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しかし、とディアマンテは感心してしまったのは、彼の手際のよさだった。
彼は、このドレスを着ている自分以上に、このドレスの扱い方に精通しているような気がしたのだ。
そうでなければ、こんなにも簡単に、こまかくならぶボタンをはずす事なんてできないだろう。
彼女は背中のボタンが外れた事で、少しだけ除く肌に何か言われるだろう、とある意味覚悟を決めた。
美しくない、何て言われるだろうと思ったのだ。
そう思うのも、彼女は太っていてそれだけで、醜い、醜悪だ、と何度も影で言われ続けていたからだ。
影で言われているというのに、なぜ彼女が知っているのかと言えば、意地の悪い人間たちが、陰で言っているように見せかけて、彼女に聞える場所で囁いていたからだ。
彼女が友達になったと喜んでいた、見た目なんて関係ないと笑いかけてくれていた少女たちもそういう人間であり、それを聞いた彼女はあまりの事に人間不信に陥った。
それも彼女が人を嫌い、傲慢だ、親の権力をかさに着ている、家柄を自慢し財力を自慢していると言われる要因の一つではあった。
しかしその事情を聞く人間は、一人もいなかったのが現実だ。
事実父親ですら、ある時を境に人が変わったように友人であった少女たちを拒否し、どんどんと高価な物を買い求め、家柄の低い少女たちに侮蔑の言葉を投げるようになった彼女に、理由など聞いた事が無かった。
それはさておき、彼女はドレスを剥いた彼が、またデリカシーのない言葉を言うのだと思っていた。
しかし。
「あ、忘れてた」
不意に彼はそういうや否や、大真面目な声で背後から問いかけてきた。
「あんたの着替え、どこだ?」
「……ないわ、そんなもの」
「まじかよ?! さすがにあるだろ、ちょっと待て、あ、んじゃあそうだな、これ全部剥くから、あんた湯船で温まってろ、何か探すから」
「あなたに家探しができるの?」
「おれが出来なかったら普通の盗賊はただのあほ」
さらりと変な事を言う彼は、彼女が常に身にまとっていたコルセットを見事に破壊する勢いで取り去る。
「全部脱がすか」
彼は下着に手をかけて一瞬黙り、しかしあの何も考えていなさそうな声で彼女を全裸にしてしまった。
「きゃっ……!」
見事な早業過ぎて、少し鈍い彼女は抵抗の余地なく、彼に生まれたままの姿をさらしてしまう。
何か言われるのでは、と身を固くして要所をかばった少女であるが、彼はすでに彼女のための着替えを探す事に頭が一杯らしい。
「んじゃ、ゆっくり温まってろよ。絶対あるはずだからな!」
にぱ、と邪気の見当たらないような、それでいてなんだか色々と腹の中にあるような顔で笑い、彼が部屋の片隅のカーテンの向こうへ消える。
そうこの浴室自体がバスタブと、ある程度のタイルのある場所でしかないのだ。
塔のてっぺんの部屋は、一つきりなのである。
そこに、生活の物全てが置かれているわけだ。
カーテンの向こうでごそごそ、がさがさ、という物色する音が聞こえ、彼女は言われたままに湯船につかった。
そうするとその温かさで、涙が浮かんできた。
こんなにも湯船につかる事で、心が温かくなるなんて思わなかったのだ、彼女は。
とても恵まれた生活を送ってきた少女は、こう言う事がとても貴重だと塔の中で実感したのだ。
「ふえっ……」
涙がぼろぼろとこぼれる。しかしお湯の中にそれらは吸い込まれてゆき、彼女の頬を流れる事もない。
彼はなんて律儀なのだろう。
彼はなんて義理堅いのだろう。
こんなに面倒を見てくれる、お風呂にだって入れてくれた、着替えだって探してくれている。
こんな私なのに、と彼女は顔を覆った。
湯船の中にはすでに、彼女の体からはがれだした垢が浮かび上がり始め、いかに彼女が不衛生であったかを示している。
それでもその温かさは、何にも代えられないものだった。
彼女がようやく涙を抑えらえたあたりで、ひょいと彼が顔を出した。
「……あんた、本当にここで生活させられるようにしてもらってると思ってるのか?」
彼はやけに大真面目な顔で言う。
「そうよ、父上が何とか、わたくしが処刑されないように尽力してくださったの」
