第15話:正しい人たち
商工会の会合から数日が経過していたが、表向きには商店街は何も変わっていない。
掃除も、修繕も、夜の見回りも、黒田は淡々と続けている。
それでも、商店街内の空気の成分は確実に変質していた。
店主たちの会話に、ある種の「予防線」が増えたのだ。
「まあ、上が決めたことやからな」
「補助金が出るなら、従うしかないわな」
「今後のことを考えたら、な」
どれも、否定の言葉ではなかった。
ただ、「自分の判断ではない」という免罪符を、互いに配り合っているようだった。
望は夜回りを兼ねて、黒田と並んで夕暮れの商店街を歩いていた。
その時、黒田が独り言のように話した。
「最近、人の顔がよう変わるな」
「変わる、というと」
望は何が変わったように見えるのか、黒田に確認した。
黒田は、すれ違う店主たちに視線を向けながら続けた。
「目ぇや」
「前は、困っとるか、助かったか。それだけやった」
黒田は、そこで言葉を切ったが望には続きが分かった。
――今は違う
黒田と望の活動を「新しいルールに適合しているのか」といった、値踏みするような色で見ているのだ。
そして、その目の変化は望も痛いほど感じていたのだ。
それから数日後、商工会の守屋公正は再び商店街を訪れていた。
唐突な訪問ではなく、前回の会議で「次回は実務レベルのすり合わせを行う」と決められた、スケジュール通りの来訪である。
今回の場所は、空き店舗を改装した仮事務所。
パイプ椅子に座るのは、商店街の主要な理事たちと、商工会の三人。
そして、オブザーバーとして呼ばれた望と黒田。
守屋が、静かに切り出した。
「今日は、少し具体的な話を詰めましょう」
無駄話もなければ、時間の遅延も無い。
予定された時刻に、予定された議題を始める。
「商店街全体として、どこを目指すのか。その『KGI(重要目標達成指標)』を明確にする必要があります」
その理屈は正しい。
目的地がなければ、地図は描けない。
守屋は手元の資料を開き、話を続けた。
「現状、個々の活動が点在しており、属人化しています」
「これを繋いで、再現性のある『線』にする必要があります」
そこには、黒田の活動が「不定期」「個人判断」という言葉でマッピングされていた。
――線だって?
望は、その言葉に喉の奥が詰まるような違和感を覚えた。
望が考えるに、黒田の仕事は最初から「線」なのだ。
自転車を直し、店主と話し、夜回りをしてトラブルを防ぐ。
その一連の流れは、一本の太い命綱のように繋がっている。
しかし、それは書類上のフローチャートには見えないだけなのだ。
いや、見ようとしなかっただけかもしれない。
早川利行が、タブレットを操作しながら補足する。
「活動を組織化できれば、県の補助金申請の要件も満たせます」
「ただし、会計の透明化などの条件はありますが」
条件、規定、承認。
あちら側の理屈を証明する正しい言葉達が、レンガのように積み上げられていく。
その積み上げられたレンガの壁の向こう側へ、黒田の居場所は追いやられていく。
平山均が、柔和な笑みで間を取る。
「もちろん、黒田さんのこれまでのやり方を生かしつつ、ね。全体に広げられないか、という話です」
彼の言い方は、優しかった。
だが「広げる」という言葉は、同時に「薄める」ことでもある。
個人の熱量を、組織の規定にまで薄めて誰にでも扱えるようにする。
それが、彼らの言う「共有」ということだ。
黒田は腕を組んで壁に寄りかかったまま、口を開かなかった。
反論できないのではない、言葉が通じないのだ。
少しの沈黙が部屋の中を満たす。
室内の視線が自分に集まっていることに気づき、望は顔を上げた。
「高井さん」
守屋が、穏やかな声で名を呼んだ。
「あなたは現場の実情も、我々の言う組織論も、両方ご存じだ」
「間に立って翻訳してもらえると助かります。黒田さんの活動を、我々の計画にどう落とし込めばいいか説明して頂きたいのです」
それは評価であると同時に、選別だった。
頼みではなく期待、「君なら、こちらの理屈が分かるだろう」という踏み絵だ。
望は説明しようと口を開きかけたが、考え込んで止まってしまった。
――説明する?
――何を、どこまで?
あの夜の缶コーヒーの温かさを、名前を呼ばれた時の震えを言語化できるのか。
何より「今日はここまで」という、区切りの安らぎを言語化するのは難しい。
どれも数字にはならない、KGIには貢献しない。
持続可能性の根拠にならないことは明白だ。
「……黒田さんのやっていることは」
場の空気を何とかしようと言いかけて、望は言葉を飲み込んだ。
この場でそれを言うことは、詩を朗読するようなものなのだ。
滑稽で、無意味で、誰にも届かない。
「……まだ、整理できていません」
望は、逃げるようにそう答えた。
守屋は失望も見せず、深く頷いた。
「急ぎません、言語化は難しいものです」
「ただ、方向性は必要です。それだけは、ご理解ください」
正しい、反論の余地もなく完全に正しい。
その理解ある態度が、余計に重かった。
打ち合わせが終わり、人が散っていく。
帰り際、早川が望の隣に並んだ。
「高井さん。あなた、話が通じる方で安心しました」
それは、純粋な褒め言葉だった。
「正直、黒田さんは少し感覚的すぎる。職人気質というか…」
「これからの時代、属人性を排除してシステムで回さないと、生き残れませんよ」
悪口ではない、現代の尺度で黒田を分析すればそうなるだろう。
時代、システム、望はその言葉を否定できなかった。
自分もまた、昼間はその論理で生きている人間なのだから。
空き店舗の仮事務所を出て、黒田と二人きりになる。
夕闇の商店街は、事務所の蛍光灯よりも暗く、そして肌に馴染んだ。
望は、自分の足元を見ながら話し始めた。
「……すみません」
「何がや?」
「説明、できなくて。……何も、言えなくて」
「ええ」
それだけだった。
黒田は煙草を取り出しながら、少しだけ笑った。
「ええんや」でも「気にするな」でもなく、ただ肯定の「ええ」。
責められないことが、逆に辛かった。
正しい人たちに囲まれて、黒田の足場は少しずつ、確実に削られている。
誰も黒田を追い出そうとはしていないし、誰も悪意を持っていない。
ただ「正しい形」に整えようとすればするほど、黒田という歪なパーツは弾き出されていく。
望は、自分がその「正しさ」の一部としてカウントされていることを、怖気がするほどはっきりと自覚していた。
翻訳者としての周囲の期待。
それは、黒田を解体するメスを握らされることと同じだった。




