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「こりゃ風邪だな」
「かぜ……?」
彼女はよくわからなかった。風邪でこんな風になるのか。
知らないというのは、とても厄介である。
その彼女に、その女性が言う。
「そうさ。これはただの風邪、ゆっくり養生してればすぐに治っちゃう奴だね。この馬鹿息子も相当、へんな事してたんでしょ」
「馬鹿息子?」
船の人間たちが、オルカを運ぶならここだ、と運んできたのは不思議な家だった。
どうにも占い師の住まいにしか見えない。
だってよく話に聞くような、大きな水晶玉や水晶柱、ほそい木の枝がたくさんある物がおかれていたのだ。
そして何より、現れた女性がとてつもなく、いかにも私は占い師、という姿だったのだ。
彼女はここで、見た目だけで職業を判断できる人がいる事にほっとした。
彼女はどこを見ても、職業が分からないままだったのだから。
オルカなどその筆頭である。いろいろ詳しいのに、何を生業にしていたのかよくわからない。
本人は海賊だ、なんて言い張るが、それにしては暢気なように思えたのだから。
「あの……」
「ああ、大体言いたい事はわかるさ。あたしとこれの関係が知りたいんでしょう。これはあたしが三年も腹の中で育ててきた、息子なのよ」
「普通、十月十日で生まれてくるのでしょう?」
「女の子だねえ、そこらへんは習ったか。そうさ、普通ならそれだけの日数で子供は生まれる。早産とかあるけれどね。でもこれは三年も、あたしの腹の中でぬくぬくしてたのさ。その割に生まれた時はただの赤ん坊と同じ見た目で、ちょっと拍子抜けしたけれどね」
にやっと唇を吊り上げる感じが、そう言われてみれば似ている気がした。
彼女は深くすっぽりと一枚の布を頭からかぶり、目元は一切見えないのだが、口元はよく見えたのだ。
そこから見える肌はそこそこの年齢を重ねた皺を持ち、そして大きくよく開くだろう、赤い唇をしていた。
その口の大きさも、オルカに類似している気がする。
「まちがいなくあたしの子供さ、だから言いたい放題」
明るい声で言った女性が、彼女にお茶を進めてくる。
口に入れればなんとなく塩気が感じられる。海の水を使うのだろうか。
それはちょっと汚いような、と思っていると、女性が答えた。
「ここら辺の井戸の水は、塩がどうしても混じるのさ。でもそれでお腹を壊した人間は今のところいないから、安心してちょうだい。それに脱水の時はここらの井戸水がとっても役に立つ」
その乳入りのお茶は貴重品だろう。乳は何の物にしろ貴重品だ。
特にこんな場所では。海の上なのだから。
なんて思っていると。
「しかしあなた、きれいな顔のお嬢ちゃんだわね、オルカがさらってきたのかしら。帰りたい場所があるなら、これを蹴飛ばして送ってあげるよ」
「いいえ、わたくしはオルカと一緒に生きることにしたのです」
ディアマンテの言葉に、彼女が目を丸くしたのが伝わってきた。
「まあまあまま! 馬鹿息子が陸の夜光石を捕まえてくると、星が言い出すと思えば!」
「夜光石?」
「あなたは見た事もないだろうね、夜に白く光るような、とてもきれいな石なんだよ。陸じゃそんなに貴重だとも思われないけれど、海だとそれを真珠の代わりに身にまとうのさ。だからとっても人気がある」
「そんな綺麗な物は、オルカは持っていないわ」
「いいや、あなたの事だわね。見ればわかるよ。あなたはきっといい女になるし、オルカを連れ戻す力を担う」
「?」
「おっと、こっちだけの話だわね」
くすくすと笑った彼女が、改めたように言い始める。
「初めまして、あたしの名前はフーシュエィ、水の虎と言われている女よ。もっとも占い師としての名前は別にあるのだけれどね」
