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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第3章】町は誰のものか ―正しさが衝突する場所―
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第14話:空気が変わる

その出来事は、明確な事件が起きたわけではなかった。

明らかな違和感、その部屋の空気密度だけが妙に変わっていた。


商店街の奥にある古い集会所。

いつもなら寄り合いの老人たちの笑い声と、湿った畳の匂いが漂う場所だ。


しかし、その日は違った。

パイプ椅子が定規で測ったように整然と並べられ、長机の上には厚みのある資料が置かれている。


望は、集会所の入り口側の末席に腰を下ろし、その「異物感」を見渡した。


集まっているのは、見慣れた顔ぶれだ。商店街の店主たち、町内会の役員。

その上座にひと際、この場に似つかわしくない人種が陣取っている。


濃紺のスーツ、手元にはタブレット端末。

資料をめくる指先には、現場仕事の荒れはない。

一目で分かった、商工会の人間だった。

彼らは、望が平日の昼間に見ている「あちら側」の人間だ。


「それでは、定刻になりましたので始めます」


演台の前に立ったのは、白髪交じりの短髪の男だった。

守屋公正、商工会の事務局長だ。

声は低く、無駄な抑揚がないため、非常に落ち着いて見える。


「最近、商店街での活動が少し活発になっていると聞いています」


『少し』という表現に、抑制された警戒心が滲む。


「活気が出ること自体は、喜ばしいことです」


その一言で、店主たちの強張った肩がわずかに下がる。

周囲の反応を確認することもなく、守屋は続けた。


「ただ、その方向性については一度『適正化』が必要です」


空気がピリッとし、一層引き締まった。

その時、守屋の隣で若い男が立ち上がりプロジェクターを操作した。


早川利行、実務担当者だろう。作業の動作が異様に早い。

ケーブルを繋ぎ、画面を映すまでの手際に迷いがない。


「現状の活動について、コストパフォーマンスの観点から試算しました」


スクリーンに、グラフと表が映し出された。

清掃活動、修繕作業、夜回り。

今まで黒田と望が汗を流してきた行為が、冷たいフォントで分類されている。


コスト欄には、市場価格に基づいた推定金額が表示されている。

だが、『経済効果』の欄は真っ白だった。


「数字として、成果が見えにくい部分が多いですね」


早川が淡々と言った。

それは批判ではなく、単なる事実確認のトーンだった。


それが逆に、望の喉を渇かせた。

店主の一人が、遠慮がちに手を挙げた。


「いや、でも黒田さんのところが色々やってくれてるのは、正直助かってますよ」

「そうや、ドブ掃除かて、あんなん行政はやってくれへんし」


何人かが、うんうんと頷く。

商店街で生活をしている現場からの感謝は、確かにあるのだ。


「ええ、分かります。……でもなぁ」

別の店主が、渋い顔で口を開いた。


「正直、あれで黒田さんがどれだけ儲かってるのかは、分からんのですわ。ボランティア言うても、裏があるんちゃうかと不安になる時もあるし……」


それは素朴で、もっともな疑念だった。

金にならないことを続ける人間に、人は無条件で感謝するわけではない。

「何か裏があるのでは」と疑うのが、普通の防衛本能というわけだ。


守屋は、その空気を待っていたかのように頷いた。

彼は「商工会としては……」と前置きをしつつ、全員を見渡すようにゆっくりと話を始めた。


「活動が『持続可能サステナブル』であるか、という点を重視しています」


――持続可能性

現代において、誰も反論できない最強のワードだ。

もちろん、正義としての側面として使用される。


「個人の善意や、不透明な資金繰りに頼る形は、長くは続きません。リスク管理の観点からも、組織として管理すべきです」


守屋の視線が一瞬だけ、部屋の隅へ向いた。

そこには、腕を組んで壁に寄りかかる黒田がいた。

作業着姿の男は、スクリーンを見ようともせず、ただ沈黙している。


空気が重くなりかけた時、もう一人の男が柔らかい声で割って入った。


「まあまあ、皆さん。何も、今の取り組みを全否定するわけではありませんよ」


平山均、調整役の男だ。

柔らかな笑顔で、店主たちの不安をなだめる。


「ただ、もう少し全体で共有できる形に、ね。みんなが納得できるルールを作って、ならしていきましょう、という提案です」


共有、調整、標準化。

あちら側でよく使用される正しさを代表する言葉だ。


確かに、誰も間違ったことは言っていないからこそ、望にはその「正しさ」が、真綿で首を絞めるような暴力に感じられた。


怒号も、机を叩く音もなく、会議は淡々と進んだ。

「整理」「効率」「透明性」という清潔な言葉たちが、黒田のやってきた「泥臭い正義」を、じわじわと漂白していく。


この話し合いには、悪意がないと望は気づいた。

彼らも本気で、商店街を良くしようとしているのだ。

だが、その「良くなる未来」の図面に、黒田の居場所は描かれていない。


会議が終わり、椅子を引く音が響く。

黒田は誰とも言葉を交わさず、煙のように姿を消していた。


望も帰り支度を始めた。

カバンを持つと、背後から声をかけられた。


「高井さん、ですよね」

振り返ると、早川が立っていた。

手には、綺麗に整えられた名刺入れがある。

なぜ自分に?と感じながらも、望は答えた。


「……はい」

「IT企業にお勤めだと聞いてます。今の説明、分かりやすかったでしょう?」


それは、仲間意識を含んだ問いかけだった。

『あなたなら、こちらの言語が理解できるはずだ』という、無言の圧力。


「……数字は、明確でした」

望が答えると、早川は満足げに頷いた。


「話が早くて助かります。現場の方々は、どうしても感情論になりがちですから」

「また、詳しく話を聞かせてください。あなたの視点が必要です」


早川は名刺を差し出した。

望は、それを受け取った。

上質な紙の感触、角が鋭く指に刺さるような名刺だった。


外に出ると、商店街は夕暮れに沈んでいた。人は少なく、静かだ。

だが望の肌には、ちりちりとした焦燥感が残っていた。

黒田の蒔いた種が芽吹こうとした土壌に、コンクリートが流し込まれようとしている。

そんな予感がした。


そして、自分がその「コンクリートを混ぜる側」として期待されていることにも、望は気づいていた。


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