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第1話:終電を逃した夜

終電を逃したのは、故意ではなかった。

いつもの事だ。


髙井望(たかいのぞむ)は改札の前で立ち止まり、表示板を見上げた。

最終電車は、三分前に出たばかりだった。


「……ですよね」

小さく呟く。


特に驚くこともなかった。いつもの事だ。

残業が長引いたのではない。

自分が残ったのだ。


誰に頼まれたわけでもない資料を整え、意味があるのか分からない数値を見直し、確認の確認を繰り返していた。


――勤労は美学だ。


頭の奥で、そんな言葉が鳴り響く。


タクシーを使うという選択肢は、最初からなかった。

金額の問題ではない。

歩ける距離を、歩かずに帰る理由が見当たらなかった。


駅を背に歩き出すと、夜の空気が一段冷たく感じられた。

望は無意識に背中を丸め、足早に歩き出す。


自宅までは大通りを通れば、徒歩で三十分ほど。

商店街を突っ切れば二十分は掛からない。


遠回りになる大通りを避け、この時間は人通りのない商店街を抜けるのが一番早い。

昼間は賑わっているその通りも、夜になると表情が一変する。

シャッターの並びは無言で、古い街灯だけが、等間隔に足元を照らしていた。


別に急いでいるわけではない。

ただ、立ち止まる理由が見つからないだけだ。


この時間に歩いている人間は皆、だいたい似たような雰囲気をまとっている。

疲れているのに、気を張っている。

気を張っているのに、どこにも向かっていない。


商店街にさしかかる角を曲がったときだった。

古い雑居ビルの前で、男が一人、看板を持ち上げていた。

壁から外れかけたそれを、どうにか一人で戻そうとしているらしい。


男はよれたジャンパーを着て、袖口は黒ずみ、作業ズボンの裾も擦り切れていた。

こんな遅い時間にしては妙に動きが慣れている。

通りがかりの住人なのか、それとも、まだ仕事中の業者なのか。

その作業内容を見て望は思った。


――二人なら五分で終わる。

――だが、関わらなければ何も起きない。


望の中で、二つの考えがせめぎ合った。

――そんなことは非効率だ

――たまたま通りかかっただけで自分の出る幕じゃない


意に反して歩く速度は落ち、自然と足を止める。

一瞬、迷ってから望は声をかけた。


「……よろしければ、持ちますが?」


男は顔を上げた。

街灯の光に照らされた目は、妙に落ち着いていた。


「ああ、悪いな。助かるわ」


会話の距離が近い。

しかも、その声はざらついていて、望は少しだけ不快だった。


二人で看板を支え、金具をはめ直す。

案の定、五分もかからなかった。


「こんな時間まで、仕事か?」


作業が終わるや否や、男から急に話しかけられた。

お前がそれを言うか?と思ったが、ちゃんと答えた。


「はい。少々」

「ほう。大変やな」


聞いてきた癖に妙にそっけない返事。

労いとも、興味ともつかない言い方だった。


「お互い、ですね」


望はそう返したが、男は首を横に振った。


「俺は終電どうこうやない、別の用事や」


別の用事?いったい何の用事だ?看板の修理は用事じゃないのか?

望は男の言う事が理解できない。

しかし、男は構わず続けた。


「好きやなあ、そういう働き方」

「自分、ようそこまで自分削れるわ」


まったく褒められているようには聞こえなかった。


「働くのは、悪いことではありませんから」

望は丁寧に答えた。


内心では、別の言葉が浮かんでいた。

――もしかしてバカにされているのか?

