第4心 羽化
今日も退屈だ、代わり映えのしない日々、何も変わらない教室、つまらない授業。
呆れ返るほどに平和な日常に俺、新庄 明はほとほと退屈していた。
教室の中は今日が月曜であるにも関わらずわいわいと飽きもせずに騒がしくて嫌になる。
俺はいつもと変わらず、誰とも関わらず、誰も俺と関わろうとせずに日々を送っている、こんな日々を送るために学校にこなければならないなんてバカバカしい。
ただ今日はなんだか不思議なものを目にした、クラスの中心人物の姫神結衣のことだが、彼女が周りの人と話さず、仮に話そうとしても誰も反応を示さないようだ。
いつもであれば彼女が少しでも口を開けば周りの人間たちが勝手に相槌をうちゴマをすろうとするのに、誰も彼女に構おうとはしていなかった。
その人たちの顔には、気まずいような、疑うような感情が浮かんでいたように思う。
彼女はそんな状況を飲み込めないようで、乾いた笑いを零しながら、なんとか冷静さを保とうとしていることが目に見えて分かった。
俺は普段から誰からも存在しているかすら怪しく思えるような扱いを受けてみるから平気だが…彼女のような人気者が突然空気のような扱いをされるなんて…。
「あら、よく学校に来れたわね、姫神さん?」
ツンと張ったような声の少女が姫神結衣の前に歩いてきて、そう言う。
綺麗な黒髪をボブにした小柄な少女、いつも姫神の周りをちょろちょろとしていて、彼女の付き人のように思っていた子だ。
普段は身を縮めてそこまで主張しない少女が、今は姫神の前で堂々と立ち、まるで彼女たちの事を糾弾するような口ぶりでそう声を上げる。
クラスの全員が彼女たちを注目している。
「わ、私なにか悪いことしちゃったのかな…なんかみんな変だよ!」
動揺を隠しきれず、声をあげて姫神がボブの少女に強く問いかける。
「…寄らないでもらえる?汚らしいわ。」
ボブの少女は蔑むような目で姫神の事を睨みつけ、近づいていった姫神を手で制止する。
声も出せず、困惑しながら周りをキョロキョロと姫神は見るが、周りも同じように冷めたような目で姫神の事を見ているようだった。
「…あなた、あくまでしらばっくれるつもりな訳?」
「なら良いわよ、ここであなたが先週末に何をしたのか今教えてあげる。」
堂々と周りに聞かせるように彼女がそう言うと何があったのかを話し始めた。
「私、見ちゃったのよねぇ、あなたが校舎の目立たないところで”あの”新庄 明と あ い び き♡ してるとこをね!」
は、ハァっ?!なに好き勝手なこと言ってやがるあの女!!
突然巻き込まれた俺は完全にパニックになってしまう、俺があの姫神とそんな関係になんてありえないことだ。
第一そんな覚えは一切ない、つまりアイツは真っ赤な嘘を付いているという事だ。
あの少女確か城ヶ崎とかいう名前だったはずだ。
いつも明るい姫神の影に隠れて彼女の周りをちょろちょろしている女達を勝手に仕切っているようなやつだった。
そんな奴がこうやって大勢の前で人を貶めようとしているということは、きっと嫉妬かなにかなのだろう。
「まぁ、あなたの男の趣味にケチつけることはしませんが、ですけど…みなさんが使う学び舎であんな…汚らわしい事をッ…」
わざとらしいほどに強調して、そう言う。
言葉が進んでいく度に姫神の表情はゆがんでいき、理解が追いつくよりも先に怒りが吹き出そうとしていることが分かる、固く握られた拳が震え、歯がギリギリと音を立てている。
今にも彼女の拳が城ヶ崎の顔に炸裂しそうだった。
…何故か、彼女のそんな様子をみて、頭の片隅のどこかで同じような事があったと感じ始めた、その時になにか強く心動かされたことがあったはずだ。
そう思い始めるといても立ってもいられなくなって、俺は気がついたら席を離れ、他のクラスメートを押しのけて姫神の手を握り廊下をかけだしていた。
「はっ、はぁッ…はッ…」
普段からまともに運動もしないから、すぐに息が上がって心臓が強く鼓動する、だけど胸が高鳴りをあげて強い興奮状態が身体を突き動かす。
姫神はなにも言わずに俺に手を引かれたまま一緒に着いてくる。
周囲の目も、廊下を歩いていた小うるさい女教師も押しのけて逃げ続けた。
背中のほうから聞こえた誰かの怒鳴り声も、今の俺にはなんの意味もなくって、気にもとめはしなかった。
気がつけば、俺はいつもの松の木の元へとたどり着いていた。
ただそこはいつも通りではない、酷く荒れていて、補修の為か養生テープなどで辺りの壁が不自然に隠されている。
ここに来た途端になにか嫌な記憶が溢れ出すような感覚に襲われる、これはきっとつい最近の記憶だ。
なぜ忘れていたのかすら分からない程に強烈な記憶だ。
「…姫神さん、ごめん、俺…」
勝手な事を_と言葉を続ける前に姫神が口を開いた、俺の言葉を遮るように。
「…うぅん、大丈夫だよ、明くん、助けてくれようとしたんだよね。」
「うれしいよ。」
