12
「なんか鼻水が出るんだよな。そして頭が痛い、飲み過ぎたぜ」
結局酒場で一夜が過ぎた結果、オルカが鼻をすすって頭を押さえて、二日酔いに効果があるという薬湯を飲んでいた。
「あなたはお酒を飲み過ぎるからいけないのだわ。お酒も楽しいうちだけでいいのに」
「いや、楽しいままだったんだけどなあ。なんか途中から記憶ねえの、……もしかしてディアマンテはおれを起こしに来たんじゃなくて。まさか」
「ずっとあなたの隣にいたのだけれど」
「おい、普通放置して寝るだろ!?」
「だって」
一人で宿の部屋にいるのは苦しいのだもの。
彼女の素直な言葉にオルカは黙り、ああ、とうめいた後にキャリーが言う。
「あなたのおひいさん、あなたがそばにいてあげなきゃいけないのよ。まだ外側で飛ぶには足りないのよ、色々な心の栄養が」
「だよな、今これ聞いて真面目にそう思ったわ」
オルカはぼそっと、よく分からない事を言うキャリーに返答した。
「さあて、ダミアンの船はどこの船着き場にあったかな」
「北の船着き場よ、六島に行く定期便があった場所、でも今はがらがらだからすぐに分かるわ」
「ありがとさん」
船着き場までオルカはずっと、鼻をずるずるとすすっていた。どう考えても風邪の症状だが、あいにく風邪などひかないように教育されていたディアマンテは、それが風邪だとわからなかった。
そういう事はあるのだ、風邪の症状だと気が付かないというあれは。
そしてオルカもオルカで、自分は二日酔いだと思っているので頭痛がひどくても気にならないという複雑さである。
大変なツッコミどころのある二人だが、どちらもそれでいまだに問題がないのが逆に、問題である。
「ねえオルカ」
「なんだいおひいさん」
「おひいさんじゃないわ」
「いやー。キャリーがおひいさんって言った時、天啓が下りてきたみたいにこれだ、これが一番ふさわしい呼び名だと思ったんだが」
「おひいさんじゃあ、わたくしがお姫様みたいだわ」
「似たようなもんだろ。おれの特別なんだから」
もう一回盛大に鼻をすすったオルカが、くしゃみを一つしてあー、と間の抜けた声を漏らした。
「なあんか調子が変だな。一遍寝りゃ治るか」
いいや風邪はそう簡単に治るものでもないと突っ込める人間は、二人の知り合いには今はいなかった。
喋りながらのんびりと歩いて行けばなるほど、ちゃんと船着き場には船がとめてあった。
そこは何日も前から船が置かれていたのだろうか。
ディアマンテには見当がつかなかったが、オルカはおいおいと呟いていた。
「本当か、確かに六島に行く船はどれも動いていないらしいな」
「わかるのかしら」
「いろいろ貨物を見ればわかるもんだぜ。船乗りは目がいいんだ」
それは一般的な目の良さとは違うだろう。
「オルカは人一倍目がいいのだと思うわ」
言い切った彼女はそれから、相手の鮮やかに色が混ざる瞳を見た。
「だってオルカは、人とは違ったものがあるのだも」
それは一歩前違えば孤独だろうに、オルカはくすぐったそうな顔になった。
「まあな。おれは人と違う物が見えているし、人と違う物が聞こえるし、人と違う物を喋るぜ。でもそれは本当に少しだけ、一般的じゃない生き方をしたからってだけで」
「そうなの?」
「まあな。おれにも色々あるんだぜ」
「あるのはわかるのだけれど。オルカは不思議な人なのね」
彼女の本当にそう思っている声を聞いて、オルカはからからと笑った。
「いいな、ディアマンテは本当にいい奴だ。人間も捨てたもんじゃないって思うのは、人生で二度目になるな」
そのどこか厭世的な言葉と、オルカの陽気な具合はとても一致しなかった。
そこでオルカはくしゃみを一つした後、鼻をすすって袖でぬぐい、それから目をこすった。
「おかしい。机に突っ伏して寝たからって、おれは節々が痛まないんだけどな」
風邪である。どう考えても風邪である。
そうやって第三者が突っ込みそうな言葉と具合だが、残念ながらディアマンテは見逃してしまっていた。
いいや、知らないのだから見えていない事でもあった。
彼女の家で風邪を引いた人は、ほかの人に移らない様に寝室でひっそりと体を休めたのだから。
「あれがダミアンさんの船だというの、大きな船ね」
「ダミアンの船は定期便だからな、いろいろ貨物だって乗せるし、人間だって乗せる。儲かってたはずなんだよな。今どうしてんだか」
