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「あんた結構素直ないい子だよな」
ひょいと口に干からびたパンをくわえていたと思えば、オルカがそんな事を言いだした。
「わたくしが素直ないい子だなんて、そんな馬鹿な話はないわ。わたくしはひねくれているのよ」
彼女はどもりもしないで、彼女にとっての事実を言う。しかしオルカはそれに懐疑的な顔をした。
「いや、こんな見ず知らずの危ない男助けてくれる当たりで、お人よし全開だし、ぶっちゃけた話すげえ騙しやすそうで困る」
「困るって、どうして?」
「口手八丁であんたの事、あんたが納得しないままさらって行っちまいたくなる」
「こんな醜い女をさらっていくなんて、あなたも変な人ね」
「そうかあ?」
彼は彼女が食事中なのをいい事に、首を傾けてからりと笑った。
彼が目を覚ましてから二日目である。
体の調子がいまいちだとぼやいた彼に、彼女は体の調子がよくなるまでここにいて構わない、と伝えたのだ。
彼女にとって、一人はもう嫌なのだが、彼は出て行ってしまう人間だ。
その人を引き留める事は出来ないと思っているし、自分はこの塔の中で王子の怒りが解けることを待つ人間でしかない。
彼に縋って、一緒に出て行きたいなどとはとても言えないし、彼に迷惑なんてかけられないのだ。
ふと思うのは、こんなお喋りな男が出て言った後に、自分が正気を保っていられるかどうかという部分である。
そう、オルカは非常にうるさいのだ。
よくまあここまでお喋りな男が生きているものだ、と感心するほどよく喋る。
会話がなければ鼻歌で、会話があれば一時間でも二時間でも彼女に語って聞かせてくれるのだ。
例えば、花の話をしたとする。
するとオルカは、その花にまつわる諸国の伝説から相場から、薬効からとよく喋るのだ。
そのせいか、彼女はお屋敷でかしずかれていた時よりよほど知識を手に入れている自分を感じていた。
オルカの話はどんな単調でつまらなさそうな話でも、驚くほど印象に残り、続きをねだってしまうのだ。
これが彼のお喋りのうまさなのか、と思うと信じられない相手でしかない。
事実彼女は、苦手だった数学の話を、オルカが飄々と海の知識や航海に必要な物として語りだせば、それらの導きを思い描けるのだ。
教える側の向き不向きなどもいろいろあるのだろう。
その中でもオルカが飛び切りの男だという事だ。
「おれはあんたの事、この世でもとびきりの美女に見えるぜ」
ディアマンテは驚きすぎて、食器を取り落としそうになった。
「そんな嘘はやめてよ」
「嘘じゃねえよ。とびきりのイイ女。口説き甲斐のある、すげえ美人に見えるんだけどな」
「どうして?」
ディアマンテはそう問いかけ、急いで食事を食べ終わらせた。
オルカの話を聞いているとそれだけで、食事の時間が消えてしまうのだ。
気付けば、耳を傾けて数時間何て言うのも当たり前なのである。
しかしオルカは、これに対してはとても明快な言葉を紡いだ。
「美人ってのは、美しい人って書くだろ?」
「ええ」
「んじゃあ、ディアマンテ。あんた美しさってなんだと思う?」
「えっ……肌がきれいで、髪の毛も綺麗で、目鼻立ちが整っていて、体も綺麗で」
問いかけられた彼女の返答は、彼にとっては不正解の様だ。
そんな事を感じる顔で彼が頷き、口にする。
「見た目が綺麗なら、その人は美人なのか?」
「見た目がきれいでなかったら、美人とは言わないでしょう?」
「……あんたはとてももったいねえよ。おれの信念聞いておけよ、絶対損しねえもん」
「何?」
「美人ってのは、外側以上に、その中が光ってなけりゃ台無しなんだよ」
「中?」
「そ。どんな見た目ばっかりの美人さんでも、中身が腐って食えたものでもない最低な物だったら、その美人さんは美しいって言わねえんだよ、おれの故郷では」
「……」
「人間は見た目が九割っていうけどな。でもな。最後に残るのは、心なんだよ。だってよ、年寄りのばあさんになったら、得してた見た目の九割何ておじゃんだぜ? それに、こう言うのは失礼かもしれないけどな、子供を産んだ女は骨格が変わって、子供を産む前の美貌何て取り戻せない。骨の形が違うから、体形が変わっちまうし、子供育てるために体が作り替わるから、同じ人間でも全然違うんだ。大真面目にな」
