閑話 悪夢はまえふりもなく訪れる。
息がつまるほどの恐怖が体を襲う。
それが本当に息を止めているような気がして来るくらいで、王子はあえぎながら目を覚ました。
ひゅうひゅうとかすれる自身の呼吸で、やっと、きちんと息が出来ている事を理解する。
「なんてひどい夢だ」
王子は何度も深く呼吸を重ねながら、荒い息で夢の中身を思い出す。
誰かが嘲弄する声が聞こえてくるのだ。
響いてくるのだ。
だれだ、と誰何しても、周りは真っ暗闇のような、赤色だけが不気味に、陰惨に発光する世界。
そこで、けたけたけた……けらけらけら……と己を嘲笑う声がよく響く。
そしてそれら相手に不愉快が頂点に達し、王子が激情のまま怒鳴り散らすと、そこでは、真っ青な顔をした、いとしいいとしい恋人が座り込んでいる。
彼女は目に涙をたたえ、王子の発した怒鳴り声に身をすくませている。
違うんだ、君じゃない。君に言ったんじゃない、いとしいひと。
彼が必死に言葉を重ねて、彼女を慰めようとしても、彼女はふるふると小柄な体を震わせて、まるで王子の言葉など聞えないようなのだ。
そして涙がぽろりと落ちて、悪夢が一層悪夢に変貌する。
王子の発した罵声と同じ文字が、嫌に気味の悪い赤色で、彼女の真っ白なドレスに浮かび上がっていくのだ。
なんなんだ、と思う間もなく、彼女の……純白の花嫁衣裳が、こんな風な物が着たい、と可愛らしく微笑んだ彼女が望んだ、美しい真っ白な花嫁衣裳が、王子の罵声と同じ文字で、赤く染まっていく。
待ってくれ、君に言ったんじゃない、君じゃない、君じゃない、君じゃない!!!!!
王子が彼女を抱きしめようとしても、体は動かず、彼女のドレスに、赤色が染みわたっていく。
彼女の顔色はどんどん蒼褪めていき、血の気が無くなっていって、ついに。
彼女の体がくたりとくずれおちて、かくん、と何の力もなくなったように倒れ込む頭と、死んだ魚のように濁った瞳と。
そこで王子の体は自由になり、彼女を抱きしめて、名前を呼んで、呼んで、呼んで……
びしゃり、と言う音と、何かがはじけたような音と同時に、彼女の体がはじけて、いいや、彼女の体がまったくなくなって、辺りにはじけた柘榴が転がる。
はっと何者かの気配を感じて顔をあげると、縦じまの枕に似た何者かが、彼女の首を抱えている。
よどんだよどんだ、命のない瞳の、彼女の、首。
彼は頭を振って、隣の寝室に眠る恋人の様子を見に行こうとした。
まだ婚姻前だから、寝室は同じではないのだ。
部屋自体も同じものではないし、そういった王室の作法はきちんとしなければ、彼女に瑕がついてしまうから、きっちりと線引きしてある。
隣の部屋の前では、おろおろとしている年若い侍女がいる。
彼女に危害を加える誰かがいないように、配置された侍女の一人だ。戦闘能力もとても高いはずなのだが、今はおろおろと何もできない。
「どうした」
「殿下の君が、悲鳴を上げて、入ろうとしても開ける許可を戴けないのです」
「なんだと!」
王子はそう言うや否や、扉を開けて中に入る。
寝台の中、がたがた震えて、周りの侍女たちを近寄らせない彼女は、怯えきっていた。
「大丈夫か!」
そのか細い体を抱きしめて、泣きじゃくる背中を何度も撫でてなでて、やっと彼女はなきやみ、言った。
「殿下が血の海の中で、わたくしを罵倒するのです、目障りだ、耳障りだと……!!」
王子はその言葉で、胃の腑の中に氷を大量に突っ込まれたような気分になった。
その晩、王子とその恋人は、一睡もする事は出来なかった。
それが、長く続く悪夢の始まりだった。




