13
すうと意識が浮上するのは、人の気配に過敏な己を自覚しているからだ。
いかんせんこの体は人間のそれといささか違い、そして音に特に敏感なのだ。
それはまるで音に過敏な魚のそれに似ている。
己は海の魚の血でも混じっているようだ、と彼は心の中で笑った。
その後に、意識が浮上したという事は、意識が沈んでいたのだな、と思い至る。
瞬いた眼の中に入ってきたのは、己の隣に座り、己の頭に手を乗せたまま舟をこぐ少女の姿だった。
その姿を見ると心が膨れ上がる、人間という生き物らしい部分が顔を出すのは気のせい、だろうか。
彼はそれを幸せな気持ちだ、と知っていた。
膨れ上がる、人間らしい感情。己の子孫を残す、そのために生きる他の獣とやや違う、色々なしがらみがある面倒くさい、そんな二足歩行の猿の思考だ。
彼は食べるために猿をさばいた事があり、その猿の中身がとても人間と似た形だという事から、人間は二息歩行の面倒くさい感情を大きく持っている猿なのだな、と勝手に思っていた。
己もそれの一種なのだと思っていた。
猿でいいではないか、何より器用だ。弱肉強食の世界と言っていいこの世の中で、弱いものほど出生率が高い。強いものほど子孫を残すのが難しい。
猿は弱者に位置している部分があり、何より雑食だ。何でも食べるから生き残れる。
彼はそんな自分の種族を気に入っていた。
しかし猿として生きるには若干、ヒトと呼ばれる物に馴染み過ぎていたので、体毛のない体で丸裸、というのは苦手だったが。
「あー」
ぼやけた声が船室に小さく響く。
「かわいいなあ、ほんと」
ふわりとしたまろやかな頬といい、彼が好きなお宝と同じ白銀の色を持つ髪の毛と言い。
大人し気なその割に大きく開く、口は血の気が薄い桜色で。
眼だって、開けば本当にほかの人間にとられたくないようなお宝と同じ色なのだ。
「ほんと、かわいい。よその奴にさらわれたくねえなあ」
他所の奴がさらう、それも己の大事なお宝を。
そんな事を考えると、色々とさらわれないようにする手段を考えてしまうのは、海賊船の船長だった時代が長いからだろう。
それと同時に、自分の物だとはっきり名前を刻みたくなるような、そんな事も思う。
だが。
「刻むの、なんか違うんだよなあ」
ぼやぼやと定まらない思考が導き出す、彼女に名前を刻むのは己の何かに反する、という気持ち。
それをよくよく考えれば、簡単な答えが出て来るのだ。
「……傷なんて、つけたくねえんだなあ」
己の手で、彼女が痛いと思う事をしたくないのだ。
「でもおれ、頭わるいもんなぁ」
彼を知る人間が聞けば、どこが頭が悪いのだ、この悪知恵の働く悪い男が、と言いかねない事を彼は独り言として漏らす。
「頭わるいから、ほかに方法思いつかねえなあ……いっそ聞くか」
彼の中で方向性が定まったらしい。
彼は瞳を閉ざす。でたらめに色彩が乱舞する、虹の瞳が瞼に隠れた。
その後にふいに、あたりに満ちた気配は、光のさす浅い海底の、明るい沈黙と水の気配だった。
静寂でありながら、何かがそこにいる、そんな気配は人間のそれとはいいがたかった。
しかしその気配は船室に満ち溢れ、彼が目を覚ますまで残り続けた。
「ディアマンテ。おれの金剛石、起きろよ」
呼びかけで、眠っていたのだと気付いて慌てれば、彼女はハンモックから転がり落ちてしまった。
慣れない場所に座って、そのまま眠ってしまえばそうなるだろう。
尻もちで涙を浮かべた彼女は、覗き込んできた赤色の青年に言われる。
「どうしたんだよ、そんなびっくりしてて」
「体重が」
重くて落ちてしまった。
恥ずかしいと思いながらも、途中まで言ってしまった自分を悔やむ、そんな彼女にオルカは言った。
「そろそろ、スカータハにつくから、呼ばれたんだよ。だから起こしたんだけど、もっと寝てたかったか?」
ずびずびと鼻をすすっているオルカは、何処か焦点のずれた瞳で問いかけてくる。
「あなた、またお酒を飲んだのかしら」
「ん、船の上何て真水が飲めるわけじゃねえし。真水はすぐに腐るから、基本酒だぜ」
「道理でお酒の匂いがこびりついているのね」
「しょうがねえだろ、液体はそれか油だ」
「でも、酒精の低い物のはずでしょう? 昨日そう言われたわ、でもあなたすごくお酒の匂いがするの」
「もともと染みついてるから、余計に臭うんだって」
からからと言った彼は、彼女の手を引く。
「これから、おれの故郷が見えてくるんだ、門構えから見せてやりたくて」
「門構え?」
