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そこからは二人で掃除をしたのだが、オルカの手際の良さと比べるとまた、彼女の手際の悪さが目立つようだった。

それでもオルカは順番に、一つ一つ彼女に教えていく。

「こうやって雑巾は絞るんだ。それから上から拭いていくんだぜ」

「どうして?」

「床から綺麗にしたら、上から落ちてきた汚れやほこりで最後にまた、床を綺麗にしなきゃならないだろう?」

「そうね」

ものの三十分程度で、部屋は見違えるようにきれいになった。オルカは最後に、開け放っていた窓を閉めて鍵をかけた。

「これでおわり」

「掃除をすると部屋はこんなに、印象が変わるものなのね」

「変わるも減ったくれもないだろ、汚い部屋はそれだけで変な物を呼び込むんだからな」

「あら終わったの。夕飯の支度が終わったから呼びに来たんだけれど」

「夕飯の支度が終わったって言ったって、あんたこれから煮込むんだろ何分も」

「今日はあっさり御酢で煮込むから、割合速く終わるわよ。パンも焼いたものがあるし、今日のお客さんは人数が少ないのだし」

扉を叩いて現れたキャリーがそう言い、二人の薄汚れた見た目を見てこう言った。

「あなたたちを身ぎれいにする用意をして来るわ」

「助かるぜ、お湯を運ぶの手伝うか?」

「わたしはそんなにか弱くはないわ、シャチ坊や」

そこでディアマンテはようやく、先ほど購入した衣類を着なかった理由を知ったのだった。

なるほど、身ぎれいにした後に新しい衣類を着るのは、とても気持ちがいい物だ。

それに掃除をすると汚れてしまうから、先に汚れてもいい恰好で掃除をする事にしたのだろう。

オルカの頭の良さに感心しつつ、彼女は運ばれてきたたらいとお湯の入った水差しを見て、今度はこれでどうやって体を洗うのだろうと疑問に思った。

しかしその疑問も、目の前でオルカが実践してくれたので簡単に解決した。

体を一か所ずつ洗っていくのだ。一か所を洗ってきれいにして、次の箇所、次の箇所、と部分部分で洗うやり方なのである。

これは効率がいいし、水を節約できる物だと感心してしまう。

「ねえオルカ、どうしてあの時は、湯船いっぱいにお湯を沸かしてくれたの?」

「慣れ親しんだ風呂の方が、気持ちがいいだろうと思ったからさ」

自分は手際よく全身を洗って。新しい衣類に身を包んだオルカが答える。

ディアマンテは慣れないと思いながら、これは一人で体を洗っていた。

二人とも背中を向けているので、お互いの体など見えない状態である。

つまり彼女の慎みは守られている状態だ。

もっとも、オルカ相手になると裸も見られているため、ディアマンテは恥ずかしいと感じないかもしれなかったのだが。

オルカのそんな気遣いがとてもうれしかった。

「貴族は一か所ずつ洗う方法なんてめったにやらないだろ、特に真水の豊富な都のご令嬢が。だったら気分よく、自分の知っている湯船につかる方法でほっとしてもらいたかったのさ」

