05 天使と悪魔
世界中では既に全人口の一割以上の死者が出ている事を、ニュースは告げている。
症状から病原菌は特定されたが、従来の狂犬病ワクチンが効かない事、世界中で野良犬やペットの処分が始まったらしい事も、多くの人々が知る事となっている。
「一年以上前から、大国の製薬会社には上層部が手を回しているので、これから幾つかの国からmRNAワクチンが発表されますが、中身は大体同じ物ですよ」
「手回しが良いんですね?」
政治は、基本的にマッチポンプだ。そうでない政治は役に立たない。
従来も現在も新しいウイルスのワクチン開発には、2~3年を要するのが普通だ。
だが、2019年12月に発見された新型コロナに対し、専用のmRNAワクチンは2020年12月にはアメリカで認可され、同じ月にはイギリスでも使われはじめている。
以来、常識はずれに早すぎるワクチン開発を異常視する事は、政治的判断で黙殺されてきた。
シシス達がウイルスをばら蒔き、ワクチンを用意するのは今回が初めてではないので、長谷川も冷静なものだ。
確かに、多くの死者も出るが、過剰な数の人類が地球の環境を破壊している事をシシス達に諭されれば仕方がない。先日の事件の様に、ワクチンも安直な物語りでの魔法薬ではないので相性や効果の限界はある。
感情的には納得出来ないが、他に有効な手段も無く、カタストロフの事を公表しても信じてはもらえず、信じればパニックと戦争で、最悪の場合は核戦争に至る。
どのみち、遺伝子操作による強制進化など、今の人間の倫理観が許さない。
「賀茂さん達は、普通の人間に戻りたいとは思わないのですか?」
長谷川の問に、元人間だった二人が首を横に振る。
賀茂達の様に、既に【未来の人間像】に改造された者も、この強制進化に賛同していて、元の人間に戻る気も無い。
更には、普通の人間で居続ける事に意味を感じない様だ。
「長谷川さんは、今の記憶力や認識能力、科学技術を捨てて、森で木の実をあさる猿に戻りたいですか?」
「まぁ、確かに【進化】は魅力的だが、【天使】に当たる存在は、何かしてこないのですか?」
昔から、悪魔の物語には天使が登場する。
「今までの天使も悪魔も、常世では派閥が違うだけの存在ですし、こちらでの姿や活躍は、召喚者の目的に制限を受けますから、別物に見えるのでしょうね?」
天使も悪魔も、召喚者の願いを叶えているに過ぎない。
結果が悪いのは、人間の欲望が招いた結果の反作用でしかない。
強盗殺人犯でも、家族にとっては優しい親だったりする。
異界の者が、悪魔に見えるのか天使に見えるのかは、出会った人間にとって有益か否かによるのだ。
戦争の兵隊と同じで、召喚者にとっては天使にみえる行いも、召喚者に敵対する者にとっては悪魔以外の何者でもない。
それ故にソロモン王の召喚した存在は、正確には【精霊】と呼ばれている。
「普通の狂犬病を見ても分かるし、心理学では【悪魔憑き】を精神病と判断しています。殆どの【悪魔事案】は【病気】なんですよ」
「実際、日本語の【病魔】って言葉は、的を得ているわよね。幾つかの地域の祈祷師は、煙りで炭素や薬効を付着させて抗菌しているし、欧州や地中海付近で【お香】として使われている【乳香】には、抗菌力と殺菌力が有る事が証明されているわ。勿論、教会で作られる【聖水】や【キリストの肉】にも、乳香の殺菌成分が染みているわけだけど」
山根の客観視をシシスが日本語の妙を指して補足する。
近年、宗教で悪魔や悪霊の仕業と言われてきた事が、現代科学によって解明されてきた。
だが、その全てが病気のせいだけではない証拠が、長谷川の前に座っているのだが。
「こうして話をしていると【悪魔】の本質は、【精霊】と言うより人間そのものと言う感じを受けますね。都合の悪い事は、社会や他者のせいにする・・・ああ、県警時代のクレイマーを思い出した」
長谷川が、過去を思い出してゲンナリとした。
