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声がする、その声はずっと耳から離れなかった者たちの声だ、今行く、と答えを返そうとしても、体は動かない。
動かないのだ、動けといくら念じても、体は一向に動かない。
行かせてくれ、と何者かに切実に言うのだが、その願いは聞き届けられない。
ああ、頼むから、頼むから、行かせてくれ、そちらに、あちらに。
暗闇で無痛の苦痛に苦しんでいるあいつらを、導かなければならないのだ。
導きを己の道と決めたあの時から、導かなかったら、と思っていたというのに。
体は動かない。
その体に、呪詛のように言葉がまとわりつく、あいつらの苦しみの声が体をはいまわる、頼むから、頼むから。
そんな風に思えば息が苦しくなる。
息もできない中、酸欠の気分で息を吐いた時だった。
不意に何かが、己に触れたような気がした。
そして、なにものかが強制的に、彼と声たちを切り離す。
それは生半な人間ではできない事、そして異土の力に名前を連ねた彼をそうすることができるなど、あってはならない事だった。
しかし。
そのなにものかが引きはがし、己を両のかいなで抱えて庇う。
抱きしめて庇うのだから、これはおそらく女だろう。
その時に脳裏に一つの、なまえがうかぶ。
金剛石、煌く女、おれの一等一番に素敵な。
彼女だと何かが認識したとたんに、肺一杯に空気が入って来る。
そうするとひどく眠くなり、意識が薄らいでいく。
おんたいしょう、という、優しい声がいくつも響く。
おんたいしょう。
しあわせに、なってくださいよ。
声を聞き、彼は眠りの暗闇に意識を落していく。
目を開ければ見知らない場所、そんな事はもう慣れっこになっていた。
ディアマンテは起き上がり、机の脇の背丈の低い椅子に座り、水晶玉を眺めている女性に問いかけた。
「あの、薬をもらってきてくださったのでは」
「ええ、貰って来たとも、でもそこの馬鹿が熟睡しているからね、起こすのもどうかと思って」
眠りはもっとも体を回復させる、と簡単にいう彼女。
彼女がそれから、にこりと笑った。口元しか見せない布の奥で。
「ありがとうね、取りあえず面倒見てくれたんでしょ、そこの馬鹿があんまりにも馬鹿面で寝ているから、そうだと思うんだけど」
「何もしていないわ」
「しているさ。側にいてくれたんだろう、病気で苦しい時に、誰かがそばにいるとそれはとても救いになるのさ」
経験があるのだろう声で言った彼女が、立ち上がる。
「さて、何か料理でも仕入れてこようかしらね。一人暮らしだと料理して誰かを喜ばせようって思わないし、それをいったらうちの馬鹿の方が、あたしよりもなんでもうまいのさ」
「わたくしは何か、手伝えることがあるかしら」
「さあてね、そうだ、店番していてくれるかい? そっちの入り口の前で座って、あたしに会いたいっていう奴の素性を聞いて、通すのさ」
「誰でもでは、なくて?」
「それはあんたの判断でいいんだよ、ここらの店番ってのはそう言うものさ。店の人間に会わせるかどうかを判断して、己の眼を鍛えていく」
「あなたは、何処かで集団で仕事をしているのではなくて、ここを仕事場にしていらっしゃるの?」
「そうさ。あたしはここらでも腕利きだし年数も長いから、秘密の話をしたい奴が多くてね、その一人がここに家をくれたのさ」
家をくれる、と簡単に言っていい事じゃないと思った。
だが、占い師にとってのパトロンはそんな物なのだろうか。
いまいちわからないながらも、ディアマンテは頷く。
「でも、わたくしにできるかしら」
「大丈夫、それが下手でも上手でも、慣れて行けばそこそこ。ほら、そこの仮面をかぶって布を被りな、そうすればあんたの素性はわからない」
言われるままに仮面を手に取り、布を被る。
なんだかそれだけで、変装したような気分になりながら、ディアマンテはふと聞いた。