「なんで?」

「ディアマンテは恩人だから」

その後オルカは、彼女がどう問いかけてもはぐらかすので、しまいに彼女は色々とあきらめた。

主に自分をどう思っているのか、というあたりではぐらかされてしまい、嫌われることを恐れたディアマンテは質問を止めたわけだ。

綺麗にした後、最後のお湯で頭を洗い、とてもすっきりとした二人は食堂へ向かった。

宿に泊まる人間の半分が使用する、その食堂は煮込みの良い香りが立ち上っている、居心地のいい空間だった。

「ねえオルカ、お話をして。あなたは六島に行けるの?」

「まあな。六島の人間が六島に行けなくてどうするのよ」

お酢で煮込んだ酸味の強い、しかしすっきりと食べられる鳥と卵の煮込みに舌鼓を打ちながらの会話だ。

「六島の人間は、六島に呼ばれるんだ。血の中に一滴、六島の女神さまの涙が流れてるからな」

「あんた、六島に行くつもりなのかい、やめておけよ、何隻もいけなくて戻ってきたんだ」

「残念、おれはそれでも行くつもりなのさ。おれで行けなかったら誰も六島にこれから行けないからな」

話しかけてきた老人の忠告めいた言葉に、オルカが笑って返した。

「もしや六島の出身か。ならばそう思うのも仕方がない。気を付けていくと言い、普段使っていた航路はいまは大型の鮫竜の縄張りとなっているからな」

「ますます好みの航路になったぜ」

「酒を飲んでいないのに酔っぱらうとは珍しい若造だな」

老人の言葉に、オルカがからからと笑って答えていた。

ディアマンテは、間に割って入る事の出来ない内容なので、何も言わなかった。

それでも不思議に思ったのだ。

オルカのこの自信はどこから来るのだろう。と。




そんな事を思いながら、酒場の空気を彼女は、不思議な空気だと感じていた。

女性の使わない煙草のにおいが充満する。見た事のない形の煙草が多いのはどうしてなのだろう。

「ねえ、オルカ」

「なんだ?」

「男の人たちが咥えている煙草は、見た事のないものだわ、あれは何? パイプじゃないのね」

「ああそうだろうよ、あれはこの町と六島でしか使わない葉巻煙草だからな」

「葉巻?」

「そ。中の草がちょっと湿気てても煙がよく出る調合なんだ。湿気た空気の場所でしかうまくないんだな、これが。だから都みたいな湿気ていない町じゃあ、煙の臭さが受け入れられなくて流行らないんだ」

「あなたも吸わないの?」

「おれは内臓に水気が多すぎて煙草がおいしくないんだな、もらったら知り合いに流す」

「喜んでくれるの?」

「調合によるな。でも燃えると薬になる草がいくつもあるのくらいは知ってるだろ? 葉巻は基本そういう調合が多いんだ。湿気ると煙がよく出る草が、そういう薬草が多いってだけだけどな」

「あなたは物知りなのね」

感心したディアマンテである。彼女は煙草と言えば、パイプでそしてなんだか、ただ臭くて煙たいだけだと思っていたのだ。そんな変な物を吸いたがる男性なんて変、とも思っていたわけである。