――文句が多いただの老害か。


男は構わず続ける。

望を一瞥し、鼻で笑いながら言った。


「見た目は……、えらいキレイやな」


「……そうでしょうか」

望は答えた。


「服も言葉も。せやけど中身はだいぶ無理しとる顔や」


今度は、望は答えなかった。図星なのだ。

無理をする事に慣れ過ぎてしまい、否定する言葉がどこにも見当たらなかった。


「黒田や」

男は唐突に名乗った。


「この辺で、ちょっと商売しとる」


何の商売かは分からない。

むしろ看板の修理を手伝っただけの初対面の男に、そこまで興味もない。

しかし名乗られた以上、ちゃんと返すのが礼儀だ。


「髙井と申します」

名乗り返すと、黒田は軽く頷いた。


「ところで高井君、ブラック企業……、興味あるか?」


あまりに脈絡がなく、望は一瞬言葉を失った。

「……は?」


黒田は、看板から手を離しながら言った。


「正しくやると損をする、せやけど、誰もやらんと困る」

「そういう仕事の話や」


――なんだ、ただの皮肉か…。


しかし、終電を逃してまで残業していた望には、その言葉を即座に否定できない。

同じ穴の狢、ブラックと言えばブラック、つまり同類だ。


当然、二人はまだ互いのことを何も知らない。

違和感と言うほどでもないが、働き方に対する態度という異物が、同じ場所に引っかかっているように感じた。


「では……失礼します」

髙井望は軽く頭を下げ、帰路に向かう。


その動きは丁寧だったが、どこか急いている。癖なのだ。

猫背のまま、早足で商店街の奥へ向かっていく。

望は振り返ることなく商店街の奥へと進んでいく。


黒田聖人は、その背中をしばらく見送っていた。

街灯の光が途切れるあたりで、男の輪郭は夜に溶けるように消えた。


――だいぶ削れとるな


身体は細い。背中は丸まり、歩き方だけが妙に速い。

急いでいるわけやない。あれは立ち止まるのが怖いだけや。


黒田はホッと息を吐き、もう一度看板を見上げた。

金具はきちんとはまっている。もう落ちる心配はなさそうだ。


――まあ、これでええ。


誰に頼まれた仕事でもない。

金になるわけでもない。


それでも黒田には、放っておくという選択肢は最初からなかった。


夜の商店街は沈黙している。

昼間の喧騒が嘘のように、シャッターの錆や、アスファルトのひび割れといった「綻び」だけが、街灯の下で露わになる。


黒田はポケットに手を突っ込み、煙草を取ろうとした。

しかし、一度掴んだ煙草の箱をそのままポケットの奥へと押し戻した。

誰に見られているわけでもないが、通りに吸殻を落とす気にはなれなかった。


脳裏に、さっきの男の声が蘇る。


『働くのは、悪いことではありませんから』


丁寧で、正しくて、危うい響きだった。

黒田は、まるで鏡を見せられた気分になった。

かつての自分もそうだったのを思い出したからだ。


正しく積み上げれば、正しく報われると信じていた。

泥を被り、穴を埋め、誰かのために身を削れば、いつか誰かが気づいてくれると。

遅くまで残り、無理な数字を引き受け、誰かの尻拭いをしても、それはいつか評価されると本気で思っていた。


だが皮肉にも、現実はもっと単純で残酷だった。

「正しさ」は武器にも盾にもならない。

それはただの「都合のいい足場」に過ぎない。


それでも―― 全部を捨てて逃げるほど、器用にはなれなかった。

看板が落ちそうなら直す。雨漏りがあれば屋根に上がる。


武器にも盾にもならないなら、効率などクソ喰らえだ。

コスパやタイパなんて言葉を吐く暇があれば、手を動かせばいい。


黒田は夜空を見上げる。

誰かが黒く汚れんと、この町は白でおられへん。


「ブラック企業、か……」

口に出してみると、その響きは妙に腹に落ちた。


世間の罵倒とは違う。誰にも誇らず、誰にも知られない。

でも誰かが少しだけ楽になるなら、自分が泥を被るのも悪くない。

そう思った。


さっきの男――、髙井やったか。

あいつの仮面は、もう張り付いて剥がれなくなりそうや。

そのまま進めば、いつか選択するときが来るやろう。

正しく生きるだけでは、一番大切なもんを守られへんことに。


黒田はジャンパーの襟を立て、商店街の闇へと歩き出した。

まだ通りには、直すべき歪みが残っている。


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