「……いつか、いつかこの塔から出してもらえるようにだよな? 誰かのぶちぎれが終わるまで」
彼女はこくりと頷いた。
彼女はそう信じたかったのだ。
いつの日か父が、出してくれると。怒りを解いて、ここから出してくれると。
しかしそれを懐疑的な表情で聞いている彼は、違う意見を持っているようだった。
「……まじな話していいか?」
「あの、あなたの言葉が分からないわ、まじってどういう意味?」
「そっちかー。まじってのは、本当に、とか真剣に、とかそういうのごっちゃに混ぜた言葉。割と下町の言葉だぜ」
「あなたはわたくしでもわかるように言ってくれるのが上手だわ。その、まじなお話では何?」
「……これからこの地方、極寒の世界だってわかってるよな、あんたもあんたの親父も」
「ええ」
「……じゃあ何で」
彼は言いよどむ事もなく、それを言った。
「あのクロゼットに入ってるのが、夏の薄物しかないんだ?」
「……そうなの?」
彼女はクロゼットを見た事が無かった。
自分では脱ぎ着ができないので、哀しくなるからきちんとクロゼットの中身を確認した事が無いのだ。
しかし、散々家探しをしている彼が苦い顔だ。
「本当だ、こんなのに嘘言ったってどうしようもねえだろ。この塔の中に、これから冬を過ごすための衣類は一着もない。ついでに、冬を越すための毛布もない。どーすっかな。あんたを洗って、服着せてもあんた風邪ひくよな。それ見捨ててここ出て行くのもすげえ気分が悪いし……」
「……ごめんなさい」
「あんたがなんで謝るんだよ。まあ、取りあえず身ぎれいにしてから考えようぜ。おれはこれでも人を洗うのもうまいんだ」
自慢げに笑った彼が、かろうじてあったのだろう垢すりを見せる。
「この塔、石鹸のひとつもありゃしねえから、垢すりしてお湯で流して、頭もお湯で洗うくらいだけど、我慢してくれよ、おれも手持ちに石鹸みたいなすぐ溶けちまう物はもってねえんだ」
「……やってくれるの?」
「おう、あんたへのお礼だもの」
恩を返す事がうれしいのだと笑いだしそうな彼が、そう言って上着を脱ぐ。
「どうして脱ぐの? あなたは……!」
上着を脱いだ彼は、一体どうしてそれほどの傷痕が残るのか、というほどおびただしい傷が体に存在していた。
彼は己のそれをちらりと見た後に言う。
「仕事の結果。ついでに、上着を脱いだのは濡れるから」
そして彼は言うや否や、見事な手際で彼女を洗い始めた。
元々の生活で、他人に洗ってもらう事が通常だった少女は、警戒する事もなく彼の手を受け入れる。
警戒心はないのか、と思うだろう。
だが彼女はこの孤独な一か月近い生活の中で、そう言った物の加減がおかしくなっていた。
そして目の前にいるのは、ようやく現れた喋れる相手である。
裏表もなさそうな、明るい男だ。
男というだけで警戒しなくてはならないのが、彼女の生活であったが今は違う。
彼女は一週間も眠る彼に寝台を貸していたからか、彼に対しての警戒心がまるでなくなっていたのであった。
彼は長く器用な指と垢すりで、彼女を臭わない程度まで洗ってくれた。
そして頭も洗ってくれたわけである。
そして最後に、湯船のお湯を抜き、彼女に数回桶のお湯を被せてくれた。
「ん、これで当面は臭わねえな」
彼は自分の仕事に満足したらしく、頷いてから彼女に服を着るように言う。
「これなら前にボタンが付いているし、あんたも着られるだろう」
「……」
彼女はそのシャツを受け取り、その薄さに彼の言葉が事実だったと知る。
確かにこれは夏物だ。それも真夏に着用するきわめて薄い生地だ。
しかしこれしかないと彼が言うのだから、彼女は何とか前合わせのボタンを留め、巻きスカートをはく。
幾重にも体に巻く事で、優雅なドレープを作るだろうスカートも、幾重にも巻くには長さが足りなかった。
一瞬哀しくなる、そしてその表情が表に出たのだろう。
「何か嫌だったか? おれはあんたの腰がどれだけあるか知らねえから、こういう大きさがあんまり関係ない奴の方がいいと思ったんだけど」
彼の声は心底本気であり、彼が彼なりに考えてくれたのだとすぐに分かった。
その優しさに、また涙がこぼれた。
「また泣くのかよ?! 今度はおれが何言った?!」
