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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第3章】町は誰のものか ―正しさが衝突する場所―
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第18話:名前のない仕事

望がまとめた資料は、残酷なほど完璧だった。

作業項目、頻度、所要時間、想定効果。

混沌としていた黒田の日常が、整然とした「業務リスト」へと変換されている。


数字にできるものは、すべて数字にした。

できないものには、ITの現場で使い慣れた注釈をつけた。


――定量化困難

――効果測定不可


それ以外の表現は、思いつかなかった。

それが「測定する価値なし」と翻訳されるリスクを知りながら、望はそう書くしかなかった。


商工会との再度の打ち合わせ。

「確認だけです」守屋公正はそう前置きし、資料を開いた。

早川利行は、感情の読めない顔で数字を追っている。

平山均は、困ったように眉尻を下げて全体を眺めている。


「ここまで整理してもらえれば、判断しやすいですね」


守屋の言葉に、望は小さく頷いた。

――判断


その言葉が処刑の合図のように響く。


「では、具体的に……」


早川が資料のページをめくりながら話す。

指が止まったのは、望が最も苦心した一行だった。


『見回り・近隣対応・トラブル予防』備考欄:効果未確認


「ここ、効果が『未確認』となっています」

「……はい」


望は、乾いた喉で答えた。

望の答えに続く早川の声は、ますます冷静に分析している様子だ。


「発生件数が少ないため比較対象がなく、数値化できません……」

「つまり、やっているかどうかが分からない!?」


望が慌てて答える。

「コストが発生しているのに、リターンが不明確だということです」


早川は冷静に返す。


「そういう仕事は……」

「名前が付けにくい」


「担当も曖昧で、成果も見えない。組織として予算をつけるには、根拠が薄すぎます」


まさしく正論だ。望は反論できなかった。

自分が作った資料が、雄弁に「無駄だ」と証明してしまっているからだ。

商店街の理事たちからも、ざわめきが漏れる。


「確かに……何をしてもらってるか、説明しろ言われたら困るな」

「助かってるのは分かるんやけど……」

「でも見回るだけなら、それって誰でもできるんちゃうか?」


誰にでもできる。

その言葉が、望の胸に深く刺さった。


黒田は、黙って聞いていた。

腕を組み、壁のシミを見つめるように視線を外している。


「見回りについては……」

早川が、タブレットを操作しながら提案した。


「もし必要なら、警備会社への委託も検討できます。週三回の巡回で、月額これくらいです」


画面に金額が出る。

確かに安い、黒田が費やしている時間の価値よりも、はるかに安価だ。


「費用は明確ですし、日報も出ます。成果は可視化されます」


――成果、明確、可視化

望は、日頃会社で使い慣れているそれらの言葉を頭の中で反芻する。


「入居判断についても独自の勘ではなく、審査基準チェックリストを設ければ属人性は排除できます」

「これには、再現性があります」


再現性…、望は資料の文字が歪んで見えた。

自分が作った資料が、黒田を追い詰めるための完璧な包囲網になっている。


そのとき、黒田が口を開いた。

低い、地を這うような声だった。


「それは、ワシの仕事やない」


全員の視線が、一斉に黒田に集まる。

黒田は早川ではなく、虚空を見つめて言った。


「ワシはな……」

「“何も起きてへん”状態を作っとるだけや。起きてから報告書を書く仕事は、ワシの役目やない」


守屋は、落ち着いて応じる。


「おっしゃることは理解します。ただ、それを『業務』として継続するには、説明責任が必要です」


黒田は、首を横に振った。

「説明したら、終わる仕事や」


その言葉に、会議室の時間が止まった。

望は、息をするのも忘れていた。


説明した瞬間、何かが別のものに変わってしまうのだ。

「見回り」と名付けた瞬間に、「異常がなければサボっているのと同じ」になる。

「相談」と名付けた瞬間に、「時間の浪費」になる。


黒田は淡々と。自分の意見を続けた。


「名前を付けたら、切られる」

「名前のない仕事やから、隙間に残っとるんや」


黒田の声に、怒りの様子はない。

早川は、ますます理解できないという顔をした。


「それでは、管理できません」

「管理できんもんを、拾っとるんや」


黒田は引き下がらなかった。

そこには、ただ埋めようのない断絶だけがあった。

平山が、おずおずと間に入る。


「どこか、折り合いは……」

「ない」


黒田は即答した。


会議は、それ以上進まなかった。

誰も声を荒らげたわけではないが、交わらない平行線が引かれただけだ。


話し合いは終わり、集まった人が散っていく。

望は、黒田の後を追って外に出た。


夜に差し掛かったばかりの商店街は、いつも通りだった。

しかし望にはもう、昨日までの景色とは違って見えた。


「……黒田さん」


呼び止めると、黒田は足を止めた。

でも振り返らなかった。


望は、謝罪の言葉を頭の中で探した。

「すみません」と言うのは簡単だが、それは違う気がした。

自分がやったのは、頼まれた通りの「正しい仕事」だったはず。


考えた尽くした結果、望は震える声で話した。


「……資料、書き直します」

「もっと、定性的な価値を……黒田さんのやっていることの意味が伝わるように、別の言葉で……」


「いらん」

黒田の声が、望の言葉を遮るように帰ってきた。


ゆっくりと、黒田が振り返る。

その目は、かつてないほど冷めていた。


「お前は、ようやった」


それは褒め言葉ではないように感じた。

何かしらの線引きにも聞こえる宣告のようだった。


「お前の資料は、完璧やった」

「あのおっさんらも、納得しとったやろ?『誰でもできる』ってな」


「それは……!」

「事実や」


黒田はポケットから煙草を取り出し、くわえずに手の中で折った。

パキリ、と乾いた音が夜の商店街に響く。


「名前をつけて、説明して、誰でも切れるようにした。それがお前の仕事や」

「お前は、あっち側の人間として、ええ仕事をしたんや」


「違います! 僕は……」

「違うことあるかい」


黒田は、折れた煙草をゴミ箱に放り投げた。


「お前が翻訳したんや、ワシを過去の遺物にな」


望は何も言えなくなった。否定もできなかった。

自分が振るったメスが、黒田という存在を解体したのだ。


「ええ勉強になったわ」


黒田は、それだけ言い残し歩き出した。

「また明日」とも、「連絡する」とも言わなかった。


望は、その背中を追いかけることができなかった。

街灯の明かりの下、自分の影だけが濃く黒く伸びている。


自分は、何をしたかったのか。

助けようとして、トドメを刺した。

間に立とうとして、引導を渡した。


名前のない仕事は、誰かが黙って引き受けなければ消えてしまう。


そして今、それを消したのは……。

紛れもない自分自身だった。


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