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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第3章】町は誰のものか ―正しさが衝突する場所―
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第16話:間に立つ

頼まれたわけではないのだが、断らなかったのは自分だ。

望は、商工会との打ち合わせ資料を前にしていた。

モニターの明かりだけが、深夜の部屋を照らしている。


机の上に並ぶのは、きれいな枠線で区切られた表だ。

活動内容、作業時間、想定効果。


望は黒田のやっている泥臭い行為を、一つずつ清潔な言葉に変換していく。


「近所の話し相手」は、『地域コミュニティの維持』へ。

「今すぐ直す」は、『即応体制による修繕』へ。

「顔を見て判断する」は、『入居者リスクの定性評価』へ。


あちら側の言葉に翻訳できないわけではない。

今も会社でやっていることと同じ、複雑な情報を整理して誰もが読める論理に落とし込むだけだ。


――できるはずだ


そう自分に言い聞かせ、キーボードを叩く。

画面の中から黒田の汗や匂いが消え、整然としたデータになっていく。


翌日の夜、早速前回の続きの会合が、商工会の会議室で小規模に行われた。

出席者は、商工会の守屋、早川、平山。

そして、壁際に立つ黒田。


「今日は、高井さんから説明してもらいます」


守屋が言い、視線が一斉に望に集まる。

望は、プリントアウトした資料を配った。


「……黒田さんの活動について、整理しました」

「彼の活動は短期的な収益ではなく、長期的な資産価値の維持を目的としています」


紙の上の文字は整っていて、説得力があった。

間違ってはいない。


「トラブルを未然に防ぐ『予防保全』を行うことで、結果的に修繕コストや退去リスクを削減しています」


数字も、仮説だが入れている。


「住民との関係性を維持し、空室リスクを下げる。これは不動産管理におけるLTV(顧客生涯価値)の最大化です」


一つ一つ丁寧に、合理的だと説明する。

早川が資料を見ながら、深く頷いている。


「なるほど。ボランティアではなく、先行投資だと」

「そういう整理なら、理解できます」


早川に続いて平山も、穏やかに同意する。

守屋は、資料をめくりながら言った。


「では、この運用フローで共有可能ですね」


――共有

その言葉を聞いた瞬間、望の胸に小さな棘が刺さった。

念のため確認する。


「共有、というのは……?」

「標準化です」


早川が言葉を継いだ。

「担当者を決め、手順をマニュアル化すれば、誰でも同じことができます」


そして早川は、黒田の方を見る。

黒田は黙ったまま、資料さえ見ていない。

その視線は、窓の外の電線に向けられていた。

まるで、自分の葬式に立ち会っている部外者のような顔だった。


「高井さん」


守屋が、静かに促す。

望は重ねた論理から、ゴールである補助金の予算へと話を繋げた。


「この形なら、県の補助金の枠にも乗せられます」

「属人化も避けられますしね」


早川が何気なく補完するように言った。

属人化は、定型的なビジネスにおいて排除すべきリスクなのだ。

特定の人間にしかできない仕事は、組織の弱点にもなる。


だが、属人化という言葉が、望の耳に残って離れない。

望は、黒田との仕事を思い出す。


名前を呼ばれたこと、缶コーヒーの温かさ、「今日はここまで」という区切り。

あれは、すべて「黒田」という人間に依存していた。

属人化そのものなのだ。


「……少し、待ってください」


望は、思わず口を挟んだ。

全員の視線が、再び集まる。


「このやり方だと……」

言葉を慎重に選ぶ。

喉も乾いていくのを感じた。


「同じ作業は、できると思います。数字も出るでしょう」

「でも……」


望は、黒田の方を見ずに言った。


「黒田さんである必要は、なくなります」


望は、ついに言ってしまったと感じたが、商工会のメンバーの様子は変わらない。

単に「それが何か?」という、純粋な疑問しか持っていない様子だ。


少しの沈黙を破り、守屋が静かに答えた。


「それは、悪いことではありません」

「個人に依存しない仕組みこそが、組織には必要です」

「誰がやっても同じ結果が出る。それが持続可能性サステナビリティです」


それは企業の論理だった。

望が普段信じている、あちら側の世界の正解だ。

だからこそ、望には反論の言葉が見つからない。


その時、黒田が初めて口を開いた。

その声には、怒気もなく悲嘆もない、純粋な問いだった。


「ほな、ワシは何になるんや?」


誰でもできる、誰がやっても同じ結果が出る。

それが「正しい仕事」だとするなら。


「ワシがやってきたことは、何やったんや?」


誰も、答えられなかった。

望は、喉の奥が後悔という名の異物で詰まるのを感じた。


自分がやったのは、ただの翻訳のはずだった。

だが言葉にした瞬間、その言葉が黒田の仕事を「誰でもできる作業」に書き換えてしまった。 意味を伝えようとして、魂を殺してしまった。


「……まあ、ええわ」


黒田は短くそう言い捨てて、会議室を出て行った。

追いかけたい、しかし足が動かない。


そんな望の様子を見ていた守屋が、望に声をかける。

それは望に対する評価だった。


「よく整理できていました。感謝します」

「これなら、前に進めます」


――前に進む

その言葉が、望の胸の中で暴力的に響いた。

誰かを置き去りにすることでしか、進めない前進。


望は、一人、会議室に残った。

机の上には、自分が作った「完璧な資料」が残されている。

整っている、分かりやすい、誰もが納得する。


だが、そこにはもう何の匂いもしなかった。

きれいに漂白された抜け殻だけが、そこには残った。


間に立つ……。


それは、両方を守ることではなかった。

片方の論理で、もう片方を切り刻むことだった。


望は、その取り返しのつかない事実を震える手で受け止めていた。


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