鮮やかな多色の瞳を大きくし、彼が慌てる。違うのだと彼女は首を振った。
「うれしいの」
「……」
「あなたがわたくしを考えてくれたのが、ただ嬉しくて泣いてしまうの」
「……そっか」
彼は、子猫や子犬を抱きしめるように腕を伸ばし、自分の体をじっと見た。
正しくは、何かの体液で悪臭漂う自分を、である。
「……おれもお湯沸かして、流していいか、そこで」
「いいわ。でもあなたの着替えはないのに」
「あー、大丈夫だと思う」
彼はなんとも言えない声でそう言い、腹に巻いていた幅広のサッシュをとる。
「服が乾くまで、これでも腰に巻いてりゃおれは風邪ひかねえもん」
自分の裸を見せるのに、抵抗のない調子である。
この人は、温かい地域の出身かしら、とディアマンテはふと思った。
湿気の多い温かい地域の男性は、自分の裸を他人に見せる事に抵抗があまりない、と聞いていたので。
「ん、じゃあ借りるな」
彼はそういうと、彼女に用意したお湯とは明らかに少ない量を桶で汲んできて、ほぼ水のようなお湯を頭から数回かぶり、ざっとぼろ布で体をぬぐう。
彼女に対する丁寧な洗い方とは大違いだ。
そして洗い場と部屋を仕切るカーテンすら開けっ放しの非常識だ。
あっという間に体を清めたオルカは、何も言えないで目を丸くするディアマンテに言う。
「なんか言いたい事あるなら、言っていいぜ、大概の事じゃ腹立たねえもん」
「……あなたは、体を洗うのが雑なのね」
「いざって時に備えると、えらい早くなるんだ。よっぽど安全な場所じゃねえと、のんびり洗うのなんてできねえよ」
「カーテンも閉めないのね」
「ん? だってカーテン閉めたらあんた、怖いだろ」
「……っ」
どうしてそれが分かるのだろう、とディアマンテは驚く。
カーテンが閉められて、いて。
開けたらいなくて、今まで彼と話していた事が幻だったら、と思うと怖くてしょうがなかったのだ。
それをわかっているかのように、見つめてくる急所にサッシュを巻いただけの青年。
「それ位の事はわかるんだっての。あんたがここに独りぼっちだった時間を考えればな」
言った彼に何か言おうとして、ディアマンテはくしゃみをした。
本当に寒くなってきたわけだ。
「寒いか? だよな、その格好しかねえんだ。後はそれ以上に夏物の、娼婦が着る誘惑する衣装しかなかったぜ」
「そんなのがわかるの?」
「何べんか見た事があるからな! あんなの、常夏のきれいなねーちゃんしか着ないぜ。こんな所で着たら頭おかしい」
言った彼は、ディアマンテの青ざめた唇を見る。
「ん、体温が低い。しょうがねえ、寝台の色々に包まっててくんね? 水洗いだけどよ、あんたの服洗って乾しておくわ」
「そんな事までやってくれるの?」
「おれは自分のした事は最後までやるの」
言いながら彼が、彼女の着ていた衣類を本当に水で洗い始める。
そうか、たらいにためられていた水はそのためだったのか。
ディアマンテが感心しながら、オルカの水洗いを見ていると、オルカは気のすむまで水洗いをしたらしい。
「型崩れはご愛敬にしてくれよ?」
そう言って容赦なくぎゅうぎゅうと、元は高級だった布地を絞るオルカである。
早く乾かすためだろう。
彼は徹底的にドレスを絞ると、ばんばんとふりさばき、それを見事にカーテンレールに干してしまった。
「あー。さみい」
彼が小さく呟いたので、ディアマンテは一瞬もためらわずにこう言った。
「オルカ、わたくしと一緒に寝ましょう」
「……は?」
「だって二人でくっついていれば温かいわ」
「本気か? おいいいのかいいところのご令嬢」
「あなたが寒い方が嫌だわ」
真剣にそう言ったディアマンテに、オルカは彼女が引かないだろうと察したらしい。
眉をしかめていたと思えば、嬉しそうに笑う。
「ん、あんたの優しさに甘えて、あんた抱えて寝るわ」
彼がひょいと彼女の前に来ると、彼女を寝台に追いやり、本当に寝台に入って来る。遠慮のない男だ。
オルカはディアマンテを抱きくるむと、しっかりと薄手の布団をかぶる。
「あー、あんたやわらかくてあったかくて最高だわ」
「……」
太っている事を、そんな風に最高だと言われた事などない彼女は、本当に頭が真っ白になってまた、涙をこぼした。
彼に深い意味はないだろうから。