沈没
土曜日の部活帰りに河川敷を通りかかると、川原に男の子がしゃがみ込んでいるのが見えた。
五、六歳くらいだろうか。川の縁にまぁるくなって熱心に川面を覗き込んでいる。
何を見ているのだろうとなんとはなしに窺っていると、川面にぷかりと船のおもちゃが浮かび上がった。男の子はそれを両手で拾い上げると、川面にそっと浮かべる。船のおもちゃはすいすいと川を流れて、30センチほど進んだところで不意に船尾が浮いて船首が水面に突っ込んだ。
まっすぐ縦になった船のおもちゃは船首から水面に沈んでいって、ほどなく船尾も沈んで見えなくなった。
波紋が消えて静かになった。すると、男の子の前で水面が盛り上がり、船がぷかりと姿を現す。
男の子は再び船を手に取ると、また水面に浮かべて同じことを繰り返す。
ははあ、あれは潜水するおもちゃなんだなと高石は合点がいった。水に浮かべると自分で沈んで、しばらくするとまたひとりでに浮いてくるように出来ているんだろう。
よく出来ているな。しかし、潜水するなら船の形も潜水艦にすればいいのに。遠目から見たところ、潜水するようには見えない豪華客船だ。
男の子はずいぶん熱心に遊んでいるようで、何度も何度も船を浮かべては沈めてを繰り返している。高石は歩道を横切って斜面を下り川原に降りた。放っておいてもいいのだが、小さな男の子が遊びに熱中するあまりうっかり川に落ちたりしたら大変だ。気をつけるように声だけでもかけておこうと思ったのだ。
なんと声をかけようかと思いながら男の子に近寄ると、耳に小さな声が届いた。
男の子はこちらに丸まった背を向けていて、振り返る様子はない。高石は最初、男の子がひとりごとを呟いているのかと思った。
けれど、男の子に近づくにつれて、その声は大きく、はっきりと聞こえてくる。
高石は足を止めた。
「きゃー」
「助けてー」
「水が、水が」
「うわー」
男女様々な声が入り乱れて——間違いなく悲鳴が聞こえてくる。
辺りは人通りも少なく静かだ。川の近くの家から聞こえてくるテレビの音に違いない。そう思った。
だが、船のおもちゃが水の中に沈んで見えなくなった途端、複数の悲鳴がぴたりと聞こえなくなった。
しん、となった静寂の時間が流れる。
船のおもちゃが水面に浮かんだ。男の子はまた船のおもちゃを水面に。
船尾が浮き上がり船首が水に沈み始めると、また悲鳴が聞こえる。
「きゃあああ」
「助けてっ」
「水がっ、水があっ」
「うわあああ」
「死にたくないぃ」
「神よ! 救けたまえ!」
「水がもうこんなところま——」
悲鳴が消えた。船が沈んだのだ。
静かだ。
また船が浮かぶ。同じことが繰り返される。
悲鳴。船が沈む。
男の子は淡々と、同じことを繰り返す。
彼にはこの悲鳴が聞こえていないのだろうか。
いや、なんで高石には悲鳴が聞こえるのだ。おもちゃの船が沈む度に。
おもちゃの船は豪華客船だ。まっすぐ縦になって沈んでいく。映画で観たタイタニック号のようだ。
船が沈む。悲鳴が聞こえる。断末魔の悲鳴が。何度も何度も。
高石はくるりと向きを変えると出来るだけ平静に斜面を登って歩道に戻った。足早に車道を横切って、川から離れた歩道に移動する。そうして早足のまままっすぐ前だけを見て歩いた。
そういうおもちゃなのだろう。船のおもちゃの音声だ。そんな訳がないだろう。子供が遊ぶ船のおもちゃにそんな悲鳴をあげさせる訳があるか。
もしも、子供用のおもちゃにそんな不吉な音声を付けた奴がいたら間違いなく異常者だ。怖い。
けれど、付けられた機能じゃなかったとしたらそれも怖い。
どっちにしろ怖い。ああ、だけど。
一番怖いのは、あの男の子にも悲鳴が聞こえているかもしれないことだ。