこなかった。
胸の奥だけが、わずかにざわつく。合理的ではない、生産性もない。
胸の奥で感じた、その「無駄」を切り捨てようとした瞬間、もっと深い箇所で冷たい棘のようなものが引っかかった。
――いや、これはノイズだ
望は革靴のつま先を、進行方向――自宅アパートの方角へと向け直す。
感情は判断を鈍らせる。
正解は常に、数字と論理の中にあるはずだ。
「では、失礼します」
望は聞こえないだろう黒田の背中に向かってそう言うと、急いで軽く頭を下げ、その場を離れようとした。
すると背中越しに、黒田の声が飛んでくる。
「終電の兄ちゃん、逃げ道は持っときや」
まさか聞こえていたとは思わなかった。
それよりも、意味が分からない。
でも何故だか、その言葉だけが残った。
再度振り返ってみると、すでに黒田の姿はなかった。
古びた商店街が、黄昏の中に沈んでいった。
正しい職場と正しい働き方。
何も間違っていないはずの一日が、黒い染みを落とされたように、少しだけ歪んで見えた。