そうやって、歳を重ねて最後に残ったものが、人間の本物の部分だ。
と締めくくったオルカが言う。
「最後の最後に残る物が、外道で最悪な醜悪な物だったら、それはどんな見た目ばっかりの美人でもただのくそみたいなもんさ」
「……わたくしは、その外道で醜悪なものだわ」
「そうかぁ?」
オルカが彼女の顔を覗き込む。
そして、こう言った。
「んじゃあ、ディアマンテ。外道で醜悪な女が、こんな怪しい人間の事助けて、一つきりの寝台も譲ってくれたのか?」
「……」
彼女が黙ると、彼は続けた。
「あんたは自分がそういう女だと思ってるかもしれないけどな、あんたのやった事はそれから外れた。つまりあんたは、外道で醜悪な女から一歩脱却したわけだ!」
眼を見開いた少女に、いつでも陽気な男が言い切る。
「人間、生き直すのにもやり直すのにも、制限何て一っつもないんだぜ!」
やり直していいのだろうか、とディアマンテは思った。
やり直していいのだろうか、
わたくしは。
「さて、ディアマンテ。こいつ舐めてもいいか?」
彼女がぐるぐると考えているのをよそに、オルカが悪くなっているだろう牛乳の容器を示す。
「暑いから悪くなっていると思うわ」
「一日くらい大した事じゃねえだろ? 遊牧民は常温の乳を飲んでるぜ」
何か大きく違う気がしたのだが、彼は自分の行動に責任が持てるらしいので、頷く。
「やめておいた方がいいと、一応言うわ」
「ん、じゃあ一口」
オルカはけたけたと、自分の胃袋に余程自信がある調子で笑って、牛乳を一口飲み、真顔になった。
「やっぱり腐っていたのでしょう」
「……」
オルカはそれを飲み込み、数秒黙ってから言った。
「なあディアマンテ。本当にここからおれと抜け出そうぜ」
その声は彼が一度も発した事のない真面目な音を持っており、彼女は目を丸くする。
「それは何故?」
「この乳、ただ暑さで悪くなった味じゃねえんだよ。ひでえな、この舌がびりびりする感じは、フグの毒だ」
「フグの毒?」
「アリの涙位の量でも、人間が即死する毒さ。おれの故郷ではクジラとりに使ってたな……」
「どういう、事?」
ここは父が、何とか入れてくれた塔で、怒りが解けるまで待つ場所ではないのか?
理解できない、何かがおかしい、オルカが嘘を言うわけがないのに、とても嫌な予感がする。
そんな事を思った彼女に、彼が残酷な事を言った。
「あんた、たぶんここで死ぬのを待たれているんだ」
「……」
「こんな毒、ヤマシロじゃ手に入らない。ヤマシロの交易の中で、フグ毒なんざ規制がかかりすぎて、出回らない。でも即死のブツだ。そうなると、あんたを親父は助けるつもりがないか、もしくは」
彼は塔を眺めてこう言った。
「ここにあんたを閉じ込めたのが、あんたの親父じゃなくて、あんたに死んでほしい誰かになる」
「そんなわけがないわ」
ディアマンテはかろうじて喋った。
信じられなかったのだ。
自分が殺される理由がどこにあるのだろう。
確かに、王子の愛する女性に色々と言ったけれども。
やったのはそれ位だ。
しかしそれを証明できるものが何一つなく、そしてディアマンテは濡れ衣を数多に着せられている自分を思った。
自分がやったとされている所業の幾つもが、この国では眉を顰められるほどの物であり、罰せられる対象だとも気付く。
だが、父ほどの権力の持ち主が、娘一人をかばえないのだろうか。
守れないのだろうか。父は処刑だけは免れるようにしてくれる、と言ったのに。
そこまで思ってはっと気づく。
父は処刑は免れるようにしたと言ったのだ。
つまり、それ以外の事で命を落とす事から、助けてくれるわけではないと。
そこまで思った後に、ディアマンテはフグ毒を飲んだと言っているのにぴんぴんしている男を見やる。
「嘘だわ、だってあなたは、フグ毒を飲んだというのに平気そうな顔だわ」
「ん、おれに大概の毒は効かねえの」
「……どうして? フグ毒という物は危険な物だとあなたが言ったのだわ」
人間が即死するとも言ったというのに。
それとも彼は、自分が人間ではないとでも言いだすのだろうか?
