第13話:金にならない理由
黒田と二人きりで話すのは、久しぶりだった。
今回の集合場所は、あの古い建物の一室。
以前、望が書類の存在を知った場所だ。
掃除も修繕も、今日はない。
机の上には、いつものように契約書や図面が広げられている。
部屋には古紙の乾いた匂いと、微かな紫煙が漂っていた。
望は手持ち無沙汰にそれらの書類を眺め、意を決して口を開いた。
「……聞いても、いいですか?」
黒田は、ボールペンを走らせたまま答えた。
「何や?」
「どうして、そこまで金にならないことを切らないんですか?」
言ってから、少しだけ後悔した。あまりに不躾だと思ったのだ。
でも、喉元まで出かかっていた疑問を、もう飲み込むことはできなかった。
黒田の手が止まり、しばし沈黙が流れる。
彼はゆっくりと顔を上げ、椅子の背もたれに体重を預けた。
「金にならん、と思っとるからやろな」
「……え?」
「金にならんと思っとるから、切りたくなるんや」
「お前の基準はそこなわけや」
望の顔が紅潮する、図星だったのだ。
黒田は、天井の隅を見上げながら続けた。
「ワシはな、“金にならん”仕事やなくて、“金にする気のない”仕事をよう見る」
望は黒田の言葉を脳内で翻訳するため、その言葉を何度も咀嚼した。
金にならない、金にする気がない、似ているようで主語が違う。
諦めて聞く事にした。
「それは……どう違うんですか?」
黒田は視線を、天井から望に戻した。
その目は、いつになく真剣だ。
「金にしたらな、終わってまう仕事があるんや」
「終わる……、ですか?」
「せや!」
黒田は指で机をトン、と叩いた。
「掃除も、見回りも、話し相手も。値段をつけた瞬間、それは『サービス』になる」
「金払って、サービス受けて、終わりや」
「そこには『取引』しか残らん」
望は、胸の奥が締め付けられるのを感じた。
外注、委託、アウトソーシング、会社で何度も見てきた光景だ。
仕様書通りの納品物が届けられ、請求書が回る。
そこに人間関係が入り込む余地はない。
「でも、効率は……?」
言いかけて、望は口を閉じた。
黒田は、それを否定しなかった。
「効率は、必要や。否定はせん」
「せやけどな」
一拍、重く長い間を置く。
「効率は、“あとから効かせるもん”や」
望は、その言葉を頭の中で反芻した。
――あとから……、効かせる?
「先に効率をかけて、無駄を全部削ぎ落としてみぃ。残らんもんがある」
「……何が、残らないんですか?」
黒田は、自嘲気味に笑った。
しかし表情は、いたって真面目だ。
「人や」
短い答えだった。
だが、その二文字には決定的な重みがあった。
望は反論できなかった。
合理的に考えれば反証はいくつも思いつく。
……が、商店街で「高井さん」と呼ばれた時の、あの温かい重みが脳裏をよぎる。
あれは、効率の先には決して落ちていない果実だ。
黒田は望から視線を外して、自分の手のひらを見つめた。
「ワシはな……」
「昔、全部効率で切ったことがある」
それ以上、何も語らなかった。
望も、何も聞けなかった。
黒田の横顔に、取り返しのつかない“喪失”の影が見えたからだ。
沈黙が、部屋の中を満たした。
確かに重苦しいが、誰に何かできる沈黙でもない。
望は、空気を変えるように言った。
「……それでも」
「ここは、やっぱりブラックですよ。労働基準法もあったもんじゃない」
黒田は目を細め、ふっと表情を緩めた。
「せやな……」
「でもな」
否定も肯定もしない。
黒田は窓の外――、商店街の方角を顎でしゃくった。
「ブラックでも何でも働いて、誰かの傍が楽になっとる」
――働く
――傍を、楽にする
望は、黒田がその手の話をする事に驚いた。
意識高い系と呼ばれる界隈では、よく聞く話しだ。
しかし今は、そのような皮肉には聞こえなかった。
実際に無償の奉仕をしてきたからだ。
経験として実感した『はたらく』の響きは、ストンと腑に落ちた。
まだ、自信を持って肯定できるほどではない。
なぜならば自分はまだ、数字と効率の世界の住人なのだ。
一つだけ違う事。
それは、以前のように黒田のやり方を「無意味だ」と切り捨てることはできない、という事だ。
「……また、来ます」
「おう!」
外に出ると、商店街は夕闇に包まれていた。
静かで、派手さもない、枯れた通り。
それでも望の中には、確かな熱が残っていた。
金にならない理由。
それは、金よりも長く残るものを守るためだ。
その答えは、まだ言葉にはできない。
だが、答えになりそうな塊の形だけは、はっきりと胸に刻まれていた。




