第3心 心装少女
つい先程まで普通に思えていた人間が歪んだ内面を突然さらけ出し、狂気のままに怪物へと変貌を遂げる。
空いた口が塞がらない、悲鳴の1つも上げることも許されない。
がたがたと不快な音を立てる頭部が生暖かい息を吹き付けながら俺のすぐ側に近づいてくる。
異形の怪物はやせ細った人の身体を4足ではいよってくる。
揺れる長髪の隙間から真紅の双眸が覗かれる、先程の彼女の瞳にそっくりで、大きく開かれた目の瞳孔は大きくて、ギラついた眼からは強い憎悪、か怨嗟の感情を覚えた。
瞳に俺の姿が映るほどに近づいてくる、まるで何者であるかを調べるようにじろじろと見つめてくる。
ああ、俺はこの怪物に殺されるのだ、あの恐ろしい歯で頭蓋を砕かれ脳髄を啜られるんだと、その餓鬼を思わせるような怪物を前にしておぞましい想像が脳裏を駆け回る。
怪物の生暖かい呼気が俺の頬を掠めた時、突然俺と怪物の間に何かが空より舞い降りる。
固いもの同士がぶつかり合い、鋭い金属音がこの狭い間で幾度も反響する。
その時の衝撃で思わず顔を背け、何が起こったのか暫し理解出来てはいなかったが、次視界を前に向けた時に何が起こったのかが分かった。
突然降ってきた黒いセーラー服を纏った少女がその手に握られた鈍器で怪物の頭部を殴り付けて、怪物の巨体を大きく仰け反らせたのだ。
怪物は浮かせた身体を大きく後退させると、少女の事をしっかりと見据えたままこちらの周りで様子を見るように落ち着きなく動いている。
少女はこちらに背を向けたまま怪物と対峙している、俺よりも小さいはずの背がまるで壁のように大きく感じる、その少女の長い黒髪が風で揺れて俺の鼻先を掠める。
非現実的的でありえない超人的身体能力を持つと考えられる少女は確かにそこに存在していて、俺の事を守ってくれたのだと認識出来た。
空いた口が塞がらない、唖然としたまま俺の思考はほぼフリーズしてしまった。
「あんた、さっさと逃げなさい、巻き込まれたら死ぬわよ。」
少女がぶっきらぼうな声でそう声をかけてくる、こちらを向くこともなく、ただ義務的な言い方だった。
返事も返さず、震える体を必死に起こして俺は少女に背を向けて駆け出した。
「あッ…は、ひぃッ…!」
情けない悲鳴が切れる息と共にやっと漏れ始める、遠くへ行っていた意識が急速に身体に帰ってきて早打つ心臓にさらに鞭を打って懸命に走る。
背後から響く凄絶な金属音と、耳に残る怪物の悲鳴が更に恐怖を強く駆り立ててきた。
なりふり構わず走り出す俺の姿はきっと情けのないことだっただろう。
その後の記憶は俺には無かった、気がついたらどこかのトイレの個室で震えて動けなくなっていたようだった。
本当に怖かった、生きた心地がしなかった。
あんなに退屈な日常に飽きて、非日常が訪れることを内心期待していたというのに、実際非日常に巻き込まれればこの始末だ。
乾いた笑いが思わず漏れ出てしまう。
情けない、みっともない、はずかしい。
あのような状況で冷静でいられる高校生なんて存在しないのだから、俺の反応は至極当然とも言えるが何せ斜に構えているのが俺のメンタルだったから、その当然の反応をしてしまった事が酷くはずかしく思えてしまう。
なんども自分のみっともなさに目を逸らしたくなるが、今は他に気になることがある。
あの怪物、ネットでは心象獣とも呼ばれていた存在だと考えられるが、その心象獣が実在し、それと対峙する存在と言えば。
心装少女と呼ばれる存在だ。
俗に呼ばれる魔法少女のような存在であり、心象獣が現れた時にどこからともかく舞い降りて、不思議な魔法で心象獣を倒して皆を守ってくれるという…
まるで天使のような存在だと言われている。
だが、俺の目の前に現れたのはセーラー服を纏った黒髪の少女だった。
その手には魔法のステッキでも、美しい剣や弓でもなく、幾本もの黒い釘が乱雑に打ち込まれ、赤黒く汚れた鈍色のバットだった。
あれは釘バットと呼ばれる代物だ、魔法少女、いやましてや今どきヤンキーですら持っていないであろう殺意全開の武器だ。
しかもそれを何の躊躇いもなく怪物とは言えども、人に近しい姿形をしている存在の頭部に叩きつけていた、俺の思っている心装少女の姿とは大きく乖離していると言える。
ただ鈍器を叩きつけて相手を殴り倒すようなやり方はとても心装少女だとは思えなかった。
ただ、空から降りてきて、俺の事を救い、心象獣と戦うという点で言うと、間違いなく心装少女だと言えるだろう。
あのセーラー服と黒髪の心装少女、どこかで見たような覚えがある気がする…
どことなく面影を感じるようなことではあるのだが、誰なのかがハッキリとしない、まだ…あの場所に居るのだろうか…?