そんな視線を受けながら、男は平気な調子で言い始めた。
「おれはこの世の毒は何一つ効かない、そういう体になってんだ。深い深い鏡の海の底で、眠れる物を起こしたその時からな」
「あなたは」
呪われているの。
ディアマンテの問いかけに、彼は吹き出した。
「っ、あはははははっ! 呪われてんのかそう来たか! そうだなあ、呪われてるっていうよりも、これは祝福だな」
「祝福……?」
こんな、神官でも何でもなさそうな青年が、神の祝福を受けているのだろうか。
神の祝福を受けている人間など、一度も目にした事のないディアマンテでも、変だと思う言い訳だ。
しかし彼は生き生きと目を光らせて語る。
「親父の置き土産だな。これに関しては親父にいつも感謝してんだ。馬鹿な親だったし、無謀な神経だったし、結構ぶっとんだ親父だったけどな、愛してくれたのは間違いないから」
彼と父はきっと、とても仲のいい家族だったのだろうと彼女は思い、それからうらやましいとどこかで感じた。
こんな風に、自分は父の事を語れないのだから。
そこまで感じた少女に、男が言う。
「まあそれは置いておいてだ。おれを信じるも信じないもあんたの勝手だと思うけどな、ディアマンテ。おれはあんたがとても気に入っているから、死んでほしくないとはっきり思うぜ。だからここであんたに、選択を迫ろうと思う」
彼は言いにくそうに言う。
おそらく彼が、彼女にも理解できるような言葉を使おうと苦心しているからだ。
その気遣いなのか、優しさなのかがとてもうれしかった。
この人は、わたくしときちんと会話してくれるのだと。
「ここに残って、どの毒で死ぬかわからないけれども、取り合えず殺される運命を選ぶのか。おれの手を取って、おれとここから逃げて、身分も何もかもを捨てて、生きるか」
彼の選択は残酷だ。
自分として……公爵家令嬢として死ぬのか。
それとも、全く別の他人として、名前も生い立ちも何もかもを捨てて、生きるのか。
彼女にとってみれば究極の二択だった。
自分として殺されるか。
他人として生きのびるか。
彼が迫るのはその選択だった。
彼はきらきらとした鮮やかな極彩色の瞳で、彼女を見ている。
どう選んだとしても、彼は怒ったりしないのだろうとここで気が付いた。
そして、ここで殺される事を選べば、彼は二度とここを訪れないのだろうとも。
この数日、彼と一緒に過ごした少女は、小さな声で言った。
「わたくしは、あなたがいなくなってから孤独に耐えられるのかしら」
余りにもにぎやかな命がいなくなった後、一人きりの空虚な世界で、殺されるまで生きる事が出来るだろうか、と。
一人きりが空虚な物だと、世界が灰色になるのだと知ったのは、彼がここに現れたからなのだ。
そしてその、色が乱舞する世界の美しさに気付かされたのも、彼が笑いかけて来てくれるからなのだとも。
それを失った後に残された、執行猶予のような物を果たして自分は、耐えきれるのだろうか。
分からないと思いながらも、ディアマンテは彼を見た。
彼は見返してくる。
彼女がきちんと考えて選ぶのを、待っているのだ。
しかし彼は、あまり気が長くないらしい。
五分ほどの沈黙の後、口を開く。
「ああ、面倒くせえ。んじゃ、言い方変えるわディアマンテ。死にたい?」
彼女はすぐさま首を振った。
死にたくない。
死んでもいいのならば、とっくにこの塔から飛び降りてでも死んでいる。
腐っているだろう、彼のいうところのフグ毒入りの牛乳を飲んで死んでいる。
それを選ぼうと思わなかったのだから、それらを回避していたのだから。
自分は死にたくないのだ。
「死にたくないわ」
はっきりと言った娘に、男が頷いた。
「んじゃあ、生きたいか?」
今度はその問いかけに、はっきりと肯定した。
「生きたいわ。生きるの」
「そんなら答えは一つきりだ。おれと生きろ、ディアマンテ。おれの手を取って」
彼の言葉は恋愛小説の口説き文句以上の破壊力だった。
とても短い言葉だというのに、それにすべてが持って行かれるような感覚すら覚える。
「それがあなたの選ばせてくれる選択ね」
「そうさ」
軽やかに破顔した彼の手を、ディアマンテは取った。
大きくてかさついていて、あちこち古傷ででこぼことしている指や手のひらを、ディアマンテは一生忘れる事などできないだろう。
「わたくしもお願いするわ。……わたくしと、生きて」
その言葉を聞いた男は、一番綺麗なお宝を手に入れた表情で、頷いた。
「おうとも。死んでもたぶん放してやれねえけど、よろしくな」
どういう意味、と問いかける事をしなかったディアマンテは、この塔の中の孤独で、いささか神経がずれたのかもしれなかった。