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我こそはブラック企業  ―働くことの本当の意味を,僕らは知らなかった―  作者: 佐竹正宏
【第2章】金にならない仕事 ―意味のない仕事は、本当に無意味か―
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第11話:夜の見回り

いつも黒田からの連絡は突然だった。

その日は、完全に日が沈んでからの連絡だ。

短い文面で書かれている。


『今から、少し歩くで』


望は、残業帰りの駅のホームで、そのメッセージを見つめた。

――歩く?


歩く目的も、行き先も書かれていない。

しかし望の中にある黒田への認識は、あの契約書の件以来、変わりつつあった。

あの男の行動には、必ず裏側に「構造ロジック」がある。

とりあえず返信で聞いてみる。


『どれくらいですか?』

『一時間もかからん』


即レスが来た。

一時間、帰宅後のちょっとした運動としては、許容範囲だ。


――健康にも良いし問題ない

そう判断し、望は「了解」のスタンプを送った。


待ち合わせ場所は、夜の商店街の入口だった。

昼間は全国どこにでもある普通の商店街の通りだが、夜は表情が一変する。

下りたシャッターの列が、巨大な壁のように続いている。

街灯の白い光だけが、アスファルトの染みを等間隔に浮き上がらせていた。


黒田は、いつもの作業着の上に、薄手のジャンパーを羽織って立っていた。


「こんばんは」

「おう!」


それだけの挨拶を交わし、黒田は歩き始める。

望も半歩遅れてついていく。


「……今日は、何をするんですか?」


足音だけが響く商店街の路地。

望がそう聞くと、黒田は前を向いたまま答えた。


「見て回るだけや」

「何か問題があるんですか?」

「いや、別に」


それ以上の説明はない。

二人は、無人のアーケード通りをゆっくりと進んだ。


閉店した店の裏口、薄暗い路地の隙間、自販機の裏。

黒田は時折足を止め、懐中電灯もつけずに、じっと暗闇に目を凝らす。


その度に望も立ち止まり、その視線の先を追う。

野良猫が横切るくらいで、特に変わった様子はない。

そもそも人気が無いので、騒音も不審火の気配も皆無だ。


「……何もないですね」

望が言うと、黒田は鼻で笑った。


「せやな」

「それなら、わざわざ歩かなくても……」


続きを言いかけて、望は言葉を飲み込んだ。

黒田が、ゆっくりと振り返ったからだ。


街灯の逆光の中、その目が鋭く光っているように見えた。

淡々とした、重みのある声で答えが返ってきた。


「何かあってから来るんやったら、遅いやろ?」

「何もないから歩けるんやない。歩くから何もないんやで」


その答えに、望はハッとした。

合理的に考えれば、問題が発生してからリソースを投下するのが「対処」であり、最も一般的な処置である。

だが、黒田が言っているのは「監視」であり「抑止」だったのだ。


それは、システムで言えばセキュリティソフトの常駐監視に近い。

ウイルスが入ってから駆除するのではなく、入らせないための防壁。


「でも、コスト……時間はかかりますよね?」

「時間はな、使うもんや」


黒田はそれだけ言うと、また歩き出した。

望は、その背中を追いながら自分の思考を修正した。

なるほど、これは散歩ではない。「パトロール」という業務だ。


通りの外れにある公園の近くで、黒田が足を止めた。

向こうから若い男が二人、歩いてくる。

お酒を飲んでいるのだろうか?コンビニの袋を手にぶら下げ、足元が少しふらついている。

静まり返った夜の商店街の一角に、二人の声が大きく響く。


黒田は何も言わず、ただ二人の方を見ている。

注意もしないし、道を譲りもしない。


お互いの距離が近づく。

黒田はポケットに手を突っ込んだまま、男たちを凝視している。

じろり、と。値踏みするような静かな視線。


男たちが黒田に気づく。

「……あ?」

何か言いかけようとしたが、黒田の姿を確認した瞬間、男たちの表情が変わった。


酔いが醒めたように視線を逸らし、会話を止める。

そのまま、逃げるように早足で通り過ぎていった。


何事も起きなかった。

怒鳴り合いも、トラブルも発生しなかった。

望は少し早くなった鼓動を抑え、黒田に聞く。


「……今のは?」

「別に、顔見知りや」


黒田は歩きながら答えた。

いまいちピンとこなかったので、聞き直してみた。


「それだけですか?」

すると黒田は、やれやれといった様子で答えた。


「見られとるって分かれば、無茶はしよらん」


それ以上の説明は不要だった。


黒田という「目」があること。

それ自体が、この街の治安維持装置になっている。


商店街を一周して、元の場所に戻る。

時計を見ると、予告通り五十分ほどしか経っていなかった。

黒田は、ふぅっと息を吐くと笑顔で望に言った。


「今日は、これで終わりや」


「……成果は?」


つい、職業病のような問いが口をついて出た。

黒田は、夜空を見上げながら答えた。


「何も起きてへん」


何も起きていない、それが成果。

システム障害ゼロ、クレーム件数ゼロ。


それはITの現場においても「究極の成果」である。

それと同時に、最も評価されにくい成果でもある。

なぜならば、何も起きないことは「当たり前」とされるからだ。


「それって、誰かに評価されるんですか?」

「されへんな」


黒田は即答し、続けた。


「誰にも、気づかれへん」

「気づかれへんのが、一番ええ仕事や!」


評価されない、気づかれない、感謝もされない。

それでも黒田は平然としている。

黒田は子供のような笑顔で、望にお礼を言った。


「今日は、来てくれて助かったわ」

「一人で歩くより、二人の方が威圧感あるしな」


スーツ姿の自分を「威圧感」のパーツとして使ったのか。

望は苦笑したくなったが、嫌な気分ではなかった。


「お疲れ様でした」

頭を下げ、黒田と別れる。


その帰り道、望は一人になった商店街を歩いた。

確かに静かだ。シャッターの落書きも、割られた街灯もない。

黒田は毎晩、この「平穏」という状態を保つために靴底を減らしているのだ。


一見すると、無駄に見える時間。

今の望には、それを「無意味だ」と切り捨てることは、もうできなかった。


――成果は、見えない場所に積もっている


自分の足音だけが響く、夜の商店街通り。

望は普段よりも少しだけ、夜道が怖くないことに気が付いた。


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