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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第2章】金にならない仕事 ―意味のない仕事は、本当に無意味か―
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第12話:名前を呼ばれる

その日は珍しく、黒田からの連絡はなかった。

望は、目的もなく商店街を一人で歩くのは久しぶりだと感じた。


商店街を突っ切って自宅アパートへ帰るのは、信号を避けるために選んでいるだけ。

いつものルートだと、そう自分に言い訳をして足を踏み入れる。


夕方の商店街は、昼の活気と夜の静寂が混ざり合う、不思議な時間帯だった。

店は開いているが、客足はまばらだ。


シャッターを半分下ろして片付けを始める店主、売れ残った野菜を並べ直す八百屋。

学校帰りの学生が、自転車で通り抜けていく。

全国のどこにでもある、寂れた商店街の風景。


望は、ぼんやりと考えながら歩いた。

今の時代、こうした商店街の多くは、きっと無駄が多く効率が悪いのだろう。

大型ショッピングモールに行けば、空調の効いた空間で全ての買い物が一度に済む。

店員と天気の話をする必要もないし、お釣りを受け取るまでの時間を待つ必要もない。


そう、それが現代における「正解」の形。

――のはずだった。


「……あ!」


不意に声をかけられた。

顔を上げると、和菓子屋の店先に割烹着姿の女性が立っていた。


「この前は、ありがとうね」


望は、一瞬反応に遅れた。

「……いえ」


誰だったか、コンマ数秒考えて思い出す。

先週、黒田に言われて重い小麦粉の袋を運んだ店だった。


「腰、大丈夫だった? 黒田さんにこき使われてない?」

「ええ、まあ。慣れてますから」

「そう、ならいいけど。これ、よかったら」


女性は売れ残りの饅頭を一つ、望の手に握らせた。

望が断る間もないほど手慣れた動きだった。

きっと、いろいろな相手に行っている動作なのだろう。


「……ありがとうございます」

「またね」


望は温かい饅頭を握ったまま、少し呆然としていた。

評価されたわけではない、対価として計算されたものでもない。


ただ、「あの時の人だ」と覚えられていただけだ。

それだけのことなのに、少しだけ胸の奥が温かい。


手の中に饅頭の暖かさを感じながら帰路に進む。

しばらく歩くと、今度は別の声がした。


「お兄さん!」

振り返ると、呉服屋の主人が店の中から手を上げている。


「この前の雨樋、助かりましたよ。昨日の雨でも大丈夫でした」

「……それは、よかったですね」


短く答えて会釈する。言葉を交わした時間は、ほんの数秒。

それでも、望の足取りは少しだけゆっくりになった。


実際、商店街を抜けるまでに、三人に声をかけられた。

いずれも、仕事の「成果」でないことは明白だ。

当たり前だが、契約書も請求書も、完了報告書もない。

黒田と一緒に、何かしらの行動をして来なければ、ただの通りすがりのはずだ。


仕事ではなかったが、その結果として確かに自分は、ここに「いた」のだ。

風景の一部ではなく街の一員、その個人として。


「高井さん!」


また不意に呼び止められて、望は足を止めた。

――高井さん?思考が停止する。


今まで「お兄さん」や「手伝ってくれた人」だった自分が、固有名詞で呼ばれた。

会社ではなく商店街で呼ばれた名前が、自分の名前だと気づくまでに時間が掛かってしまった。


振り返ると、惣菜屋の店主がこちらを見ていた。


「こんばんは」

「……こんばんは」


「今日も手伝いか?」

「いえ、今日はただの帰り道です」

「そうか!まあ、気をつけてな」


それだけの会話だった。

特に内容も無い会話ではあったが、望はその場からすぐに動けなかった。


名前を、呼ばれた。いや、会社でも名前は呼ばれる。

しかし、それは「担当者」としての呼び名だ。

責任の所在をはっきりさせるための、ラベルのようなもの。


でも今、ここで呼ばれた名前は違った。

役割のない、ただの「高井望」として呼ばれた。


黒田が教えたのだろうか?『あいつは高井っていうんや』と。

そんな想像をして、望は小さく息を吐いた。


まさかと思ってスマートフォンを見たが、黒田からの通知は来ていない。

少しだけ安心している自分に気づく。


――今日は、何もしていない

労働もしていないし、誰の役にも立っていない。


そう思いながら歩く。

だが、本当にそうだろうか。


何もしていないのに、名前を呼ばれたのだ。

それはボランティア活動の成果ではないが、無関係でもない。

今まで積み重ねてきた「無駄な時間」が、顔と名前を一致させたのだ。


望は商店街の出口で、もう一度通りを振り返った。

変わらない風景、静かなただの通り道。

望にとって今はもう、ただの「近道」ではなくなっていた。


知っている人がいる場所、自分の名前を知っている人が、確かにいる場所。

その事実が、カバンの重さを少しだけ軽くしてくれるような気がした。


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