04 暴行潜伏事件
事務所では、長谷川が遊びに出ないでテレビのニュースを見ていた。
「ここ一・二年は暇だったのに、また忙しくなってくるんだなぁ」
彼が予防接種をしてから半年が経つ。
日本を含む世界中で、新型の狂犬病の患者が出ている事が報道されていた。
被害は夏に近づく北半球に集中しているが、室内暖房やエアコン普及の影響か、南半球にも患者は出ている。
未だに、蚊がウイルスの媒介になっている事は知られていない様だ。
蚊は、人間の着ている衣類に紛れて北半球から南半球へと飛行機などで移動し、台所やトイレ、バスルームなどの水回りで繁殖する。
そんな、狂犬病関係のテレビを見ていた長谷川に、背後より近づく姿があった。
「長谷川さん。明日は早朝から八王子市まで行きますから、遊ばないで準備しておいて下さいね」
「事件ですか?賀茂さん」
「はい、傷害事件です。銃は勿論、防護プロテクターを装備して下さい」
「八王子なら車ですね?」
「わざわざヘリを使う距離じゃあ有りませんからね」
彼等と行動すると、まだ起きていない事件の詳細まで分かるので楽と言えば楽だ。
だが、一般の警察とかではなく、賀茂達が動くとなると、【悪魔絡み】か【ワクチンの副反応による狂化】に限られる。
そして、【防護プロテクター】を要望されているのであれば、相手は狂犬病ワクチンの副反応だろう。
シシス達の手で出回っているワクチンには、実は予防接種とは別の成分も含まれている。
それもmRNAなのだが、今回のものは細胞核に進入して逆転写を行ない、人間の遺伝子の本数を増やす様にできているらしい。
その混合物は、ワクチン内の突然変異程度の差異としか検出できない程に、紛らわしい物だ。
これまで何回か使われてきたワクチンの混合物は、生殖細胞遺伝子の特定箇所を改竄する為のものだった。
囮に使った病原体も致死率の低いものだった為に、予防接種を受けない者も幾らか居た。
今回の病原体に致死率の高い【狂犬病ウイルス】を用いたのは、従来使用したウイルスでは、致死率が低い為にマスクや消毒で対応して予防接種を受けない者が居るからだ。
長谷川の家族に、強制的に狂犬病ウイルスのワクチン接種をさせたのは、その死亡率の高さ故だった。
本来は、減数分裂する生殖細胞に侵入するmRNAなのだが、希に通常細胞で顕現すると癌化し増殖して、神経系と肉体を蝕む。
生物の遺伝子は、同じ種でも皆が厳密な意味では同じではない。
それは、【個性】と言う幅を越えて、骨格構造やタンパク質の質にまで及ぶ場合もある。
自然に発生するランダムな遺伝子変化のうち、著しく外観や能力に変化が生じた場合、生息環境に有利であれば繁栄して、現地の既存種を殲滅してしまうし、環境に不利な変化の場合は環境に耐えられない個体として死滅する。
環境ストレスと、変異後の自然淘汰だけを大まかに見れば、ダーウィンの進化論に沿ったものだ。
過度な環境ストレスが有ると、その傾向は大きくなるが、その様な特異な場合以外にも、世代交代の度に、外観や能力に問題がない範囲ではあるが、遺伝子操作が生物の基本機能として発生している。
シシス達のmRNAは、この様に生じた【変化の見えない遺伝子変貌】のうち、想定外の遺伝子異常の一部に酷い副反応/癌化/が生じて【狂化】が起こる。
だがそれは、個々が生まれながらに持っている【業/遺伝】なので、しなたがないとあきらめるしかない。
それを修正する為には賀茂や山根の様に、研究所で全身の遺伝子を根本改良する必要があるからだ。
「ウイルスに感染して細胞が変異を起こす癌は、現実には珍しくもないわ。ヒトパピローマウイルス|(HPV)なんて、多くの人間が癌を発症しているし」
翌朝は、その様な不運な者達の後始末に、長谷川は同行した。
移動中の車の中で、賀茂がモバイルパソコンを開く。
「組織の回収班には、昨日の内に連絡を入れていますが、そろそろ警察のデータベースに【八王子市での暴行事件】が書き込まれてくる頃です」
この手の事件が、大きくなる前に解決するのは、事前に移動を開始していたり、ヘリコプターの使用などで、大事に至る前に到着するからだ。
今回は、『都内を巡回中に近くで事件が発生したので寄ってみた』と言う設定だ。
その為に警察のデータベースにアクセス履歴を残す必要がある。
「宮内庁の陰陽師も、ちゃんとつけてきていますね」
組織には、【監察官】が存在する。
長谷川達は社会で、合法的に【超法規活動】をしてはいるが、政府の監視が無い訳ではない。
警察官を監察官が見張っている様に、宮内庁には宮内庁の監察官が居る。
多くの【狂化事件】は、警察から宮内庁へ連絡が行き、陰陽師派遣の後に、長谷川達へ出動依頼が来る。
(実際は出動依頼の前に、シシスの命令で動き出している)
事が大きくなる前に処理するシシスの指示する活動の異常性は、現代科学や物証では証明できず、関係者や捜査員の記憶まで改竄されてしまうので『不思議ですねぇ偶然ですねぇ』で処理されてきたし、これからもソウなる。
現場が近付いてきたので、一応はわかっているが警察無線を受信して、状況確認をする。
これは、長谷川も居るからだ。
「犯人は、何件かの暴行を繰り返して、繁華街に潜伏。【凶器を持った性心疾患者が暴れまわっている】と広報して、地域の避難をさせている最中っと。私は警察への対応でよろしいんですよね?」