「あ、オルカを見ていた方がいいかしら」
もしかしたら、容体が急変したりは。
今はぐっすり眠っているから、うっかり手伝いを申し出てしまったが。
「大丈夫、そこの馬鹿は色々規格外だからね。それに熟睡している状態の奴がそんなに気になるんだったら、そこの引き戸を開け話して、垂れ幕だけかけておきな。そうすれば店番しながら、奥も見回せてらくちんだよ」
実際にそうした事があったのだろう。
ホエイ=ルは懐かしい思い出に微笑む顔をした後に、彼女にそうやって言ってくれた。
店番をしていても、気になるのはあちこちの調度品だった。
余りにも知らない世界で、そして珍しくてたまらない。
店番だからうかつに物を壊しても、と思っても、しせんはちらちらとそちらを見てしまう。
そして背後に気をやってしまうのは、オルカの寝息が聞こえてくるからだ。
ホエイ=ルがどこかに買い出しに行ってから、数分。
入口の前の水路に船を止めたらしい誰かが、入口の垂れ幕をまくってやってきた。
「おやおや、新しいお弟子さんだろうか、ここにホエイ=ルは在宅か?」
「いえ、今出かけています」
「残念。お嬢さんはほやほやの店番さんだね、ちとお話をしようか」
その男は高齢の皺の多いひとで、なんとなく浮世離れしているように見えた。
だが身に着けている物は豪華で、ディアマンテがよく知るものも多い。
ただ使われ方が独特なのは、このあたりのやり方なのだろう。
「あなたは、とてもいい布を使っていらっしゃるのね、それはアシハラの方の絹だわ」
「おや、知っているのかい」
「それがどこの産出品かもわかりますよ」
「面白い事を言う、それじゃあ当てて見てくれるだろうか」
ディアマンテは、男の腰巻に使われているそれを見る。
特徴的な織だ、これはすぐに分かる。
「これは、トヨトミ王国でも北寄りの場所、アシハラのヤソ村の絹だわ。その涙模様はそこの特徴なの。細かければ細かいほど、高値で取引されるのよ」
男は目を見張り、すごいな、と一言言った。
「それだけすらすらと出て来るのかい、ならこちらは?」
「これは王国から北西に行ったところ、オオトモの金細工でしょう? 金の色がそこの独特の混ぜ方をしているもの。そちらの銀は間違いない位に、ラティメリアの銀のかざり、違うかしら」
ディアマンテは腐っても大貴族の令嬢、そして豪華な物はいくらでも手に入れられる事が出来、そして莫大な量のそれらを見る事も出来た、そんな環境に長くいた。
そのため、彼女はそれらを簡単に見分けてしまうのだ。
彼女からすれば普通にできる事、しかし普通は出来ない事である。
「すごいすごい、これらは偽物も似たような物も多く出回っていて、真贋を確かめられる人はなかなかいないんだぞ!」
老人ははしゃいだ声で笑う。
そしてそれから、期待に満ちた声で問いかけてきた。
「君、ここの店番を止めて、うちの女房の所で働かないかい、ホエイ=ルにはきちんと筋を通すから!」
ディアマンテは目を丸くした。どうしてそうなったのか、分からなかったのだ。
「いやもう、品物のきちんとした価値が分かる、目利きの人を探していたんだよ、こんな若い女の子がそうだと思うと、もううれしくてね! ホエイ=ルがこの前、あんたの探し物は近いうちに見つかる、と言ってくれた意味がようやく分かった!」
手を握って踊りださんばかりの老人に、ディアマンテは言う。
「あの……ごめんなさい、わたくし、何も知らなくて」
「そうかい、だったらゆっくりじっくり考えてくれないだろうか?」
断られたりしないだろう、そんな笑顔で言った男が、一枚の金属の板を差し出して、機嫌よく去って行った。
一体何があったのだろう。
よく分からないながらに、その板を見れば、板には誰かの屋号が刻まれていた。そして一粒石がはめ込まれており、只の細工物としても素晴らしいように思えた彼女だった。




