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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第3章】町は誰のものか ―正しさが衝突する場所―
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第17話:数字の話

数字は、裏切らない。

少なくとも、ビジネスの世界ではそう信じられている。


時に数字は、感情も、事情も、汗の匂いも、すべてを濾過して残る純粋な結晶。

だからこそ、それは時にどんな言葉よりも冷酷な刃物になる。


守屋公正は、手元のファイルを閉じながら話した。

「ここから先は、感覚の話では進められません」


その声は落ち着いており、威圧感は全く感じられない。

むしろ、これから難しい手術を始める医師のような、冷静な配慮があった。


「黒田さんの取り組みが、商店街にとって本当に『資産』なのか、それとも『コスト』なのか、それを数字で確認したいのです」


確認したい、否定ではない。

否定ではないが、それが「不合格なら排除する」という通告の婉曲表現であることを、望は痛いほど理解していた。


「現在の収支モデルは、どうなっていますか?」


早川利行が、タブレットを構えて聞いた。

入力フォームが既に開かれている。


黒田は、少しだけ視線を宙に浮かせて短く答えた。


「トントンや」


早川の手が止まる。


「トントン、というのは収支ゼロということですか? 年間で見て平均どれくらいの黒字、あるいは赤字が出ていますか?」

「その年による」


「変動費の要因は?」

「何が壊れるかによる」


会話が噛み合わない。

早川は、困ったように眉尻を下げた。


「それでは、予実管理ができません。過去三年分のキャッシュフローは?」


質問は淡々と続けられた。

決して、責めているわけではない。

ただ、計算式を成立させるための変数を求めているだけだ。


黒田は、しばらく黙った。

その沈黙は数字を隠しているのではなく、そもそも「持っていない」者の沈黙なのだ。

黒田は、吐き捨てるように言った。


「……出せん」

「正確な数字は、持っとらん」


室内の空気が、真空になったように張り詰めた。

守屋が、眼鏡の位置を直しながら聞いた。


「把握していない、ということですか?」

「せや」


黒田は、悪びれずに答えた。


「日々の帳尻は見とるし、金が尽きんようにはしとる。せやけど、あんたらが欲しがるような『成果』としての数字は、まとめとらん」


早川が、深く溜息をついた。

「それは、管理体制として致命的です」


正論だった。

あまりにも真っ当な、企業の論理だ。


「今後、補助金を申請するにしても活動を継続するにしても、エビデンス(証拠)が必須です。数字がなければ、我々は評価のしようがない」


黒田は、反論しなかった。反論できなかったのではない。

共通言語を持っていない相手に、何を言っても無駄だと悟っている顔をしていた。


お互いの会話が止まる。

このままでは、黒田は「管理不能なリスク要因」として処理される。

その未来が、プロジェクターの光のようにありありと見えた。


望は、その「エラーが放置された状態」に耐えられなかった。

気づけば、右手が上がっていた。


「……私が、整理しましょうか?」


全員の視線が、望に集まる。

誰も驚く様子はなく、「やはり、そう来たか」という目で望に視線を向けた。


その空気に対して、守屋は満足げに同意するように言った。


「高井さんなら、できるでしょう」

「黒田さんの活動を会計上の数字に落とし込むのは、あなたが適任だ」


それを聞いて、早川も頷く。

「それでやっと、判断できます」


判断、ジャッジ、選別。

望は緊張で、喉が渇くのを感じた。


――数字に落とし込む


それは前回行った「翻訳」よりも、さらに不可逆な加工になる。

曖昧な善意を、冷徹な損益計算書に書き換える作業なのだ。


「……分かりました、来週までには」


望は、そう答えてしまった。

一方、黒田は何も言わなかった。


「やめとけ」とも、「頼む」とも言わない。

ぼんやりと、窓の外の夕暮れを見ているだけだった。

その沈黙が、望には一番重い。


会合が終わり、望は黒田と二人で外に出た。

夕方の商店街はシャッターを下ろす音が、あちらこちらで響いていた。


「すまん」


黒田が、唐突に言った。

望は驚いて足を止めた。


「何が、ですか?」

「面倒なことを押し付けてしもうた。貧乏くじやな」


黒田は本当に申し訳ない、という顔をしていた。

望は慌てて首を振った。


「合理的に考えれば、必要なプロセスです。避けては通れません」


そう言いながら、自分の声が乾いた砂のように響くのを感じた。


「数字さえ、出したら……」


言いかけて、口をつぐむ。

その先が、分かってしまったからだ。


数字を出せば、他の業者や一般的な相場と比較される。

そして判断されるのだ。

切るか、残すか。


「なぁ、数字ってな」


黒田が、ポケットに手を突っ込んだまま言った。

少し間を置いて続ける。


「出した瞬間、安心するやつと、それを見て人を切るやつがおるんや」


望は、何も答えられなかった。

自分が今、その「切るためのナイフ」を研ごうとしている自覚があったからだ。

黒田は、そんな望の心境にはお構いなく淡々と続けた。


「ワシは、切られる側や」


それが冗談でも卑下でもないことは、その背中が語っていた。

彼は知っているのだ。

正しさが、数字という形を纏って襲ってきたとき、誰が犠牲になるのかを。


数字の話は、これで終わったわけではない。

むしろ、カウントダウンが始まったのだ。


望は、自分の手を見つめた。

この手で、黒田の仕事を「終わらせる」ための計算を始める。

その矛盾と重みに、足がすくみそうだった。


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