「はい、お願いします」
「私達が扱う【特別案件】として、捜査権の譲渡指示は出させているから、堂々としてね」
長谷川の分担確認に、賀茂が承諾を告げ、シシスが裏付けを説明する。
今回、車の運転をしているのは山根だ。
本来が自衛隊所属の彼女は、自動車の運転は勿論、大型特殊車両など多くの免許を持っている。
「着きましたよ」
窓越しに身分証を提示して、車は既に規制範囲内に入って、警察車両が集まった場所に到着している。
だが、車を通した警官達は、長谷川達が乗っている普通のワンボックスカーを、警察車両として認識している様だ。
車のドライブレコーダーは、強行突破などで侵入したのではなく、警官の誘導で入ったのを記録している。
「魔法って、なんだかズルですよね?」
「何の事かしら?」
長谷川の感想にシシスが惚け、賀茂達がニヤケる。
サイドドアから車を降りた長谷川は、私服刑事達が集まった場所に赴いた。
予期せぬ来訪に、車が来た時から睨んでいる刑事が居る。
「ちょっと失礼しますよ。宮内庁の長谷川です。本件は我々が担当しますので、警察の方々は封鎖を解除して退去してください」
「何だ、お前は?ふざけた事を言うな!捜査妨害で逮捕するぞ」
警察側にしてみれば、部外者な上に、まさに【寝耳に水】だろう。
だが、同席していた警官が、無線を聞きながら長谷川達に近寄ってきた。
「主任、今、無線で宮内庁側の指示に従う様にと連絡が」
主任と呼ばれた刑事が、ニガ虫を噛み砕いた様な顔を警官に向ける。
「バカな!これは俺達のヤマだ。よそ者なんかに任せられるか!」
「あぁ、その気持ちは良く分かりますよ。私が県警に居た時に、本庁から来た刑事に捜査資料を奪われて『この件に関わるな』って命じられた時は、私も似た感情を覚えましたから。でも、これが【社会の決まり】って奴ですから、おとなしく引いてください」
刑事の叫びに、半分は同情した口調の長谷川だが、その目には蔑みが現れていた。
よっぽど【因果応報】と言いたかったが、流石に我慢した様だ。
だが、少しだけ溜飲が降りた気がしたのも確かだ。
「だが、たった一人で 何ができる?」
「一人?だから、あなた達じゃあダメなんですよ」
刑事は、車から長谷川が降りてくるところしか見ていない。
だが不思議な事に、その車に運転手の姿がなかった。
主任刑事は、状況の異常さと長谷川の言葉に違和感を覚え、眉間にシワを寄せる。
車の向う側にある規制線にはヤジウマが集まっているが、親に抱えられた幼稚園児が口を開けて空を見上げ、ベビーカーの赤ん坊が両手を広げて上に伸ばしている。
「なぜだ?なんで人が飛んでいる?」
「あれは、賀茂の重蔵か?」
「どこですか?師匠。人なんて何処にも?」
人混みを掻き分けて表れた数人の男達が、空を見上げて叫んでいる。
「宮内庁の別部署には、警察よりも使える奴が居るようですねぇ」
刑事達も空に目を向けるが、幾つか雲が浮いているだけだ。
当然、長谷川の視界にも何も見えないが、彼はシシス達三人が予知だけでなく空も飛べる事や、一般人に見えなくする事ができる事も、水をワインに変えたり鉛を金に変えたりできる事を知っている。
なので、あえてキョロキョロはしなかった。
やがて救急車が到着し、ストレッチャーを押した隊員が、長谷川達の前を通り抜けていく。
「ああ、もう犯人を射殺したそうです。警察も撤収を開始して下さい」
「まさか?まだ到着して数分じゃないか!」
携帯に繋がったハンズフリーホーンに手を当てて口にされた長谷川の言葉を、刑事達は信じられなかった。
包囲網が完成して30分以上。警察も内部を捜査していたのに犯人は見つからなかったのだ。
だが、すぐに商店街の一軒から、ストレッチャーが帰ってきた。
何かが乗っているが、シートが被せられている。
「ちょっと待て、本当に犯人なのか?」
主任刑事は、頭側のシートを剥いで、中の遺体に目をやった。
「これは、人間なのか?」
確かに人間の様な形はしているが、体の片方だけが異常に変色と肥大化をしている。
額が銃で撃ち抜かれているが、髪は異様に長く、部分的に抜け落ちていた。
口もとの歯は不揃いで、大きい物は虎並みに大きい。
「明確に執行妨害だぞ」
刑事の後ろから声をかけたのは、賀茂だ。
横にはシシスと山根も居る。
「何なんだ?コレは!」
「だから警察の手には負えないんだよ。大人しく引っ込め!」
長谷川が態度を変えて、刑事を引き剥がした。
「ほらほら、事件は解決。警察は封鎖を解除。被害状況を調べて宮内庁に報告を入れてくださいよ」
長谷川が『さっさと行け』とばかりに手を振って刑事を急かしている。
ここ数年間で、この様な怪奇な事件が起きている事は、警察内部にも通達されている筈なのだが、この刑事は未体験だったのだろう。
「どうでした?長谷川さん」
「いやぁ~スッキリしました」
彼等は、人の心を読む事もできる。
同僚である長谷川が、県警時代に溜めていた鬱憤を、少しでも解消しようとの演出だ。
やろうと思えば、現場に直接に【空間移動】して、犯人の首を落として死体を消滅させる事も可能なのだから。
「帰ったら飲みませんか?今日は、おごりますよ」
いくらか、気分の良い長谷川だった。
狂犬病ウイルスのモトネタは、あえて言えば【おおかみかくし】です。
決して、今放映中の日本映画【バスカヴィル家の犬】ではありません。