第16話:間に立つ
頼まれたわけではないのだが、断らなかったのは自分だ。
望は、商工会との打ち合わせ資料を前にしていた。
モニターの明かりだけが、深夜の部屋を照らしている。
机の上に並ぶのは、きれいな枠線で区切られた表だ。
活動内容、作業時間、想定効果。
望は黒田のやっている泥臭い行為を、一つずつ清潔な言葉に変換していく。
「近所の話し相手」は、『地域コミュニティの維持』へ。
「今すぐ直す」は、『即応体制による修繕』へ。
「顔を見て判断する」は、『入居者リスクの定性評価』へ。
あちら側の言葉に翻訳できないわけではない。
今も会社でやっていることと同じ、複雑な情報を整理して誰もが読める論理に落とし込むだけだ。
――できるはずだ
そう自分に言い聞かせ、キーボードを叩く。
画面の中から黒田の汗や匂いが消え、整然としたデータになっていく。
翌日の夜、早速前回の続きの会合が、商工会の会議室で小規模に行われた。
出席者は、商工会の守屋、早川、平山。
そして、壁際に立つ黒田。
「今日は、高井さんから説明してもらいます」
守屋が言い、視線が一斉に望に集まる。
望は、プリントアウトした資料を配った。
「……黒田さんの活動について、整理しました」
「彼の活動は短期的な収益ではなく、長期的な資産価値の維持を目的としています」
紙の上の文字は整っていて、説得力があった。
間違ってはいない。
「トラブルを未然に防ぐ『予防保全』を行うことで、結果的に修繕コストや退去リスクを削減しています」
数字も、仮説だが入れている。
「住民との関係性を維持し、空室リスクを下げる。これは不動産管理におけるLTV(顧客生涯価値)の最大化です」
一つ一つ丁寧に、合理的だと説明する。
早川が資料を見ながら、深く頷いている。
「なるほど。ボランティアではなく、先行投資だと」
「そういう整理なら、理解できます」
早川に続いて平山も、穏やかに同意する。
守屋は、資料をめくりながら言った。
「では、この運用フローで共有可能ですね」
――共有
その言葉を聞いた瞬間、望の胸に小さな棘が刺さった。
念のため確認する。
「共有、というのは……?」
「標準化です」
早川が言葉を継いだ。
「担当者を決め、手順をマニュアル化すれば、誰でも同じことができます」
そして早川は、黒田の方を見る。
黒田は黙ったまま、資料さえ見ていない。
その視線は、窓の外の電線に向けられていた。
まるで、自分の葬式に立ち会っている部外者のような顔だった。
「高井さん」
守屋が、静かに促す。
望は重ねた論理から、ゴールである補助金の予算へと話を繋げた。
「この形なら、県の補助金の枠にも乗せられます」
「属人化も避けられますしね」
早川が何気なく補完するように言った。
属人化は、定型的なビジネスにおいて排除すべきリスクなのだ。
特定の人間にしかできない仕事は、組織の弱点にもなる。
だが、属人化という言葉が、望の耳に残って離れない。
望は、黒田との仕事を思い出す。
名前を呼ばれたこと、缶コーヒーの温かさ、「今日はここまで」という区切り。
あれは、すべて「黒田」という人間に依存していた。
属人化そのものなのだ。
「……少し、待ってください」
望は、思わず口を挟んだ。
全員の視線が、再び集まる。
「このやり方だと……」
言葉を慎重に選ぶ。
喉も乾いていくのを感じた。
「同じ作業は、できると思います。数字も出るでしょう」
「でも……」
望は、黒田の方を見ずに言った。
「黒田さんである必要は、なくなります」
望は、ついに言ってしまったと感じたが、商工会のメンバーの様子は変わらない。
単に「それが何か?」という、純粋な疑問しか持っていない様子だ。
少しの沈黙を破り、守屋が静かに答えた。
「それは、悪いことではありません」
「個人に依存しない仕組みこそが、組織には必要です」
「誰がやっても同じ結果が出る。それが持続可能性です」
それは企業の論理だった。
望が普段信じている、あちら側の世界の正解だ。
だからこそ、望には反論の言葉が見つからない。
その時、黒田が初めて口を開いた。
その声には、怒気もなく悲嘆もない、純粋な問いだった。
「ほな、ワシは何になるんや?」
誰でもできる、誰がやっても同じ結果が出る。
それが「正しい仕事」だとするなら。
「ワシがやってきたことは、何やったんや?」
誰も、答えられなかった。
望は、喉の奥が後悔という名の異物で詰まるのを感じた。
自分がやったのは、ただの翻訳のはずだった。
だが言葉にした瞬間、その言葉が黒田の仕事を「誰でもできる作業」に書き換えてしまった。 意味を伝えようとして、魂を殺してしまった。
「……まあ、ええわ」
黒田は短くそう言い捨てて、会議室を出て行った。
追いかけたい、しかし足が動かない。
そんな望の様子を見ていた守屋が、望に声をかける。
それは望に対する評価だった。
「よく整理できていました。感謝します」
「これなら、前に進めます」
――前に進む
その言葉が、望の胸の中で暴力的に響いた。
誰かを置き去りにすることでしか、進めない前進。
望は、一人、会議室に残った。
机の上には、自分が作った「完璧な資料」が残されている。
整っている、分かりやすい、誰もが納得する。
だが、そこにはもう何の匂いもしなかった。
きれいに漂白された抜け殻だけが、そこには残った。
間に立つ……。
それは、両方を守ることではなかった。
片方の論理で、もう片方を切り刻むことだった。
望は、その取り返しのつかない事実を震える手で受け止めていた。