だがオルカはそういう物だけではないのだというのだ。

民間療法なのかもしれない。お医者様が聞いたら眉を顰める事なのかもしれない、でもそれが治療として根付いているのならば、それを自分程度が覆せるわけもない。

彼女はそんな心の中の言葉は、言わない事にした。

「おい、あんたが六島に行くって妄言はいている男かぁ?」

酒場に入ってきて、近くの商売女に耳打ちされたらしい男が、酔っぱらってろれつの回らない声で言い始めた。

その指さす方向にいるのはオルカであり、彼を明確に示していると言っていいだろう。

「ああ、妄言じゃねえよ、おれはいける、それだけさ」

「はっ、どこの航海士も六島に行けないってのに、何を言いやがるのか。詐欺師だろ。船の荷物をかっぱらう目的だろ」

「詐欺はしない主義さ、あいにくだましだまされの世界に行きすぎて、真実ばっかり話すようになっちまってさ」

不敵に笑うオルカを見て、その男は気分を害したらしい。

気に食わないと言わんばかりに、男は椅子を持ち上げて投げつけようとした。

だが。

オルカがひらりと立ち上がったと思えば、男の調子近距離まで近付いており、その手を掴んで止めていた。

その一連の動きはまったく違和感も焦りもなく、まさにこれは格の違いと言っていいだろう空気だった。

「キャリーの宿にある酒場で、乱暴なんて感心しないな、出禁になるぜ」

そこでにこり、と日向の笑顔で笑うオルカに、男の顔色が蒼白になっていた。

なにせ体格でいえばオルカより二回りはあるだろう屈強な海の男が、比べればずっと細い腕に押しとどめられているのだから。

それも全く動かせないほどに。

ぱ、と手を離したオルカが言う。

「おれは出来る。あんたは出来ない、それだけの事さ。さ、酒のんでぱーっとしようぜ」

馬鹿にされた事も、危害を加えられそうになったことも何もなかったような口ぶりで、オルカがそう言った。

その背中を見やったある船乗りらしき男の声が、彼女の耳の奥にずっと残っていた。

「いかんな、海賊長ユラ=リルそっくりだ」

その名前は知らなかったのだが、その単語は聞いた事のある物が混ざっていた。

ユラは遠い時代の言葉で、海神を意味するのだと。

海賊長が海神の名前を持つなんて不届きなのだが、彼女はオルカに似ているらしいその誰かならば、きっとその名前が似合っただろうと思ってしまったのだった。

酒を何杯か飲んだ後のオルカはそのまま、くたりと卓に突っ伏してしまったのだ。

酔いつぶれたのかしら、と慌てて見てももう遅い。オルカはぐうすかと眠り続け、どうしようもない。

「どうしましょう」

この人を宿の部屋まで運べるのかしら、と自分の力を測ってみた彼女だが、それは土台無理な話だろう。

彼女は一応がんばって、彼を抱えられるか試してみたのだ。

結果は惨敗と言ってよく、オルカをディアマンテはどうやっても卓からはがす事ができなかった。

「こんな所で眠ったら風邪をひいてしまうわ」

海風が酔った体に心地よいのだろうか。

しかし自分は寒いのだ。そしてオルカを置いて部屋に戻る選択肢もない。

「ねえオルカ、起きてちょうだい」

ディアマンテは何度も彼の体を揺さぶったのだが、彼はむにゃむにゃと口を動かしてそのままだった。

仕方がない。

ディアマンテは彼の隣に座り、起きるまで隣にいようと決意した。

たぶん、一人で宿の部屋にいても眠れないのだから。

酒場は延々とにぎやかだったのだが、ある時彼女はその酒場の隅にある物に気が付いた。

驚いたというのが正しいだろう。ピアノ何てものが、こんな酒場にあるのだから。

……ちょっとひいてみたい。

もう何日も、音楽になんて触れてこなかったのだ。いいや、触れたかもしれない。

オルカの鼻歌は音楽だった。明朗で鮮やかな、世界を変えてしまう色を持った音の連なりだったのは間違いないのだ。

それでも、使い慣れたものに触ってみたいと思うのは、死んでしまったと思う心の一部が動いたからなのか。

孤独で壊れたそこかしこが、それでもそれを弾いてみたいと思うからなのか。

彼女は立ち上がった。どうせオルカは起きないのだ。ならば自分が少しだけ自由にしたっていいじゃないだろうか。

そんな風に思える自分の心の、その動きに驚いた後、ディアマンテは立ち上がった。

埃をかぶったようなピアノが一つ。彼女は椅子の埃を手で拭ったのちに、自分の服で手をぬぐい、その前に座った。

誰も彼女がする事を気にも留めない。誰も見ていないという自由と、誰からも気にされていないというさみしさ。

二つがないまぜになったのちに、彼女はそれを弾き始めた。

幾つもある曲の中でも、特に得意だったものを。

それから。

それらを大胆に曲調を変えてみるのだ。これは家庭教師たちが眉をひそめた趣味であり、彼女の唯一自由になる時間の遊びだったともいえる。

優雅な曲が、強弱と速度で一変する。同じ曲かと思うほど、組み合わされる珍しい取り合わせ。

彼女は口を開いた。

なんだかとても気分がよくて、彼女の唇からこぼれだしたのは、言葉の連なりだった。即興歌。二度と同じものは歌えない、そんな物。

曲名は愛の唄の一つだというのに、彼女の口から語られるのはオルカから教えられた卑猥さがにじんでいる。もっとも彼女はその卑猥さも良く分かっていないだろう。

酒場で歌われ始めたそれは、あまりにもその場に相応しい、そして相応しくない舞台だったのだ。

最初は酒を飲んでいた男たちだ。彼女が教えられたとおりの物を弾いているときはどうでもよかったというのに、彼女が己の心のままに動き出した途端に、その音に心を持って行かれたのだ。

彼女は高らかに歌う。誇らしげに歌う。

そして何よりも、自由に歌うのだ。

自由という物が精霊のように彼女の指に宿り、相応しくない物がふさわしく変貌する。

最後ぽろりと終わった曲の後、彼女はああ楽しかった、と久しぶりに人間らしい顔で笑う事が出来ていた。

それを、寝ぼけ眼のオルカが見ていて、欠伸をしてから満足そうに笑い、また夢の中に落ちた事にも、気付かないほど楽しかった。


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