「世の宗教家達は、神の居場所を問われた時に『神は我々の心の中に居ます』と、よく言いますが、では、【悪魔】は、何処に居るんでしょうね?」
謂わずもがなな賀茂の問に、長谷川は眉間を押さえた。
「長谷川は、賀茂に『人間に戻りたくないか?』って聞いてたけど、長谷川は【そんな人間】で居続けたい?家族や子供を【そんな人間】にしておきたい?」
長谷川は言葉を失った。人間は、現状が嫌で向上心を持っている。
少なくとも、進化の形の一つである賀茂達は、人間の時よりマシだと考えているのが分かる。
「でも、今回の【病魔】って、本当に悪魔の仕業なんじゃないですか?天使、いや、反対勢力は何もしないんですか?」
「天使が人間の全滅を望んでいると?最後の審判でも多くの死者を出すが人間の滅亡はさせないんでしょ?一部の人間を更なる高み|(進化)に導く我々こそが、黙示録の天使なのでは?」
長谷川の疑問に答えたシシスの言葉は、現状を上手くとらえている。
「でも、著名人でワクチンを射たない人も居る様ですし、人間の社会が崩壊しませんかね?」
「大丈夫よ。こちらの関係者や賛同者は勿論、反対派であっても、当面の社会維持に必要な人間には、秘密裏にワクチンを射っているから」
「秘密裏に?」
「ええ。睡眠中に部屋を麻酔ガスで満たし、本人も気が付かない内に注射しています」
彼等は、その特殊能力を使い、かなり強行的に事を進めている様だ。
このプロジェクトを率いている【悪魔/精霊達】は、現世に残っている魔力と、アストラル界から遠隔自動書記によって描かれた魔法陣のプログラムによって、減数分裂前の卵子に干渉して現世に受肉した者達だ。
能力に制限を受けている彼等は、現世の人間との間にもうけた子供を、更に遺伝子操作して、アストラル界でも現世でも、万全に能力が使える【眷族】/シシス達を作り出した。
「ただ、天使と呼ばれる者は兎も角、我々に敵が居ない訳ではないのよ」
「あなた達に抗える者が存在するなんて。まさか、宇宙人?」
シシスの言葉に長谷川が疑問を覚えるのは当然だ。
彼が知る限り、過去と未来の事象を知り、多くの物理法則を改竄し、人間の心を読む様な彼等に敵対できる存在など、考えられないからだ。
「我々の親と同様に召喚で現世に来た者達の中には、我々の組織に入りたがらない者も居るし、我々と違う方法で現世に来た者も居るわ」
「中には裏切る者や、組織の傘下に入る人間を滅ぼして、組織の力を削ぐ方針の者も居ない訳ではないんですね?力を持ってみて分かるんですが、召喚された精霊様や、俺達の様な能力者、更には他の精霊に庇護された存在は、認識しにくいんですよね」
「未来視も、糸が絡み合っている様に、よく見えないですよね」
『人間の敵は人間』などと頻繁に言われるが、シシスが言うには『悪霊の敵は悪魔』らしい。
賀茂と山根もシシスに近い能力を持ち、どちらかと言えば【精霊寄り】ではあるが、彼等から見ても組織は一枚岩には成っていないし、色々と能力の限界はある様だ。
「他国では、ある程度の接触や対立は起きている様よ。そもそも、日本では召喚に必要な魔導書の伝来が少ないし、過去に何冊かは回収もされているわ」
以前に、【シャックス侯爵】とかを捕縛した事を長谷川も思い出した。
つまりは、日本でもシシス達の様な存在を相手にする可能性が有る訳だ。
それに長谷川の様な人間の協力者が既に彼等の周りに居るかもしれない。それらは、魔力では知覚できないので事前の対処ができない。
「そんなのとは関り合いになりたくないですね」
「長谷川さん、多分それは向こうも同じでしょうから、下手に探さない方が無難ですよ」
魔力を使わない地道な捜査では、長谷川に一日之長がある。
「相手側も、こちらのワクチンを利用しつつ、政界や財界の支配率を高めているんじゃないかしら?」
「だから、あえて探らなければ問題ないと?」
昔から『さわらぬ神に祟りなし』と言うが、『探らぬ悪魔に敵対なし』と言ったところか。