灯火亭のスピネル
風が、甘く焦げた香りを運んでくる。
この谷あいの小さな村で、朝に一番早く目を覚ますのは、わたしと、向かいの川沿いにある製粉小屋のミルおばさんくらいのものだ。けれど今朝は、いつもと違っていた。
戸口の前に、男が座っていたのだ。
「……あんた、だれ?」
焼きたてのライ麦パンをかごに入れようとしていた手が止まる。わたしは布の端で手を拭きながら、そっと声をかけた。
男は、眠そうに目を開けた。陽を浴びて少し眩しそうに眉をひそめる。淡い銀色の髪に、風に吹かれた草の香りがふわりと重なる。見るからに旅の人だった。背に大きな剣を背負い、くたびれたマントには、薄く泥がこびりついている。
「ああ……すまねえ。ここの宿、もう開いてるか?」
そう言って、男は片手で額をぬぐった。
「宿って、うちのこと? まだ開けてないけど、泊まる気なの?」
「朝まで歩いてきたんだ。もう限界でな。ほら、代金もある」
と、男は革袋から銀貨を何枚か取り出した。わたしは戸を開け、ため息まじりに言った。
「とにかく中に入りなよ。パンくらいは焼けてる」
そう、ここは「灯火亭」。わたし、スピネルがひとりで切り盛りしている、小さな食堂兼宿だ。村の外れにあるせいで、客は多くないけれど、それでもたまに、こうやって風に誘われた旅人がやってくる。
男は「助かる」と言って中に入った。薪の香る食堂の席に腰を下ろすと、重い剣を背から降ろして、ぐっと背伸びをした。
「名乗るのが礼儀だったな。俺はヴァルド。一応、傭兵ってことになってる」
「一応ってなによ」
「誰も雇っちゃくれないからさ。ぶらぶらしてるだけの、半端者だ」
ヴァルドは苦笑して、わたしの出したパンにかぶりついた。外はカリカリ、中はふわり。昨日煮込んでおいた野菜のスープと、薄く焼いたハーブ入りの卵焼きも一緒に出す。
彼は目を見開き、少し驚いたように言った。
「うまい……。こんなの、いつぶりだろう」
「そりゃ、旅のあいだはまともな食事にありつけないんでしょ。疲れた人には、まず食べさせるのがうちの流儀なの」
わたしは、そう言いながらも彼の手元を観察していた。銀の指輪に刻まれた紋章。鍛えられた腕。戦場をいくつも潜り抜けてきた者の目だ。けれど、どこか空っぽな感じもした。
「それにしても、スピネルって名か。宝石の名前みたいだな」
「うん。母さんが好きだったの。光を集める石なんだって」
「……あんたには似合ってるよ」
ふいに言われて、パンくずを落としかけた。からかっているのかと思ったけれど、ヴァルドの目は真剣で、少し照れたようにも見えた。
「褒めても何も出ないよ?」
「いや、パンがもう出てる」
思わず笑ってしまう。なんだか、妙なやつだ。
でも、不思議と居心地が悪くない。
それから数日、ヴァルドは灯火亭に滞在することになった。疲れが抜けるまでゆっくりしたいと言って、村の人にも手伝いを申し出たりしていた。
彼は思ったより器用だった。木箱の修理もするし、薪割りも慣れた手つき。食事の時間には、素直に「うまい」と言ってくれるのも嬉しかった。
でも、どこか遠くを見ているような目をすることがある。
その夜、わたしは彼のために、少し特別な料理を作った。干し肉と豆のパイ包み。あたためたエールと一緒に出すと、彼はしばらく黙って、それからぽつりとこぼした。
「……昔、一緒に旅してたやつが、これ好きだったんだ。もう会えないけどな」
そのとき、ようやくわかった。彼の旅が、ただの自由な旅ではなく、何かを失ったあとの、空白の時間だったこと。
