第19話:AONの噂
その噂は、何処からともなく急速に広まった。
会議資料にも回覧板にも載っていない、ただの噂のはずだった。
どの都市の、どの郊外にも突然現れる期待を孕んだ噂。
しかしその噂は、水よりも浸透力の高い場所から一気に漏れ出した。
「聞いたか?」
商店街の端にあるタバコ屋の前で低い声が聞こえてきた。
ちょうど商店街を歩いていた望は、足を止めて聞き耳を立てた。
声の主は、古株の店主たち数人だった。
「聞いたって、何をや?」
「AONや」
そのアルファベット三文字は、それ以上の説明を必要としなかった。
全国どこにでもあり、すべてを飲み込んでいく巨大ショッピングモール。
便利、清潔、安価、現代における「効率と合理」の象徴。
店主たちは続けた。
「この辺りに、話が来とるらしい」
「らしいな」
確定ではない、ソースも不明だ。
だが、その「らしい」だけで、商店街の空気を変えるには十分だった。
「駅の向こうの空き地やて」
「駐車場、千台規模らしいで」
「そら、若いもんはそっち行くわな」
誰も声を荒らげてAONの進出には反対していない。
むしろ諦めと、微かな期待が混じったような口調だった。
望は何とは言えないが、なんだか嫌な予感がした。
現代の効率化と利便性を観点に考えれば、AONの展開は正しい。
雇用を生み、税収を増やし、利便性を高める。
商工会が求めていた「持続可能性」や「KGI」といった小賢しい理屈を、その巨大な資本力だけで軽々とクリアしてしまう。
その時、望に気づいた店主の一人がこちらに話しかけてきた。
「黒田さんは、何て言うとる?」
「あんた、よう一緒におるやろ」
ドクン、と望の心臓が跳ねる。望は明らかに動揺し、言葉に詰まった。
その脳裏に、夕暮れの路地で背中を向けた黒田の姿が蘇る。
『お前は、あっち側の人間として、ええ仕事をしたんや』
あの冷たい宣告が、喉に刺さった小骨のように痛む。
「……まだ、何も」
視線を逸らし、掠れた声で答えるのが精一杯だった。嘘や誤魔化しではない。
あれ以来、黒田とは一度も話すことすら出来ていないのだ。
実際、話す資格が自分にあるのかどうかも、望には分からなかった。
店主たちは望の動揺には気づかず、遠くを見る目をして話した。
「便利になるのは、ええことや。今のままやと、正直しんどいしな」
それが本音だった。
シャッターを開けるたびに減っていく客足、老朽化する設備、後継者の不在。
店主たちにとってAONは、その閉塞感を一撃で粉砕してくれる「黒船」に見えているのだ。
望は、ふと気づく。
誰も「黒田さんが反対するなら考えよう」とは言わない。
そもそも、話題の中心に黒田は居なかった。
巨大な「分かりやすい正しさ」の前では、黒田のような「見えにくい正義」は議論のテーブルにさえ乗らないということなのか……。
その日の夜。
望は自室のベッドで、スマートフォンの画面を見つめていた。宛先は黒田。
メッセージ入力欄のカーソルが、心拍のように点滅している。
『AONの話が出ています』
打っては、消す。
『ご存知ですか?』
打っては、また消す。
――連絡して、どうする?
自嘲の声が頭に響く。
お前は「あっち側」だと突き放されたが、黒田を過去の遺物に翻訳したのは自分だ。
今さら、どの面を下げて連絡すればいいのか。
それでも……。
この噂だけは、伝えておかなければならない気がした。
これは「整理」や「管理」の問題ではない。
もっと根本的な、この街の存続に関わる嵐だ。
望は迷いを振り切るように、事務的な文面を入力して送信ボタンを押した。
『AONの出店について、噂が出回っています』
既読はつかない、以前なら即レスだったはずの返事も来ない。
沈黙だけが、画面の向こうに広がっていた。
翌日、商工会から正式な連絡メールが入った。
件名は『大型商業施設進出に伴う説明会について』と書かれている。
噂は、すでに事実として動き始めていたわけだ。
「進出の可能性」という慎重な文言だったが、説明会が開かれる時点で水面下の交渉は終わっているも同然だ。
すぐに、早川から個別にメッセージが届いた。
『高井さんも、必ず来てください』
『現場の感情論ではなく、数字の分かる人に聞いてほしいのです』
「分かる人」
その言葉に、望は笑いを漏らした。
早川は、望を同志だと思っている。
効率と合理性を愛する、こちらの世界の住人だと。
そしてそれは、あながち間違いではないのも事実だ。
望はスーツの上着を羽織り、商店街に向かう。
いつもと同じ風景。
錆びた看板、手書きのポップ、猫が横切る路地。
しかし、それらはAONという巨大な影が差した瞬間、すべてが「消えゆく仮初のもの」に見えた。
取り壊しを待つだけの、過去の遺産。
――ここは、残るのか
――残す価値があるのか
その判断を下す「裁判官」の席に、自分が座らされようとしている。
望は、ポケットの中で強く拳を握りしめた。
噂は、まだ噂に過ぎない。
しかし街の人の心はもう、新しい光の方へ傾いている。
誰も悪くない、誰も間違っていない。
だからこそ、一番怖い。
望は黒田に見つからないよう、商店街の路地を逃げるように早足で歩き説明会に向かった。