言ったオルカは目を瞬かせた後に、いとも簡単という調子で船を見ていた男性に声をかけた。
「いよう、ダミアン。湿気たツラしてんな。いったい何だってんだ」
「その声は……!? 海虎の悪ガキか!」
男性は振り返るや否や、またオルカを妙な呼び名で呼んだ。
確かにシャチは海の虎だと言われているらしいが、それでも悪ガキとはいったい。
彼がオルカの頭に手を伸ばし、ぐしゃぐしゃと撫で繰り回した後に肩を組んだあたりで、ディアマンテは一歩足を動かした。
離れていた方がいいかもしれない、と思ったのだ。
事実。
「悪ガキ、お前の船が行方不明になってからなんにも情報がないから、てっきり船の仲間とあの世の門を通って行ったんだと思ったぜ。まったく悪運の強いやつだおまえは! 軍艦の大砲に船を穴だらけにされても生き延びて、おまけに探し回るだろう軍人の目をかいくぐるなんてとてもできやしないだろう」
「おれは普通の人間よりも息が続くんだって知ってんだろ、後は相手の死角で息継ぎすればまあ、逃げ延びることだってできるぜ」
居心地が少し悪い、というよりも悪事をばらされているいたたまれなさがあるのだろうか。
オルカが少し目を横に揺らしたのちに答える。
それとも。
彼の中では船の仲間とともに、死ぬ己も想定できたのだろうか。
いいや、それ以上に。
ディアマンテは問いかけたくなり、声をかけた。
「オルカ、あなたは船が沈んだのに生き残れた人なのかしら」
その呼びかけで、男性が彼女に気が付く。
そして目を丸くしてからこう言った。
「おや、悪戯小僧の連れか? これは六島の才媛たちと並ぶような雰囲気のあるお嬢さんだ。オルカが連れているのもおかしい話じゃないな。悪ガキ、紹介してくれ」
「おう、ディアマンテっていうんだ、金剛石何て名前は素敵だろ? それと同じだけ強くも美しくもなれるっていう名前だ」
「こんにちは、ディアマンテ。悪ガキ、疑問に答えてやれ」
「ダミアンあんたは、いつもおれをまともに名前で呼ばねえんだよな、そこらへんももう慣れちまったけど。……そうさ、ディアマンテ。おれはおれの持っていた船が沈んだのに生きながらえちまった、悪運の強い奴なのさ」
「いいえ、とても運がいいのだと思うわ」
「それは沈んだ詳細を知らないからだろ」
「あなたが話すべきではないと思っている事を、わざわざ聞く理由が分からないわ。あなたが話すべきだと思ったら何時か、きっと話してくれるのだもの」
それは無条件の信用なのかそれとも、怠惰なのか。
判断に迷うのだが、オルカは目を瞬かせた。
「へえ、境界線を見極めるのが上手なわけか」
ひとりごちるように言ったオルカが男性ダミアンを見て言う。
「おれを水先案内人に、六島に向かってくれんだろ、まあ二日くらいでいけるんじゃねえの、いつも通りのかんじで」
「そのいつも通りの感じ、で潮が流れていないから困るんだ」
「おれがいるから大丈夫だって。信じてくれよダミアン」
茶目っ気なのかそれとも別件なのか、オルカの言葉は自信に満ちていた。
自信なのかそれとも、必然だと思っている傲慢さなのか。
やはりそれも、ディアマンテにはわからない物だった。
「積み荷が溜まってんな、一年分こえてないか」
船の貨物室を見たいといいだしたオルカの後に続くと、荷物があふれかえっている部屋をいくつも見る事になった。それに対しての、オルカの言葉だった。
その言葉を聞いて肩をすくめるのが、ダミアンだ。
「向こうに物々交換で渡したい人間はいくらでもいるからな、それに六島を離れた住人が家族を思ってこういう物も送って来るのさ、しかしどれも定期便を動かせないからどうにもならない」
「ふうん」
オルカはわかっているのかわかっていないのか、それとも興味がないのか、おそらく後者だろう言葉を唇から漏らした。
六島に向かえない恐れなど、彼にはどこにもないのだろう。
「すごい箱の山なのね」
ディアマンテも思わずそう言ってしまうほど、そこは荷物の山だった。とにもかくにも荷物なのだ。
本来客室だろう部屋も、かなり荷物で埋まっている。
これらすべてが、溜まった物なのかと思うと、もしかしたらこれでは済まないかもしれないと思う部分もあった。
「そうさ、金剛石のお嬢さん。六島の家族を思う心は荷物では収まりきらないんだ」
「それに、六島という所に行きたい人はとても多いのね」
「わかるのか?」
