紙一重
友人の河村が入院した。風邪をこじらせて肺炎になったそうだ。
見舞いを装って冷やかしに行くことにした。普段はクール通り越して冷徹な毒舌で高石の心を抉ってくる男が弱っているのである。またとないチャンスだ。
別にこの機会にいじめてやろうとか弱みを握ってやろうとかいう大それたことは考えていない。ちょっとばかりしか。
エレベーターに乗って四階で降りる。
「河村。おっすー……」
病室を見つけて覗き込んだ。途端に、高石はざわりと背筋に嫌なものが這い登る感じを覚えた。
「おう。なんか用か」
ベッドに転がって怠そうに本を読んでいた河村が、やる気なさそうに高石を見た。相当暇なのか、枕元に文庫本が二、三冊積まれている。
高石は病室に足を踏み入れながらも、この嫌な感覚はどこから来ているのだろうと恐る恐る辺りを見回した。
ごく普通の四人部屋だが、今は河村以外のベッドは空いているらしい。
河村が少し咳き込んだ。
「大丈夫?」
「ああ。治ってんだけど、まだちょっと咳が出んだよなぁ」
河村は文庫本を伏せて溜め息を吐いた。
高石は菓子とペットボトルの入ったコンビニの袋をベッドに置いて、自分は丸イスに腰掛けようとした。
「高石さん」
病室に入らずに廊下に突っ立っていた雨居が高石を呼んで手招きした。
「ちょっと」
「ん? なに」
高石が廊下に戻ると、河村もベッドから降りようとした。
「アンタはここに居てください」
河村に向かって雨居が言い、高石の袖を引っ張った。
「それは置いていくんで、アンタはここに居てください」
雨居に強引に引っ張られ、エレベーターの前まで連れてこられた高石は後輩の態度に眉をしかめた。
「なに? お前、今の態度」
「高石さん」
雨居は高石の説教など聞く耳持たぬ様子で、エレベーターのボタンを押した。
「間違えてます」
エレベーターの扉が開くと、雨居はそう言って高石の体を突き飛ばした。
エレベーターの扉が閉まる。
高石だけを乗せたエレベーターはぐぅん、と揺れて、四階のランプがぽーんと光った。
扉が開いて、エレベーターは四階に着いた。
高石は一瞬呆然として、それからエレベーターを降りた。
病室では河村が参考書を開いて勉強していた。隣のベッドでは中年男性がテレビを観ていて、向かいの二つには老人が寝ている。
「おう。何、突っ立ってんだ?」
入り口に立ちすくむ高石の姿をみつけた河村が、首を傾げた。
「ああ……いや……」
高石は引っ張られた袖を直しながら病室に立ち入った。
「間違って……四階で降りちゃってさ……」
「は? ここ四階だぞ。間違ってねえよ」
「いや……うん」
河村のベッドの上にコンビニの袋は無かった。
「……あのさ、なんか欲しいもんある? 売店で買ってくるけど」
「いいよ、別に。冷蔵庫いっぱいなんだよ。母さんがあれこれ置いていって」
プリンとか食っていいぞ、と言われたが、高石は今は食欲ないからと断って丸イスに腰掛けた。
さっきの四階にいた河村は誰だったのだろう。雨居は自分を可愛がってくれる先輩をアンタ、なんて呼ばない。いつも「河村さん」と呼んでいた。亡くなった後輩は、礼儀正しい奴だった。
エレベーターの扉が閉まった瞬間に、雨居が死んでいることを思い出した。けれど、袖を引っ張られた感触が残っている。
自分は、雨居のおかげで何かを逃れたのかもしれない。紙一重のところで。
後輩に助けられて、自分の代わりに供物を置いていったから、逃れることが出来たのかもしれない。
もしも、あそこであの河村が後を着いてきていたら、どうなっていたんだろう。
そう考えて、高石は袖をぎゅっと握って長い息を吐き出した。