だからわたしは、何も言わずにエールを注いだ。暖炉の火がゆらめいて、静かに、夜の時間が流れていった。
いつか彼が、心から笑える日が来るなら。
そのとき、灯火亭の料理が、少しでも力になれたらいいなと思った。
ヴァルドが灯火亭に来て、五日目の朝だった。
夜のあいだ降っていた雨が、ようやく止んで、空はやわらかい曇り空。縁側に出ると、しっとりと濡れた木々の香りが胸いっぱいに広がった。どこか、静かで、ひんやりとしていて、こういう日は、スープがよく似合う。
わたしは早速、朝の仕込みを始める。ざくざくと切った根菜を鍋に入れ、塩と香草で煮込みながら、仕上げには胡椒を利かせる予定だ。胡椒は村にはない貴重な品だから、ほんの少しだけ。以前、旅商人から分けてもらったものを大事にとってある。
「スピネル、何か手伝うか?」
台所に入ってきたヴァルドは、少し寝癖のついた髪をくしゃっとかきあげながら、木のバケツを抱えていた。昨日洗っておいた野菜を、外の井戸で冷やしてきてくれたらしい。
「ありがとう。それ、棚の上にあるかごに入れてくれる?」
「任せとけ。……しかし、ここにいると身体がなまっちまいそうだな。平和すぎて」
「平和なのは、悪いことじゃないよ」
「そりゃそうだが……俺には、もったいない気がしてな」
ヴァルドの声に、ほんの少し影が差す。そういうとき、彼の心がまた遠くのどこかへ旅立とうとしているのが、わたしにはわかる。
「じゃあ、働いてもらおうかな。午後、祈り祭があるの。わたし、灯火のスープを振る舞うって言っちゃってて……手が足りなくて困ってたの」
「祈り祭?」
「年に一度、亡くなった人や、帰らない旅人たちに、灯りと香りで祈るお祭りよ。みんなでスープを持ち寄って、広場に灯火を並べるの」
「へえ……なんだか、静かでいい祭りだな」
ヴァルドは腕を組んで、しばらく考え込むような顔をしていたが、やがてふっと肩をすくめて言った。
「じゃあ、俺もその灯火のひとつになるとしよう」
午後、広場には人が集まり始めていた。子どもたちが松明を運び、大人たちは持ち寄ったスープを並べていく。灯火亭からは、わたしが作った「根菜と鶏の香草スープ」。薄く削った胡椒が、湯気の中でふんわりと香るように仕上げた。
ヴァルドは、大鍋を抱えながら、少し不器用そうに笑った。
「なんだか、戦場より緊張するな。こぼしたら終わりだ」
「こぼしたら、明日の朝食なしね」
「それは大変だ。命懸けで守ろう」
ふたりで笑いながら、わたしたちは鍋を台の上に置いた。周りの村人たちが「いい匂いだね」と言ってくれると、ヴァルドは少し照れたように肩をすくめた。
日が沈み始め、灯火がひとつ、またひとつと灯されていく。祭司の静かな言葉に合わせて、みんなが目を閉じる時間。わたしもそっと瞼を閉じた。
(遠くにいる人たちが、どこかでちゃんと食べて、眠れますように)
わたしがそう祈っていると、不意に、隣でヴァルドが囁いた。
「スピネル。……この祭り、俺はきっと、一生忘れないと思う」
目を開けると、彼がまっすぐにこちらを見ていた。焚き火の光が、その目を揺らしていた。
「……そう?」
「ああ。こんなにあたたかい気持ちになったのは、ずいぶん久しぶりだ。……スープのせいかもしれないけどな」
「それなら、来年も飲みに来て。ちゃんと作って待ってるから」
冗談のように言ったはずなのに、わたしの声は、思ったよりも真剣だった。
ヴァルドは、それを受け止めるように、ゆっくりと頷いた。
「……約束だな」
夜の風が、やさしく吹き抜けた。
焚き火とスープの香りの中で、胸の奥にぽっと、火が灯るような気がした。
