表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第3章】町は誰のものか ―正しさが衝突する場所―
19/52

第19話:AONの噂

その噂は、何処からともなく急速に広まった。

会議資料にも回覧板にも載っていない、ただの噂のはずだった。


どの都市の、どの郊外にも突然現れる期待を孕んだ噂。

しかしその噂は、水よりも浸透力の高い場所から一気に漏れ出した。


「聞いたか?」


商店街の端にあるタバコ屋の前で低い声が聞こえてきた。

ちょうど商店街を歩いていた望は、足を止めて聞き耳を立てた。

声の主は、古株の店主たち数人だった。


「聞いたって、何をや?」

「AONや」


そのアルファベット三文字は、それ以上の説明を必要としなかった。

全国どこにでもあり、すべてを飲み込んでいく巨大ショッピングモール。

便利、清潔、安価、現代における「効率と合理」の象徴。

店主たちは続けた。


「この辺りに、話が来とるらしい」

「らしいな」


確定ではない、ソースも不明だ。

だが、その「らしい」だけで、商店街の空気を変えるには十分だった。


「駅の向こうの空き地やて」

「駐車場、千台規模らしいで」

「そら、若いもんはそっち行くわな」


誰も声を荒らげてAONの進出には反対していない。

むしろ諦めと、微かな期待が混じったような口調だった。


望は何とは言えないが、なんだか嫌な予感がした。

現代の効率化と利便性を観点に考えれば、AONの展開は正しい。

雇用を生み、税収を増やし、利便性を高める。


商工会が求めていた「持続可能性」や「KGI」といった小賢しい理屈を、その巨大な資本力だけで軽々とクリアしてしまう。


その時、望に気づいた店主の一人がこちらに話しかけてきた。


「黒田さんは、何て言うとる?」

「あんた、よう一緒におるやろ」


ドクン、と望の心臓が跳ねる。望は明らかに動揺し、言葉に詰まった。

その脳裏に、夕暮れの路地で背中を向けた黒田の姿が蘇る。


『お前は、あっち側の人間として、ええ仕事をしたんや』

あの冷たい宣告が、喉に刺さった小骨のように痛む。


「……まだ、何も」


視線を逸らし、掠れた声で答えるのが精一杯だった。嘘や誤魔化しではない。

あれ以来、黒田とは一度も話すことすら出来ていないのだ。


実際、話す資格が自分にあるのかどうかも、望には分からなかった。

店主たちは望の動揺には気づかず、遠くを見る目をして話した。


「便利になるのは、ええことや。今のままやと、正直しんどいしな」


それが本音だった。

シャッターを開けるたびに減っていく客足、老朽化する設備、後継者の不在。

店主たちにとってAONは、その閉塞感を一撃で粉砕してくれる「黒船」に見えているのだ。


望は、ふと気づく。

誰も「黒田さんが反対するなら考えよう」とは言わない。

そもそも、話題の中心に黒田は居なかった。


巨大な「分かりやすい正しさ」の前では、黒田のような「見えにくい正義」は議論のテーブルにさえ乗らないということなのか……。


その日の夜。

望は自室のベッドで、スマートフォンの画面を見つめていた。宛先は黒田。

メッセージ入力欄のカーソルが、心拍のように点滅している。


『AONの話が出ています』

打っては、消す。


『ご存知ですか?』

打っては、また消す。


――連絡して、どうする?


自嘲の声が頭に響く。

お前は「あっち側」だと突き放されたが、黒田を過去の遺物に翻訳したのは自分だ。

今さら、どの面を下げて連絡すればいいのか。


それでも……。

この噂だけは、伝えておかなければならない気がした。


これは「整理」や「管理」の問題ではない。

もっと根本的な、この街の存続に関わる嵐だ。


望は迷いを振り切るように、事務的な文面を入力して送信ボタンを押した。


『AONの出店について、噂が出回っています』


既読はつかない、以前なら即レスだったはずの返事も来ない。

沈黙だけが、画面の向こうに広がっていた。


翌日、商工会から正式な連絡メールが入った。

件名は『大型商業施設進出に伴う説明会について』と書かれている。


噂は、すでに事実として動き始めていたわけだ。

「進出の可能性」という慎重な文言だったが、説明会が開かれる時点で水面下の交渉は終わっているも同然だ。


すぐに、早川から個別にメッセージが届いた。


『高井さんも、必ず来てください』

『現場の感情論ではなく、数字の分かる人に聞いてほしいのです』


「分かる人」

その言葉に、望は笑いを漏らした。


早川は、望を同志だと思っている。

効率と合理性を愛する、こちらの世界の住人だと。

そしてそれは、あながち間違いではないのも事実だ。


望はスーツの上着を羽織り、商店街に向かう。

いつもと同じ風景。

錆びた看板、手書きのポップ、猫が横切る路地。


しかし、それらはAONという巨大な影が差した瞬間、すべてが「消えゆく仮初のもの」に見えた。

取り壊しを待つだけの、過去の遺産。


――ここは、残るのか

――残す価値があるのか


その判断を下す「裁判官」の席に、自分が座らされようとしている。

望は、ポケットの中で強く拳を握りしめた。


噂は、まだ噂に過ぎない。

しかし街の人の心はもう、新しい光の方へ傾いている。


誰も悪くない、誰も間違っていない。

だからこそ、一番怖い。


望は黒田に見つからないよう、商店街の路地を逃げるように早足で歩き説明会に向かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