「そうそう。スカータハは門が立派なんだ。ま、どこの六島も船が出入りする門はえらい立派だけどな」
おどけた調子の男の、それでいてとても誇らしげな調子。
その門構えが素晴らしいのは間違いない。
「とても楽しみだわ」
笑った彼女は、自分より年上なのは間違いない青年が、無邪気な幼い子供の顔をしたのを見守っていた。
まさに度肝を抜かれる門構えだった。いきなり、海面に巨大な門が立っていたのだ。
そしてその周囲を、彼女から見れば気休めのような高さの柵が囲い、そこからが境界線だと言わんばかりの顔をしているように、思えた。
「こんな小さな柵ではすぐに、船に押し負けてしまうわ」
「これは上はこんな小さいけどな、下はでかい石で囲われてるようなもんなんだ。上だけ見て突破しようなんて思った馬鹿は、下の石の大きさを見誤って沈没するのが普通だな」
「そうなの?」
「すげえよ? いろんな色の魚が行きかって、でかい珊瑚が森みたいなの」
「珊瑚って赤いのかしら」
「それは赤珊瑚だけだ。珊瑚の中でも、赤珊瑚だけが赤い。ほかのは別の色だけど、陸に出してきれいなのは赤珊瑚位だな。ほかは色があせる」
「そうなの。わたしは赤珊瑚の玉くらいしか見た事が無いわ」
「六島のどっかで、細工物作ってたぜ。こんど見に行こうぜ」
「いいの?」
「いいのいいの。かわいい女の子にはきれいな物を見せたくなるだろ」
あっけらかんと晴れやかな顔で言う男を見て、ディアマンテは何度目かわからない否定を飲み込んだ。
それから、もう一度門に目をやる。
「なんて大きな門かしら……四角いのはどうして?」
「曲線の石を運ぶのが面倒くさいから」
「じゃあ、どうしていろんな色の石がはまっているの?」
「外に行く船を作った奴が各自、自分の家はここの街で、ここに帰ってくる祈りみたいなつもりで、自分が海の底で拾って来た綺麗な石をはめ込んでいくから」
「じゃあ……」
ディアマンテは、一番気になる事を問いかけた。
「この、門が淡い青色に光っているのはどうして?」
そうだ。
門は何故か、そろそろ夜になる薄闇の中、薄青い光を放っているのだった。
「ああそれ?」
オルカはそれが珍しいのか、と言わんばかりにこう言った。
「この辺の海底の石って、夜になると光るんだよな。ぼやっと明るいから。夜でも迷子にならねえし。でも島の周囲から遠ざかると、とたんに光らなくなるんだよな。なんでだったか……
あ、じじいが言ってたな。なんか条件が一致すると光る石があるとかないとか、それかな」
「それってとても珍しい石だわ。北の帝国と一部の山でしか産出されないという、翠光石と同じくらいに」
「おれ、それ騙された事あるわ。光るっていうから買ったら、次の日全然光らねえの。おかげで高値で売り付けてきた商人ぶちのめしたわ」
「翠光石は、光を何時間も何時間も当てて、暗闇に置かないと二度と光らなくなるのよ?」
「あ、そうなの。だったらあれ、本物だったのかもな」
船は進んでいく、そして途中で止まった。もう停泊所なのかと思えば、オルカが伸びをする。
「さて、そろそろびっくりさせちまうぜ」
楽しそうだ。
声がすごく、はしゃいでいる。
まるで子供が、飛び切りの玩具を自慢するようだ。
「なんで?」
「見ればわかるって言いたいけどな、まあ、やられてみればわかるぜ」
その顔のとてもきらきらとした事。
それから、眼の極彩色の跳ね返り方。
それらから、とてもいい事が起きるのだ、とディアマンテでもわかった。
「いいことかしら」
「とびきりだぜ!」
オルカが彼女の手を掴む。
その手は意外と力を強くしており、かすかに痛いくらいだ。
それも気にならない位、ディアマンテも外を見るのが楽しみで、彼の大股歩きに小走りで付いて行く。
オルカが自分の事を気にしないなんて、滅多にない。
違和感はすぐさま吹き飛んだ。
「わあ、すごいわ!」
町に入った途端に、彼女の目に映った光景が違和感を吹き飛ばしたのだ。
そこは海が一面、淡い青色に光るという幻想的な世界だったのだ。
建物自体も割と白い石で作られているのだろう。
その淡い青色を反射して、水面の揺らぎまで映っている。
信じられない位、見た事のない世界がそこにあった。
そこを行きかう小さな船は、橙色の明かりをともしているのだ。
それで距離でも測っているのか、船たちはまったくぶつかる事なくすれ違う。
「ここが、六島のひとつなの」
「そうさ、闇のスカータハ」
オルカがそういうと、いきなり彼女の腰を抱えた。
「一緒に飛ぶぜ、ディアマンテ!」
何を言い出すのか。