朝の空気がきりりと冷えて、灯火亭の厨房に、ほの甘い香りが立ちこめていた。
鍋の中でぐつぐつと煮えているのは、小さな果実〈イノベリ〉。赤紫の皮が少し割れて、中からとろりとした蜜が見え隠れしている。これを砂糖とラム酒で煮詰めると、ほんの少しだけ酔いそうな、やわらかな甘さになる。
「今日は、贅沢な匂いだな」
台所の入り口からヴァルドが顔を出す。髪はまだ寝ぼけたように乱れていて、肩には薄手の外套をかけていた。
「寒い朝だから、甘いもので温まろうと思って。ほら、もうすぐできるよ」
わたしは小皿にひと匙、蜜煮を取り分けて差し出した。ヴァルドは素直にそれを受け取って、熱そうにふーふーと息を吹きかける。ちょっと可愛い。
「……ん。すげぇ、うまい。なんていうか……懐かしい味だな」
「懐かしい?」
「いや……そうだな。昔、北の駐屯地で冬を越したとき、現地の村で出された甘酒に似てる気がする。あのときは仲間と、凍えそうになりながら飲んだっけ」
ヴァルドの声が、ふっと遠くを見つめるように沈む。わたしは思わず、手を止めて彼の横顔を見つめてしまった。
「ねえ、ヴァルド。旅って、いつもそんなに厳しいものだったの?」
「全部がそうじゃないけど……俺の旅は、ほとんど戦と隣り合わせだったからな。任務って言えば聞こえはいいが、要するに、誰かのために剣を振るってきた。けど、誰のためだったのか、今ではもうよくわからねぇんだ」
彼の口調は淡々としている。でもその奥にある、言葉にしきれない疲れや痛みは、熱い蜜煮よりもずっと沁みてきた。
「……それで、今は旅をやめてるの?」
「ああ。もう剣を抜くのは疲れた。……それに、ここに来て、ようやく思ったんだ。戦わなくても、誰かの役に立てる場所があるなら、そこにいたいって」
わたしの胸に、ぽっと灯りがともったような気がした。
「じゃあ、ここにいればいいよ。役に立ってるかはともかく、わたしは助かってるし……今日だって、薪を割ってくれたしね」
「それで足りるのか?」
「足りてるよ」
そう言ったら、彼はちょっと照れたように笑った。
その日の午後、ヴァルドは、畑の整備を手伝ってくれた。地面の石を取り除いて、枯れた蔓を片づけて、次の春に備える準備。彼の手は荒れていて、ごつごつしていたけれど、その動きはとても丁寧だった。
「こういうの、慣れてるの?」
「昔、師匠の家で少しな。戦の合間に畑を見てる、変わり者だった。剣と鍬を同じように使えるって豪語してたよ。……いい人だった」
「亡くなったの?」
「うん。俺のせいでな」
唐突に落ちた言葉に、わたしは返事を失った。でも、ヴァルドは淡く笑って首を振る。
「いや、気にするな。過去は過去だ。今は、畑の準備に集中しようぜ」
彼がスコップを構え直す音が、冷たい空気に混じる。わたしはただ静かに、彼の横に並んで作業を続けた。
日が暮れて、ふたりとも指先が冷たくなった頃、わたしはこっそりと用意していたおやつを出した。あの蜜煮を、やわらかく焼いたパンに挟んで、甘く香ばしい軽食にしたもの。
「おつかれさま。これ、午後のおやつ」
「うお……贅沢だな。働いた甲斐がある」
「たくさん食べて、明日も頼りにしてるから」
わたしがそう言うと、ヴァルドはほんの少し間を置いて、うなずいた。
「……なあ、スピネル。もし、俺がここにずっといたら……お前、迷惑か?」
その問いは、どこか震えるように優しかった。わたしは、ほっぺたがじんわりと熱くなるのを感じながら、まっすぐに答えた。
「迷惑なんて……思わないよ」