「名簿が名前でびっしり埋まっていたもの」
「よく見ているお嬢さんだ。そう、六島は珍しい島だという事と同時に、また訪れたくなる島々でもあるのさ」
家族に会いたい人間も多くてな、と落ち込んだ顔になるダミアンだったが。
「悪ガキ、必要な物はあるのか?」
「必要っていうか、まあ船乗りたちが、おれが何を言っても指示を聞いてくれるって保証があればそれで十分だぜ」
「この青二才の顔をなあ」
「いくら若くても、おれが一番詳しいのはわかってんだろ、何しろ六島を目指すんだから」
「まあ、言っておこう」
ダミアンは請け負うが、期待は出来ないとディアマンテは内心で考えていた。
年若いオルカの言う事を、何でも聞ける熟練者はいないだろう、と。
「まあ、さっさと出航しようぜ、ディアマンテはおれの近くにいてくれよ、頼むから。目を離した瞬間にどこかに行かれる不安はない方がいいんだ」
言ったオルカは首を回した。
「しっかし、どんだけ変な寝方をしたんだおれは? 関節が痛くてしょうがない」
「卓に頭を乗せてすうすう眠っていたわ」
いびきの一つもしないので、呼吸しているのか不思議になるくらいに。
「ここから潮の流れが変わるようなんだ」
船は色々と問題がありながらも出航した。
何しろ六島に行くというだけで、物見高い人間が出航を見に来るのだ。
そして土壇場になって船に乗るのだともめる人間も多く、定員を超えるため何人もを断った。
その際に飛び交った罵詈雑言は、なかなか衝撃的な物がある。
人間の語彙力を試し、なおかつ相手に突き刺さるようにするというのはすごいとディアマンテは何度も思う。
だって言葉だけで、心臓に突き刺さるようにするのだから。
ただの刃物よりも、ずっと痛いだろう。記憶に残るものはなおさら。
そんな事を思いながら、ディアマンテはする事もなくオルカの後ろをくっついて歩いていたのだ。
船の進みは順調で、一日目は問題なかった。拍子抜けするほどの問題のなさだった。
オルカも怪訝な顔をするくらいには。
だが二日目の昼あたりに、船は一度止まったのである。
「ここから潮の流れが変わりすぎていて、思うように勧めないんだ。帆が壊れる」
「……」
オルカは地図の海流を眺めた後に、海をじっと見つめた。
そして呟いた。
「海流の守護が変に働いてんな、これ。ダミアン船止めたままでいてくれ、ちょっと潜る」
「は? 潜るなんてお前は?! 正気の沙汰じゃないぞ、これだけ海流の激しい場所で!?」
「潜らないとわからない。いや……」
オルカは視線を海に向けたままこう告げた。
「おれの後に船を動かしてくれよ」
「は?」
ダミアンが何度も聞き返す。
「ほら、目印の魚の上を飛ぶようにできている道具が合っただろ、それを追いかけて群れを探すやつ。あれをおれにつけてくれ。それでおれの後を進んでほしい」
「馬鹿言うな! できるか! いくら泳ぐのが早いからって船の速度を舐めるな!」
「できねえっていうなら、ちょっと待ってくれ」
オルカは言うや否や、甲板の一番前まで歩き始める。
それもとても変わった歩き方をして。
足を交互に動かすのではなく、何かの遊びのように同じ足を出したり、次の足を後ろにやったりというものだ。
しかしオルカは真剣な顔をしていて、遊びとは思えない。
その歩みを止めたオルカの呟く声が、一番近くにいたディアマンテには聞こえていた。
「なるほど、守りがなくなればあるがままになるわけか」
すっと伏せがちにしていた目を持ち上げたその時、その目に信じられないほどの覇王の風格が宿った事に、彼女は驚きを隠せなかった。
「おる……」
「船を一時の方向に動かして三分、それから五時の方向に動かしてくれ」
「おい、それだと戻る経路だぞ」
「やれ。六島に行きたいならやれ」
オルカはそれまで、ある程度相手に命令をしていない言葉を使っていたというのに、その声は間違いなく命令だったのだ。
頷いてしまうほどの。
「五時に動かしたら海流に乗れる。六島に行く海流が変な方角に一度ずれてんだ。それもこの調子だと定期的に変わってやがる」
オルカは海面を睨みながら言う。彼の言葉に従った船乗りたちは、本当に戻ろうとする船を感じ、やはり六島に行けないのだ、という顔をしていたが。
その時だったのだ。
いきなり、がくりと船が揺れたと思えば、抵抗の余地などどこにもないというようにぐいぐいと船は進み始めたのだ。