なに、と問いかける前に、文字通りオルカが飛び上がったのだ。
そして。
落ちるかと思った二人の体は落ちなかった。
オルカが、片手で通り中に張り巡らされていた鎖のような物、……とにかく彼女にはそんな物に見えた……をつかみ、考えられない位の動きでその鎖を渡り歩いているのだ。
「これはなんなの?」
「船が面倒なときの短縮道さ。鎖飛びは大体、餓鬼の頃にできれば一生できる」
「景色が飛ぶみたいだわ」
「そりゃあ、おれが飛び回ってるからさ!」
オルカはぎゃははと、下品にも聞こえる声をあげた。
その声が本当に。
「わたくし、あなたがはしゃぐ声を初めて聴いた気がするわ」
「そーか!」
彼の心底生き生きとした声を聞いていたその時だ。
「あ。滑った」
オルカがけろっとした声でいい、二人そろって乗っていた一本の鎖から落下した。
まあ、ディアマンテは彼に抱えられているので、実質オルカが足を滑らせれば彼女も自動的に落ちるのだが。
「うーわ、初日から落ちるとか、みっともねー」
たちまち海面が近くなるというのにオルカは、冷静だ。
彼はそのまま、ディアマンテをかばうように抱えて、頭から海面に突っ込んだ。
「誰かおちるぞー」
「誰だ、こんな夜中にはしゃいでおちるばか」
「餓鬼はもうおねんねしている時間だろ、該当者いたっけ?」
船の乗組員や、町の人間がのんきに言いあっている。
そうか、落ちるのは普通の事なのか、と何とか浮き上がったディアマンテでもわかった。
「お嬢ちゃん、六島の女の子じゃないな、誰かが一緒に飛んでくれてたんだろ」
「え、ええ」
船の上の男が引き上げてくれたので、彼女は頷いた。
「オルカが」
「え、あいつ落ちたの!」
オルカは町の誰にでも知られているのか。
そんな事を思う位、人々の反応が早かった。
「でも、オルカだろ」
「落ちたって死なないだろ」
「あの頑丈だし?」
「でも、オルカの割に浮いてこないわ」
一人の女性が言い出し、男が数人黙ったのち、水路を見る。
「確かに、普通そろそろあがってくるもんなんだが」
「おーい、あれを救助できる奴いたっけ、ここに」
「オルカがおぼれているの?」
とても嫌な予感がして、ディアマンテは問いかけた。
すると。
「あれが溺れるんだったら、鮫がおぼれた方がまだ信憑性がある」
心底大真面目に、女性が言い切った。
それでもディアマンテは、早く上がってきてほしいと海面を見る。
いくら待てどもオルカは上がってこない。
「オルカ? オルカ、オルカ!」
それが本当に、彼がおぼれて苦しんでいるのではないか、と思う事につながった。
「おいおい……」
「三回連続で名前呼んじゃうのか……」
「オルカがガチになったらどうする……」
彼女の慌てっぷりも、オルカをよく知る人間から見れば戦く事だったらしい。
「お嬢ちゃん、大丈夫、オルカは上がって……」
一人の男性が彼女を落ち着かせよう、と背中に声をかけた時だ。
ばしゃり、と水面が動いた。
それはまるで、大きな魚が尾びれを動かしたような音だ。
「……」
海面から顔を出したのは、オルカだった。
でも。
「オルカ、あなた、顔に鱗なんて生えていた……?」
ディアマンテが問いかけてしまうほど、オルカは普通ではなかった。
彼の皮膚の至る所に、鱗が浮き上がっていたのだ。
そして耳のあたりも、まるでひれのような形に変貌している。
ちらりと見えた首には、まるで背びれのような物が浮かんでいないか?
驚く事が立て続けに起きていて、声がだんだん出なくなった彼女に、オルカらしき男が笑う。
「だあいじょうぶだって、ディアマンテ。ちょっとしくじっただけだって。お前に怪我はないか?」
「ええ、あなたが庇ってくれたから」
「それはよかった」
オルカがほほえむ。そうすると歯が見えるのだが、その歯はまるで鮫のそれなのだ。
「……あなたはでんせつの、にんぎょなの」
ぽろりとこぼした彼女の疑問をオルカは爆笑で答えた。
「いや、人間と人間じゃないものの混ざった感じだな、意外とこの姿も重宝するんだぜ」
でも、とオルカは続けた。
「さっきからふらふらしてしょうがねえ……」
そのまま目が閉じ、ずぶずぶと沈んでいきかけるオルカ。
ディアマンテは慌てて手を伸ばし、彼の背中を掴んだ。
そして、何とか自分が落ちないようにがんばっていると、見かねた町の人間が、オルカも船に引き上げてくれた。
「おいおい、オルカがこんな所でぶっ倒れるとか、あした雪か、雪」
どこまで行っても、真剣みのない言葉たちが、オルカがどう思われているかを示していた。