夕暮れの空は茜色に染まって、畑の向こうには、小さな星がひとつだけ光っていた。
わたしたちは、それをしばらく黙って見つめていた。
冬の足音が、灯火亭のまわりをそっと包み始めていた。
朝、窓を開けると白い息がこぼれて、森の奥からは、ぴぃ、と小鳥の声がかすかに聞こえる。草の露が凍って、霜の模様が小道を飾っていた。
「おい、今朝はこれでどうだ?」
裏庭から戻ってきたヴァルドが、小さな木箱を抱えていた。中には、彼が拾い集めてくれた〈雪マッシュル〉という白い茸がぎっしり詰まっている。
「きれい……朝採れだね。しっとりしてて、甘みも強いはず。今夜のスープに使うね」
「採ってて思ったけど、茸にもいろいろあるな。これ、あんたが見つけて教えてくれたやつだろ?」
「うん。師匠にもらった料理本の中に、ここの山で採れる食材が載ってて。それを見て、探したの」
ヴァルドは「へえ」と感心したように唇をわずかに曲げて、それから少し真剣な顔になった。
「スピネル、お前……本当に、料理が好きなんだな」
「うん。うまくできると、誰かが笑ってくれるでしょう? わたし、誰かの“おいしい”が聞きたくて、料理をしてるのかもしれない」
その言葉に、ヴァルドは静かにうなずいた。何も言わず、でも伝わるものがあった。
夜の灯火亭は、あたたかなスープの香りに包まれていた。
雪マッシュルのクリーム煮、ハーブパン、根菜の香草ロースト。それに、小さな青い花をあしらった、りんごとナッツのケーキ。旅人は今夜いなかったけれど、それでも二人分の食卓は、十分ににぎやかだった。
「……なあ、スピネル。俺、少し前に考えてたことがある」
ヴァルドが、スプーンを置いて言った。その声は、今までよりも、ずっと静かで、でも迷いのない響きだった。
「この先のこと、はっきり決めた。俺、この灯火亭に残るよ。……もっと正確に言えば、お前と一緒にここで生きたい」
わたしの手の中のスプーンが止まった。胸の奥で何かが、ぽうっとあたたかく灯る。けれど、同時に、不安もすこし顔を出した。
「……ほんとに? ここは戦場じゃないし、にぎやかでもない。きっと、退屈な日もあるよ?」
「それでも構わない。いや、退屈くらいがちょうどいい。俺はもう、剣で何かを勝ち取るより、お前と一緒に、毎日を積み重ねていく方がずっと……」
言葉を探している彼の手に、そっとわたしの手を重ねた。
「ありがとう。……ううん、ごはんで口説かれたみたいだけど、それでも嬉しいよ」
「それは俺の台詞だろ」
ふたりして、笑ってしまった。
その夜、ヴァルドは厨房の隅で、ぎこちない手つきでじゃがいもを刻んでいた。
「包丁、怖くない?」
「剣より重いな……いや、気持ちの問題か。ほら、こうか?」
「ぎゃっ、ヴァルド、それ逆さま! 手、切っちゃう!」
「うお、マジか!」
思わず手を取って正しい向きに直すと、ヴァルドは不器用に笑った。
「やっぱ、俺には向いてねぇな」
「ゆっくり覚えていけばいいよ。わたしのほうが料理は得意だし、あなたは力仕事担当。ふたりで補えばいいんだから」
「ふたりで、か……いい響きだな」
夜更けまで、じゃがいもと格闘する男の背を見ながら、わたしは思った。
きっとこの人は、強くあろうとするぶん、不器用に生きてきたのだろう。だけど今、そんな彼が、手探りでも何かを始めようとしている。たとえば、料理で人を笑顔にすること。たとえば、この場所で、わたしと共に生きていくこと。
そのすべてが、胸いっぱいにあたたかかった。
冬の最初の雪が、静かに降り始めた頃。
灯火亭の前には、ふたり分の足跡が寄り添って伸びていた。
おしまい