「きゃあ!」
その勢いに勝てなかったディアマンテは転がり、オルカが腰を掴んで受け止める。
「しっかりおれに捕まっていてくれ、ディアマンテ。おれを離すな」
「ええ」
船がまるで、何者かに引っ張られているかのように進む。
それも信じられない速さだ。
「六島に行くときと同じ感じだ……」
ディアマンテは、何とか船にしがみつく船乗りがそういう声を、確かに聴いた。
「おい海虎の悪ガキ、一体何をしたんだ!?」
そう言ったのは誰だったのか。ディアマンテには見当もつかなかったのだが、オルカは不敵に笑うのだ。
「なんにもしてねえよ。ただちゃんと。この目玉で潮の流れを読み取った、それだけさ!」
その声の高らかな調子を聞くとそれだけの事しか、していないように聞こえてくるものだ。
だがそれがどれだけ大変な事なのか、全く知らない素人の彼女と、海の事を多少知っている男たちとでは、思う事が違ったらしい。
「俺たちがどれだけやろうとしてもできなかったってのにか? 俺たちは熟練の船乗りだぞ!」
一人の船員が言い、それに同調する男たちも多い。
彼等はおそらく、オルカの行った事、つまり変容しすぎた潮の流れを読み取る事、それが出来なかったのだろう。
彼等の年齢の方が、オルカよりもずっと上の様なのだから、オルカよりも船に乗っている期間は長いのかもしれない。
そのため、彼等のプライドのような物を刺激したともいえるだろう。
こんな若造が、自分たちの出来ない事をした。
それだけの事を、認められない年上の人間は一定数いるのだ。
その結果、出る杭は打たれる場合も多い。
しかし男たちの剣呑な雰囲気も、オルカには大した事にならなかったらしい。
少し怖くなり、オルカの赤い外套の袖をつかんだ娘の腰を少し抱き寄せ、その後言う。
「だから六島の人間の中でも、とりわけおれみたいな、占い師ひしめくスカータハの出の奴は、無駄に出来んだっての。あんたら信じてなかったのかよ」
オルカが涙目でぼやく。その後欠伸をして鼻をすすり、言う。
「ここからはたぶん、あんたらでも六島のどれかにはたどり着けると思うぜ、だって見えてんだ」
「……たしかに」
「見えているの? わたくしには島なんて見えないわ」
同意したダミアンの後に、思わず問いかければオルカが海面を指さした。
「そこが流れになってんの、わかるか?」
「どういう流れになっているの」
オルカが指さすものはただの海面にしか見えない。
しかし彼や、海の人間にはわかるものがあるのだろう。肩をすくめたオルカが続けた。
「ここからこう、水の動くのが見えてるか?」
「言われてみればそんな風にも見えるわ」
「それが海流とか潮の流れとか言われてるような奴なんだ。船を動かす時には、よっぽど自力で動ける怪物船じゃなけりゃ、この流れを読んで帆を動かす」
「それで?」
「で、この流れをどう動けば、どこに行くか。そこそこ経験を積んでれば多少、見えてくるものがあるんだよ」
「あなたはわかるんでしょう」
「そりゃ、どこの流れにどう行けば、六島のどの島に行って、どう進めば一番近いのかも、楽なのかもわかるぜ」
「そこまでは教えないの」
「だってここにいるのは熟練様ばかりなんだろ」
オルカがにししと笑った。その言葉を聞いた男たちが、いたたまれないという顔をした事も気にしないらしい。
ずいぶんと人の機嫌を気にしない男である。
気配りをしなくていい環境にいたのか、それとも機嫌を気にしなくとも問題のない場所、例えば彼が頂点であり、全てが彼に従う場所に生きていたのか。
どれなのかわからないが、ディアマンテはそんな事を微かに思った。
「だったらおれがもう、色々指示しなくったって目的の場所につけるんだろうよ」
「でもオルカ、あなたはあなたがいれば六島に必ず到着できるのだと、キャリーさんに言っていたわ」
「おうとも」
「だったら最後まで案内しなくていいの?」
「だってもう、彼等は道が分かってるはずなんだぜ、ディアマンテは道を知っている人間をわざわざ、道案内するのか?」
「した事が無いから、分からないけれど、きっといらない親切だと思われるわ」
「そゆこと」
つまり、彼等が乗れなかった潮に乗り、彼等が読める海の流れまで案内する事、それでオルカの言った事は終わると彼は言っているのだ。
それでいいのかしら、と思いながらも、海の事などまるで分らない彼女は、特に何かを言う事をしなかった。
