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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第3章】町は誰のものか ―正しさが衝突する場所―
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第15話:正しい人たち

商工会の会合から数日が経過していたが、表向きには商店街は何も変わっていない。

掃除も、修繕も、夜の見回りも、黒田は淡々と続けている。


それでも、商店街内の空気の成分は確実に変質していた。

店主たちの会話に、ある種の「予防線」が増えたのだ。


「まあ、上が決めたことやからな」

「補助金が出るなら、従うしかないわな」

「今後のことを考えたら、な」


どれも、否定の言葉ではなかった。

ただ、「自分の判断ではない」という免罪符を、互いに配り合っているようだった。


望は夜回りを兼ねて、黒田と並んで夕暮れの商店街を歩いていた。

その時、黒田が独り言のように話した。


「最近、人の顔がよう変わるな」

「変わる、というと」


望は何が変わったように見えるのか、黒田に確認した。

黒田は、すれ違う店主たちに視線を向けながら続けた。


「目ぇや」

「前は、困っとるか、助かったか。それだけやった」


黒田は、そこで言葉を切ったが望には続きが分かった。

――今は違う

黒田と望の活動を「新しいルールに適合しているのか」といった、値踏みするような色で見ているのだ。

そして、その目の変化は望も痛いほど感じていたのだ。


それから数日後、商工会の守屋公正は再び商店街を訪れていた。

唐突な訪問ではなく、前回の会議で「次回は実務レベルのすり合わせを行う」と決められた、スケジュール通りの来訪である。


今回の場所は、空き店舗を改装した仮事務所。

パイプ椅子に座るのは、商店街の主要な理事たちと、商工会の三人。

そして、オブザーバーとして呼ばれた望と黒田。


守屋が、静かに切り出した。

「今日は、少し具体的な話を詰めましょう」


無駄話もなければ、時間の遅延も無い。

予定された時刻に、予定された議題を始める。


「商店街全体として、どこを目指すのか。その『KGI(重要目標達成指標)』を明確にする必要があります」


その理屈は正しい。

目的地がなければ、地図は描けない。

守屋は手元の資料を開き、話を続けた。


「現状、個々の活動が点在しており、属人化しています」

「これを繋いで、再現性のある『線』にする必要があります」


そこには、黒田の活動が「不定期」「個人判断」という言葉でマッピングされていた。


――線だって?

望は、その言葉に喉の奥が詰まるような違和感を覚えた。


望が考えるに、黒田の仕事は最初から「線」なのだ。

自転車を直し、店主と話し、夜回りをしてトラブルを防ぐ。

その一連の流れは、一本の太い命綱のように繋がっている。


しかし、それは書類上のフローチャートには見えないだけなのだ。

いや、見ようとしなかっただけかもしれない。


早川利行が、タブレットを操作しながら補足する。


「活動を組織化できれば、県の補助金申請の要件も満たせます」

「ただし、会計の透明化などの条件はありますが」


条件、規定、承認。

あちら側の理屈を証明する正しい言葉達が、レンガのように積み上げられていく。

その積み上げられたレンガの壁の向こう側へ、黒田の居場所は追いやられていく。


平山均が、柔和な笑みで間を取る。


「もちろん、黒田さんのこれまでのやり方を生かしつつ、ね。全体に広げられないか、という話です」


彼の言い方は、優しかった。

だが「広げる」という言葉は、同時に「薄める」ことでもある。


個人の熱量を、組織の規定にまで薄めて誰にでも扱えるようにする。

それが、彼らの言う「共有」ということだ。


黒田は腕を組んで壁に寄りかかったまま、口を開かなかった。

反論できないのではない、言葉が通じないのだ。


少しの沈黙が部屋の中を満たす。

室内の視線が自分に集まっていることに気づき、望は顔を上げた。


「高井さん」

守屋が、穏やかな声で名を呼んだ。


「あなたは現場の実情も、我々の言う組織論も、両方ご存じだ」

「間に立って翻訳してもらえると助かります。黒田さんの活動を、我々の計画にどう落とし込めばいいか説明して頂きたいのです」


それは評価であると同時に、選別だった。

頼みではなく期待、「君なら、こちらの理屈が分かるだろう」という踏み絵だ。


望は説明しようと口を開きかけたが、考え込んで止まってしまった。

――説明する?

――何を、どこまで?


あの夜の缶コーヒーの温かさを、名前を呼ばれた時の震えを言語化できるのか。

何より「今日はここまで」という、区切りの安らぎを言語化するのは難しい。


どれも数字にはならない、KGIには貢献しない。

持続可能性の根拠にならないことは明白だ。


「……黒田さんのやっていることは」


場の空気を何とかしようと言いかけて、望は言葉を飲み込んだ。

この場でそれを言うことは、詩を朗読するようなものなのだ。

滑稽で、無意味で、誰にも届かない。


「……まだ、整理できていません」


望は、逃げるようにそう答えた。

守屋は失望も見せず、深く頷いた。


「急ぎません、言語化は難しいものです」

「ただ、方向性は必要です。それだけは、ご理解ください」


正しい、反論の余地もなく完全に正しい。

その理解ある態度が、余計に重かった。


打ち合わせが終わり、人が散っていく。

帰り際、早川が望の隣に並んだ。


「高井さん。あなた、話が通じる方で安心しました」

それは、純粋な褒め言葉だった。


「正直、黒田さんは少し感覚的すぎる。職人気質というか…」

「これからの時代、属人性を排除してシステムで回さないと、生き残れませんよ」


悪口ではない、現代の尺度で黒田を分析すればそうなるだろう。

時代、システム、望はその言葉を否定できなかった。

自分もまた、昼間はその論理で生きている人間なのだから。


空き店舗の仮事務所を出て、黒田と二人きりになる。

夕闇の商店街は、事務所の蛍光灯よりも暗く、そして肌に馴染んだ。

望は、自分の足元を見ながら話し始めた。


「……すみません」

「何がや?」


「説明、できなくて。……何も、言えなくて」

「ええ」


それだけだった。

黒田は煙草を取り出しながら、少しだけ笑った。


「ええんや」でも「気にするな」でもなく、ただ肯定の「ええ」。

責められないことが、逆に辛かった。


正しい人たちに囲まれて、黒田の足場は少しずつ、確実に削られている。

誰も黒田を追い出そうとはしていないし、誰も悪意を持っていない。

ただ「正しい形」に整えようとすればするほど、黒田という歪なパーツは弾き出されていく。


望は、自分がその「正しさ」の一部としてカウントされていることを、怖気がするほどはっきりと自覚していた。


翻訳者としての周囲の期待。

それは、黒田を解体するメスを握らされることと同じだった。


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