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生き残るのは簡単だ、とオルカはさも簡単な事のように歌うように言い始めた。
「簡単な事なのかしら」
彼女の懐疑的な口調に、オルカが悪戯小僧の表情で笑って頷く。
「簡単だぜ」
その言葉の意味をふと考え、ディアマンテは彼の簡単は色々な物を飛び越えているのかもしれない、とはっとした。
それゆえに問いかけたのだ。
「本当に?」
「ああ。人間らしい所なんて捨てちまえばいいんだもの」
彼の言葉はぎょっとするもので、ディアマンテは息をのむ。極彩色の瞳が煌き、すっと何処かに向けられた視線は鋼のような鋭さだったのだ。
その鋭さを向けられた何かが、のそりとどこかに立ち去っていくのが、彼女でも感じ取れた。
「人間やめるってのはな、人間としての、りんりかん? とかじゃなくて、人間として生きるのを止めればって意味だぜ、文字通りな」
彼は寝る前に語るお話としては、明らかに問題のある事を口にしていく。
「人間としての考え方とか、全部捨てるの。自分をどんどん尖らせて行って、きりきり張り詰めさせる。そこで残った生きるっていう思いだけに忠実になって、毎日毎日、明日の事もあんまり考えないで生きるのさ」
ごろりと寝転がって、手を伸ばして夜空を眺めているオルカが、呟くように言う。
「そうすると、次第に、な。人間としてあるべき姿ってのはなくなって、いつの間にか人間の時に大事にしていたものを、全部捨てちまってるんだ。でも毎日生きている。毎日。それで気付いたら何年も時間が過ぎていて」
オルカはそれを経験した事があるのだろうか。
ディアマンテはじっと彼を見つめていた。唇を笑いの形に吊り上げて、語っているその顔はなぜか、胸が張り裂けそうな位に痛かった。
感じるのだ、と遅れて気付く。オルカの語る言葉の数々の中に宿る、深い深い、修復不可能な傷から流れている、哀しいという痛みを感じるのだ。
だからこんなにも痛いのだ。
「オルカ」
だから呼び掛けた。オルカ、たった三文字の、しかし重要な言葉を彼女は口にした。
人間を止めれば名前すら呼ばれないのだから。
「ん、なんだ、ディアマンテ」
「生き残るなら、わたくしも一緒でしょう。だからそんなに、この先も一人で、人間を捨てて生き残るなんていう未来を見ていないで」
何故そんな事を言ったのか、彼女自身も良く分かっていなかった。もしかしたら、オルカの言葉のいくつかの中に散らばった何かを、見たからかもしれない。
オルカが目を見開く。
「俺、一人で生き残らないぜ」
「でも。あなたはまるでわたくしをどこかに置いていくような気がしたの」
「置いて? そんなのしねえよ。やっと手に入れられたんだぜ、俺」
「手に入れた? わたくしが欲しかったの?」
「さてな。ただ感じるんだよ、こう、ディアマンテの側にいると、なだめられる体の中を」
手のひらを地面に降ろし、オルカが彼女を引き寄せる。
「ああ、あったけえなあ。ディアマンテの足を考えると、あと二日くらいで村だか町だかに着くぜ。そうしたら、今度はこのヤマシロを抜け出すような航路をとろうぜ。ディアマンテがいいなら、俺の古里に行こう」
「あなたの古里は、行ってみたいわ」
「んじゃあ、決まり。ちなみにそこに、俺の古い知り合いとか、厄介になってた人達とか、面倒見のいい連中とかがいる。生き直し方だったら右に出る奴がいない位の、元極悪人だっている。ディアマンテだってそこなら、好きな生き直し方ができるぜ」
「そこでオルカが置いていくの?」
「行かねえよ。なんか信じてもらえてねぇけど」
からからと、俺はそんなに信じられねえかよ、ひでえ、と笑う彼の笑顔は、先ほどの痛みなど全く見えなかった。
そちらの方がいい、と彼女は男に身を寄せる。
心臓の鼓動が聞こえていた。
そして、どうしてかざあざあと、絶え間ない波の音が聞こえてきて、それから何処か広い空間を吹き抜ける、不思議な匂いのする風の音を感じていた。
オルカの中には古里の世界が流れているのかしら。
もしもそれと同じように、自分にも生きてきた世界の音が流れているのならば。
どうか、オルカには聞こえていませんように。
彼女はそっとそれを祈り、また思う。
オルカにわたくしの生きてきた、醜い世界の音は似あわない。楽器の音で上塗りをした、裏側のとても穢れた世界なんて。
信じようとしても、そのたびにひどい裏切りに会う世界なんて。裏切る予定で、近付いてきて友好の仮面をかぶる世界なんて。
残酷でありながら、陽気で朗らかで鮮やかな世界に生きているだろう、この、すくいぬしには似合わない。
だから、気付きませんように。
彼女はオルカの胸に頭を押し当てた。
やはり、オルカから聞こえてきた音たちは響いてきて、段々と頭が霞がかってきた。
オルカが小さく何かを言う。
その音の連なりが、どうしても聞きたかったのに、彼女は聞く事が出来なかった。
目を覚まして、夕べの残りの魚を食べるなんて言う事は出来ない。食べ物はその日その日、手に入れなければ見つからない。
ディアマンテはそれでも、何とか木の実を手に入れた。
爪先立って頑張れば、手に入る高さにそれらがあったのだ。
それは大ぶりな果実で、肉厚でお腹に溜まるものだった。
オルカが何も言わなかったために、彼女はそれを二人で分け合って食べた。
甘くはないし、えぐみのあるどこかしょっぱいような木の実だったが。それでも不思議とおいしい気がした。
「おいしくない味のはずなのに、美味しいわ」
「腹が減ってるからだろうよ。あと、体が欲しがっているからだろうよ」
「わからないわ」
「体が欲しいって思う物には、わけがある。昔々に、近所の爺さん医者が言っていたけれどな。異端って言われているような人だったから、古里に逃げてきたそのじいさんは、色々調べていたなあ」
「甘いのが欲しいのは?」
「んとな。砂糖は燃えるだろう? それと一緒で甘いってのは、体の中の燃料になるのが簡単だから、皆すぐに欲しがるんだって爺さんは言ってたな。疲れるとはらわたで食い物を溶かして、燃やす燃料にするのが面倒になるから、甘いものを食べたくなるとか」
「そうじゃないのに、食べたかったら?」
「赤ん坊のころから、甘いものは毒じゃないって思うから、だとよ。おっぱいは甘いからな。安心するんだろうって爺さんは言ってた」
「……わたくしはなんだったのかしら」
「甘い物ばっか食べてたのか? ディアマンテ」
「食べていたわ。たくさん」
己の食生活を思い出した彼女に、オルカが言う。
「ディアマンテの生き方は、俺よりよっぽど苦しかったんだな。そこに安心したいものを求めたんだろうから」
言ったオルカが、子供にするように頭を撫でてきた。
「でも、もうそんな思いさせないさ。どこの何よりも、俺の心臓の音を聞く方が安心するっていう世界を、俺が見せてやるもの」
「あなたなしじゃそれでは、生きていけないじゃない」
「ん、俺がもうディアマンテなしに、人間らしい生き方出来ないと思うんだから、おあいこだろ」
「え?」
彼女が呆気に取られていれば、オルカが楽しそうに笑った後に続けた。
「いつか、ディアマンテがもっとしっかり、自分の二本の脚で立っていると思えるようになったら、話せると思うぜ。それまではお預けにしていてくれ。たぶん俺の方に覚悟が決まらねえんだ」