「おれの仕事終わり! 昼寝してたって目的地に着くぜ」
言った彼が歩き始める。その歩き方は、先ほど彼女が見た不可解な歩き方ではなく、足を交互に動かす普通の物だった。
「ダミアン、スカータハに着いたら起こしてくれよ」
相手の方を見やりもしないで言った彼に対する、返事はなかった。
「返事がないわ」
「でも起こしてくれるぜ」
オルカはそういうと、二人で一部屋という事で借りたハンモックに寝転がった。
そのまま外套を自分の上にかけて、寝息を立てはじめたのだ。
「疲れているのかしら」
その顔色が、どことなく優れていない気がしたため、ディアマンテは彼にもう一枚、自分の分の布をかぶせておいた。
そのまま、少しうとうととしていたらしい。自分が机の前の椅子にすわり、こくりこくりと船をこいでいる事に気付いた彼女は、船が止まっている事に気付いた。
船が揺れていなければ止まっているのだ。それ位はわかる。
「もう着いたのかしら」
それならばオルカに声がかけられただろうか。ハンモックの方を見れば、丸い恰好で熟睡している男が目に入る。
「まだ到着していないのに、船が止まっているのかしら」
そんな疑問を口にしつつ、彼女は立ち上がって窓をみる。採光のための小さな窓ガラスが付いたそこを見れば、何処かの港なのは間違いなかった。
「ねえオルカ。どこかの港についているわ」
ディアマンテは布の塊に声をかけた。のそのそと動いた塊から、極彩色の蕩けた目が出て来る。
「大丈夫だろ、ここはスカータハじゃねえから……みんな起こしてくれなかっただけだろ……」
「あなたは眠っていても、どこに到着するのかわかるの?」
「そりゃあな……あの海の流れの形を見れば、大体六島のどれに到着するのかなんて、わかるだろ……」
寝ぼけている。だが娘からすれば驚くしかない事を、彼は平気で口にしていた。
「あなたが間違う事はあるの?」
「そりゃ、人生は間違いだらけってのが当たり前だろ。おれだって流れを読み違う事はあるけどな……六島あたりの流れは、歩いたか歩いていないかから乗ってんだ。揺られてりゃ分かる……」
オルカはそう言ってハンモックの布の中に、顔をうずめた。
「なんでこんな、ねむい……」
「疲れたのかしら?」
「かもな……海の水を浴びない航海なんて何年振りかわからねえからな……おれもしかしたら、海水浴びてた方が調子いいかも……」
言った彼は本当に眠たそうで、ディアマンテはハンモックの空いている場所に腰を下ろした。
彼女の体重もかかったからか、少しハンモックが揺れるも、気にならない。
「眠いのかしら?」
「おー……、でもなんか、ちゃんと眠れねえんだな……気ぃ、はってんのか、おれ……」
「だったら」
ディアマンテは遠慮がちに、その頭を撫でてみた。意外なくらいに指どおりのよい髪は癖があり、柔らかい。
「頭を撫でているわ。わたくしの母様が、まだ生きていた頃、よく眠い時に頭を撫でていてくれたの。その時とても、安心したから」
「……あー。わかる。ばばあとかおやじとか思い出すわな……」
声が本当にふにゃふにゃと揺れ、オルカの瞳がぱたんと閉じる。その後深い眠りに入ったのだろう。
ピクリとも動かなくなったのだから。
「あなたは、ご両親に愛されていたのね」
遠い記憶の中の、自分がそうであったように。頭を撫でていてもらったのだろうか。
問いかける気持ちもあったが、詮索はよくないと彼女は分かっていた。
彼は自分の事を聞かない。
それがどれだけありがたい事だろう。
自分の罪深い所や、語りたくない事、隠しておきたい事をオルカは見つけたりしない。
見たとしても、見ないふりをしてくれる。
それが怠慢なのか、どうでもいいという無関心なのか。
どれだろうと思っても、どれでもない別のものかもしれない、と最近は思うのだ。
きっとオルカは、自分にも語らない事があるのだから、ディアマンテの事を聞いて嫌な気持ちにさせるなんて事をしないのだ。
オルカはそういう部分がある。自分がやられたらいやな事は、しない。
それがどれだけ、すごい事なのか、たぶん彼自身はわかっていないけれども。
「すきよ、オルカ」
ディアマンテはとても小さく、彼に呟いた。彼が眠っているからこそ、こんな事が言えた。
起きていたら恥ずかしくて、とても言えやしない言葉だった。