「どちらをより多く使っているのかしら」
「そうねえ、占い師としての名前だろうね、仕事仲間が多いから」
「そちらを教えてもらえないでしょうか」
「いいわよ、そっちはホエイ=ル」
「不思議な読み方をなさるのね」
ホエイ=ルはにやりとまた笑った。そしてねころがり、うんうん唸っている息子を見ていった。
「さて、これのために苦い苦い薬でも貰ってこようじゃないの。あなた、ちょっとあたし出かけるから、これの様子を見ていてちょうだいな」
「わたくしその、誰かを看病した事が無くて」
「大丈夫だってば。水が欲しいと言えばそこの水差し、着替えならそこの棚、体を清めたいとか天地がひっくり返りそうなことを言い出したら、そこの桶に底に置いてある丸い玉をいれて、その引き出しの中のピッケルで砕けば、お湯になるわよ」
「丸い球が、お湯に?」
「六島の一つ、闇のスカータハ特産品さ。何しろ毎日大量に生み出されるから、六島のあっちこっちに送っているお湯の玉。飲むのには不味いけれど、風呂に使うには最高なのさ。何しろ肌がピカピカになる」
そこまで言ったホエイ=ルが軽い足取りと、重い布を引きずる音を立てて扉を出ていき、止まっていた船に乗って行ってしまった。
「できるかしら」
ディアマンテは小さく言い、しかしやれればきっと、オルカが楽になる、と信じて気合いを入れた。
どうせ自分などできやしない、という思いは見ないふりをしながら。
ふうふうと息を吐きだす音だけが、そこに響く。
その音は不安感を掻きたてた。
このままオルカが苦しいままだったら、どうしよう。
そんな思いを抱く、音だったのだ。弱ったオルカは初めて見るのだから、ディアマンテが不安に思ってもおかしな事ではない。
「オルカ、大丈夫?」
彼女は聞こえていないだろう声をかける。
眠りながら、風邪の熱に苦しむ彼には、聞こえていないはずだ。
「ねえ、大丈夫?」
それでも、返事がなくとも、彼女は問いかけをせずにはいられなかった。
だってとても、怖かった。
ただの風邪、とホエイ=ルは言ったけれど。
トヨトミの街では、ただの風邪が流行って何人もの人が死んだのだ。
その理由を知らないからこそ、彼女はただの風邪がとても恐ろしい。
衛生状態があまり良くなく、また、風邪が流行ったのが貧民層とよばれる、医者にかかれない人々だった事、そして貴族側がそこを隔離し、見ないふりをしたから、それだけの死人を出した事などを、知らなかったのだから。
ただ、とてもたくさんの人が死んだ、と聞かされていた深窓の令嬢は、不安だった。
オルカが寝返りを打った。そして。
小さな声で何かを言った。
うわごとだ。
「なあに、オルカ、何かしてほしいの?」
それでもオルカが言ったという事で、彼女は身を乗り出した。
オルカがまた、小さな声で言う。
「……くな……」
何を言っているの。
何度目かの問いかけに、答える事無く、オルカの皮膚に浮かぶ鱗が熱を持つように赤く光る。
誰もオルカの鱗の事なんて教えてくれなかった。
そのため、彼女は汗を拭こうと手ぬぐいを持ち、その鱗に触れた。
布越しの鱗は、旅の間に当たっていた火のように熱い。
これで本当に大丈夫なのか。
常ならない事、のように思えた。
そんな時、布から少しずれた手のひらが、彼の鱗に触れる。
わざとではなかった。間違いなく、わざとじゃなかった。
しかし。
急に襲ってきた声たちに、ディアマンテは凍り付いた。
(親分)
(船長)
(御大将)
(こっちに、来てくださいよ。もう一度、俺たちを導いてくださいよ、ここはまっくらのくらやみだ)
その声が何なのか、ディアマンテはわからない。
声が全部、同じ言葉を喋っていたのかも、分からない。
だが。そう聞えたのだ。その声は全て、同じ意思を持っていた。
誰かを呼んで、導いてほしい、暗闇が苦しい、と訴えかけていたのだ。