一度気になり始めたら、頭からその考えが離れなくなってしまう、流石にもう怪物もいないだろうから…行ってみたら何かが分かるかもしれないよな…。
俺は再びあの松の木の下を訪れた。
先程の騒ぎはもう収まり、そこら辺に戦闘の痕跡を残しつつも、まるで何も無かったかのように静かになっていた。
怪物の死体も、少女の姿もなく、松の幹に触れてみると大きい俺の背の大きさぐらいの凹みと、何か大きなものがぶつかったような傷が付いている。
ただ荒れた俺の安息の場所だけがここに残っていた。
…これは先生に伝えておくべきなのだろうか……。
流石にここまで荒れてしまっては、人の目につくだろうし、手入れの為に俺もしばらくはここに出入りすることができなくなってしまうだろうからな…。
それなら早く伝えて、修繕をしてもらう方がいいだろうが、どう説明したものか…。
そんなことを考えながら校舎の方に振り返ると、そこに先程の少女が立っていた。
片手には釘バットをもっていて、その姿は以前からどこかで見ていたような気がする。
少女はこちらにずんずん近づいてきて、釘バットを勢いよく俺の眼前に突きつけてくる。
「…あんた…見てたでしょ、わたしとあの子の事」
少女は強い語気でそう言ってくる、あの子というのは姫神さんの事だろうか…?
「…みてた、あの子って姫神さんのことか…?」
なんとか声を絞りだしてそう伝えてみる、あまり人と話すのに慣れていないから、上手く伝えられた自信が無い。
少女は少し考えると
「あの子は…姫神って名前だったのね…」
悲しそうにそうポツリと零した。
物憂いげな顔でそう洩らす彼女の顔は、幼くもあるが暗い顔持ちで、目の下には深い隈が浮かんでいた。
やはり、この顔立ちを見たことがある、あの陰気な女にそっくりだと思った。
「…きみの、名前は?」
「…あんたが知る必要はない、今日見た事は全て忘れなさい。」
少女は短くそれだけ言うと、力強い跳躍で俺の目の前からあっという間に姿を消してしまう、彼女の言う通りこのまま全て忘れてしまうのが、1番楽な事なんだろう。
ただ、ただ忘れて見なかったふりは嫌だった。
ほんのわずかだけれど、彼女の見せてくれた心の闇、明るく見えた人の感情の亀裂に俺はすっかり魅せられてしまっていた。
彼女がどう思っていたのか、何に傷ついて、苦しんでいたのかが気になってしまって脳裏から離れない。
彼女の闇を知ることが、自身を変えてくれるキッカケになると、もはや俺は確信していた。
俺は彼女のように明るくはなれないし、人と交わることもきっとできないだろう。
でも、誰かの暗いところにはきっと溶け込むことができるはずだ。
それが誰かのためになるかは分からないが、俺にとってはそれが自身の心の乾きをなんとかしてくれる方法になるかもしれない。
なにもしない訳にはいかなかった。
彼女の事を、もっと知りたい。
人の心のことをもっと知りたいと決意したところで俺の視界と意識は鈍い音と後頭部に受けた衝撃で暗転した。
「…忘れろって、いったでしょ」
氷のように冷たい声が、暗闇の中で聞こえた。
意識は耳鳴りにかき消された。