姫神さんは心のこもっていない言葉でそう綴る、もう心はここにないかのようだった。
前の出来事が感情の爆発であるのなら、今はまるで消失、ここに無いものを必死に探ろうと取り戻そうと頭を動かしているような状態だった。
「ごめんね、迷惑かけちゃった、本当にごめんなさい。」
姫神さんはボンヤリと謝ってくる、形式として言うような謝罪であって、心からの謝罪ではなかった。
本心の中では、きっと他者への諦めや失望などでなにも信じられないのだろう。
「…ごめんなさい、少し1人にしてもらってもいいかな?」
わざとらしいような笑顔をこちらに向けて、彼女は寂しげにそういう、きっと彼女も思い出したんだろうあの日の記憶を。
人であることをやめてしまったあの日の記憶を。
彼女の手を握っていた俺の手から力が抜ける、足が震えて恐怖の記憶が頭の中にぽつぽつと湧き上がって、だんだんと気が遠くなってしまう。
1歩、2歩と彼女から後退り、虚ろな彼女の顔がぼんやりとして見えなくなるぐらいに離れると、俺の背中に硬い松の木が当たった。
パキッと、耳につくいやな音がまた彼女から聞こえてくる、聞き覚えのある音だ。
「ひ、姫神さん、俺には君の苦しみが分からない…俺には何も無かったから。だけどその苦しみを分かち合うことならできる、心の痛みを君一人だけで抱える必要はないんだ…!」
「だから、俺に教えてほしい、君の痛みを」
頭で考えるより先に言葉が口から飛び出した、何を言っているのかイマイチ自分でもわからない。
ただこの衝動を止めることはできなかった。
「はは、不思議だね、明くんは、それもいいのかもしれないね…」
彼女の目元からきらりと一雫の涙が零れて頬を伝う
手でその涙を拭って、その手の異変に気づいたようで。
彼女は黒くひび割れていく自身の指先を太陽にかざしながら眺めて、悲しげにそう続け、こちらを一瞥する。
「でもね、もう遅いんだ。」
柔らかな笑みと共に邪悪な黒い瘴気が彼女から溢れ、辺りを包み込み、彼女の身体を包み込む黒い卵を形成する。
再び、彼女が心象獣になろうとしている。
以前ほどの恐怖はない、彼女の闇に向き合い、少しでも理解してその苦痛を共に身に受けたいと願う気持ちが高まっていく。
強い圧迫感を放つ卵に俺はゆっくりと近づいていく、卵との距離が近づく程に息がつまり、心臓が痛いほどに脈を打っていく。
頭上の空を薄暗くするほどに濃い闇が卵から放たれ、その闇を身体に受ける度に強い感情が自身の中に生まれていくことを感じる。
諦めや絶望、周囲の目線への恐怖や、よくありたいと願う純粋な願い。
無数の感情が瘴気の中で入り交じり、混沌としている。
彼女の感情を感じている間、俺の心は驚く程に穏やかで、まるで一切の流れのない水面のように静寂に包まれていた。
波打つことのない平面、安定し、揺らがない。
ただ彼女の心に耳を傾け、その痛みに心を同調させていた。
「…これは、痛かっただろうな」
言葉が漏れる、黒い卵に気がつけば俺は手を触れていた、手のひらに強い痺れを感じる。
その痺れはだんだんと腕、半身と広がっていき、徐々に視界の半分が暗く霞かがったように暗転してゆく。
深い闇の中に取り込まれていくようで、恐ろしくも心地よい感覚に脳が痺れていく。
気がつくと、息をするのも忘れてしまっていたようで、卵が弾ける時の衝撃で吹き飛んだ時に激しく咳き込んだ。
芝生の上に転がり、必死に肺の中に酸素を取り込む。
呼吸が整うと俺は真っ直ぐ彼女の方を向く、そこには以前見た時の彼女とは異なる異形の姿があった。
以前が激しく滾る憎悪を宿らせた女の餓鬼であると表現するなら、この静かに佇む異形の姿は、まるで美しい白磁の少女の彫刻。
溢れ出ていた黒の瘴気とは相反する純白の美しい少女像のような外見であり、まるで女神のような神々しさを感じさせる様相だった。
その顔は姫神結衣のものであり純粋な微笑みを浮かべている、風にたなびく制服には茨の意匠が巻き付くように施されており、高い芸術性と神聖を感じさせられた。
これが心象獣たりうるのであれば、一体この姿に何を彼女は投影させたのだろうか。
静かに彼女はこちらを向き、その笑顔を歪に歪ませて語りかけてくる。
「みんな、だいすき、だよ?」
ギリギリと、無理やりゴムか何かを引き伸ばした時のような音を立てて動く彼女は痛ましく思える。
そして気がつく、あれは彼女の表層に過ぎないのだと、あの張り付けの笑顔の奥底に本心を封じ込めているということに。
今にも張り裂けそうな女神の皮の奥を俺は知りたい、その彼女の闇を…
『君が、、、のぞ、、う!』
俺の奥から、何かが声を上げている、それは誘惑だ
俺のやりたいことを、やりたいようにさせてやると誰かが俺に囁いてきているのだ。
この声は、一体?
もしかして…あの日の彼女もまた、この声を聞いていたのだろうか。
ただ、今は彼女の心と向き合うときだ、俺はもう目を背けるだけなのは嫌だ。