なんなの、この声は。
オルカが寝返りを打つ。そこで皮膚がはなれ、声は遠のく。
オルカがうめく。息が、あらい。
どうしてそう思ったのか。
分からないながら、確信に近い物が彼女に生まれる。
彼が連れていかれてしまう。
いやだ、と思ったその思いから、ディアマンテは大声を上げた。
初めて、大声を上げたようなものだったから、ずいぶんと酷い声になったけれど。
「オルカを連れて行かせないわ!」
彼の肩を握り、彼女はオルカの中からまた聞えてきた声に、言う。
「連れてなんて、行かせないわ。わたくしが、絶対に!」
彼女の声に、向こう側、としか言いようのないあちら側の声が、黙る。
「オルカは不死ではないのよ、だから今連れて行かせたりなんて、するものですか」
声たちが、何も言えない。
「わたくしと生きるの。オルカがそう選んだの。だからまだ連れて行かせたりするものですか!」
いやだと思った、ただそれだけから、彼女の中に傲慢とも呼べるだけの言い分が生まれた。
元々、傲慢に育てられたから、そういう事が出来たのかもしれなかったが。
彼女の言い分を聞いていた声たちが遠のく。
それでも。
(御大将)
(御大将)
(御大将)
(俺らの優しい導きの綺羅星、もう一度照らしてくださいよ、ここはまっくらくらのくら。)
呪いのような響きが、最後までオルカに訴えかけて来ていた。
気付けば汗を大量にかいていた。冷や汗かもしれない。
それほど汗だくになる気温でもないのに、彼女は額から落ちる汗をぬぐった。
吐きだした息の中に、とても疲れた何かを感じる。
「今の声は何だったのかしら」
とても小さな疑問だった。
たぶん、きっと。
オルカの過去にまつわるものだろう、という事はわかる。
そして、声の主たちの、オルカを慕う気持ちも分かった。
何者の声なのか、はまるで分らなかった。
水を飲もう、と彼女は水差しの水を注いだ。大きな木の実でできた器に。
椰子によく似た、それよりはずっと小さな、コップとして使える大きさのそれに注いで飲み干す。
その時だった。
「ディア?」
オルカが彼女を、きっと、呼んだ。
「なにかしら、オルカ?」
「……みずくれ、みず」
「ええ」
オルカはぼんやりとした目をしながら、水の器を受け取り飲み干す。
「わりいな、ここ、どこだ……」
「あなたのお母様の家よ」
「あのばばあ、また模様替えしやがったな……そのごみかたづけんの誰だと思ってんだよ……」
ぶつぶつという声の中に、隠しきれない親愛があった。
オルカはまた寝転がる。
「わりいんだけど、また、寝るわ。……ばばあはどこいった」
「薬をもらいに行ったわ」
「んじゃあ……もうすこしかかるな……なあ、ディアマンテ」
「なに?」
「前みたいに、手をつないでてくれよ」
甘えた声で、オルカが言う。熱があって不安なのだ。
ディアマンテは、それ位だったら、と頷く。
また声が聞こえてきたら、追い払うつもりで。
「ええ、いいわ」
握る手はどこか熱く。なんとなく人間の手よりもなめらかな気がした。
「おやまあ、二人して眠っちゃったんだわね」
自宅に戻ってきたホエイ=ルは、そんな事を言った。
簡素な造りの寝台に寝る息子。
寝台の脇に座り込み、くうくうと寝息を立てる訳ありの少女。
二人が子供のように、手を握りあって眠っているため、さしもののホエイ=ルも起こさない事にした。
「本当に、子供みたいな顔しているものだ」
どちらも、もう、子供とは言えなくなる年齢だが。
「……それにしても、これだけ海の気配が充満してて、異土の呼び声が聞こえてこないとなれば」
鋭い感覚を持つ、只人ならざる音を聞く占い師は、呟く。
「よほどの血の流れを持たないと、出来ないわね。つよい障壁の力だわ。この子はどこの生まれなのかしら」




