10
「オルカ、あなたは掃除ができるの?」
「大得意」
船の上を渡り歩きながら、オルカが得意げに唇を吊り上げて言い切る。
「そう言う物なの、それとも世の中のあなたみたいな男性は、みんな掃除が得意なのかしら」
「さあな。でもおれは実家のばばあに鍛えられたからな、かなり一般的男子とは掃除の基準が違うと思うぜ」
「どうして?」
「どうしてってな。掃除の事になると口やかましいのがぎゃんぎゃん言ってれば、勝手に加減を覚えるぜ。それに効率的な方法もな。……でも料理は専門家に負けるぜ」
「わたくしなんて料理も掃除もできないわ」
落ち込んだ声になってしまった少女に、オルカが慰めるように頭をなでる。
「大丈夫だろ。そんな物は覚え直せば。何も知らないなら何もかもを覚えるイイ契機ってやつなんだぜ」
「そうというのかしら」
「そうそう、おれのこと信じろよディアマンテ」
「あなたの事を信じるのは当たり前だわ」
彼女の言い切った声に、オルカがまた目を丸くした後に言う。
「いかん、一瞬傾き加減がおかしくなるところだった」
「?」
彼女はふくよかな頬に疑問の色を浮かべて、彼の顔を見る。
彼の表情は多彩で、ディアマンテよりずっと多いのだ。
そしてそれらのいちいちがとても、色鮮やかだとしか言いようがない。
「聞いてもいい?」
「なんなりと、答えられる事だったら何だって」
「オルカはあんなに炎を使うのがうまいのに、それでも料理はだめなの?」
「だめっていうかな。あれだあれ。いかんせんとろ火と弱火の区別がつかないから、煮込むときに間違えて味が濃くなりすぎたり薄くなりすぎたり、果ては肉の柔らかさが変わったり。これはあの料理じゃない、って突っ込まれた事多数」
「人間出来ない事も多いのね」
「多い多い。おれは出来ない事の方が断然多いぜ、基本的にな」
「わたくしもよ」
「ディアマンテはこれからいくらだって覚え直せるだろ」
「それを言うのなら、あなただってそうじゃない。わたくしと大した年齢の違いは見受けられないわ」
「一本取られちまったな!」
彼は楽しそうに笑うと、船が傾きバランスを崩したディアマンテをそっと支えた。
「さて、この町で一番手軽で味がいいのはあれだな、魚と芋の揚げ物だ」
「揚げ物?」
「火が通りやすいし、大量に作れるからこう言うところじゃ人気が高いんだ」
「おいしいのかしら」
「ディアマンテは魚の揚げ物食べた事が無いのか?」
「いつも冷めた物しか食べた事が無いわ。お料理って冷めているものでしょう?」
「……人生の半分、損してるだろうお前。冷めた味しか知らないなんてすごい損失だぜ」
「だってそういう物しか、食べた事が無いのだもの」
「だよなあ。お嬢様ってそんな物だろうよなあ」
でもちょっとくらいは食べないのだろうか、とぶつぶつ言ったオルカは問いかけてきた。
「噂によれば、ある程度の家庭教師が付くまでの貴族のご子息ってやつは使用人たちと意識が近いって聞いたんだけれど、そこはどうなんだ?」
「わたくしは醜くて太っていて、皆から嫌われていたから、意識が近いなんて思った事が無いわ。使用人たちは小さい頃から、わたくしを陰で笑っていたもの」
「なんで陰で笑ってんのに知ってんだ」
「当時友達だと思っていた令嬢が、使用人たちに遊んでもらったというから遊んでほしくて、影に入ったら聞えたの。この家のお嬢様はどうして、あんなに醜くて太っていて臭いのだろうって」
「……いい甘い匂いがすると思うんだけどな」
オルカは沈黙した後に、彼女のうなじに鼻を突っ込み、匂いを嗅いで、そんな事を不思議そうに呟いた。
邪気も悪意もなければ、他意も劣情もない動きのため、ディアマンテは反応が遅れた。
遅れた後に思わず言った。
「わたくし何日も、体を綺麗にしていないから臭いわ、オルカ、匂いを嗅がないで」
「んなこといったらおれも同列だろ」
「あなたは不思議と匂いが薄いわ」
「それはここが海だからだろ」
「?」
訳が分からない返答だと思っていれば、オルカがかみ砕いてこう言った。
「おれは海の匂いが染みついてるんだよ。だから海がちかいと海の匂いに自分のにおいが混じって、周りからすれば匂いがそんなにしないように感じる、それだけなんだ。陸の沙漠とかに行くと磯臭くて仕方がない、異質まっしぐらな匂いがするんだぜ、おれ」
「あなたは不思議な人なのね」
「男も女も、多少秘密があるとすてきなんだぜ、魅力が増すんだ」
悪戯小僧の茶目っ気の顔で、オルカが言った後に誰を見つけたのか、手を振った。
「おおい、今日はそこで店やってんのか、ナタリー!」
また女性の名前だ、今回も美しい女装の男性なのだろうか、と思っていたディアマンテは、声にこたえたように現れたのが、ふくよかでいながらとても魅力的な笑顔の女性だという事で驚いた。
オルカの交友関係はどれだけ広いのだろう、と思ったのだ。いろいろな職業の人間と面識があるなんて、彼女の知っている宮廷社会では考え付かないのだ。
宮廷社会は付き合いも制限されている、というのが一般的な物なのである。
「そこにいるうるさい赤色は、あんたシャチの小僧かしら! なんて久しぶりなの! 一年以上ここに顔を出さなかったから、とうとう黄金郷を探しに船で旅だったんだと思っていたわよ!」
「あいにく仕事仕事に爺のお使いに、ってやつで旅も減ったくれもなかったんだぜ、ナタリー。あ、ナタリーだ、ディアマンテ。こっちの美人さんはおれの連れで、ディアマンテっていうんだぜ、可愛いだろ」
女性と軽く抱き合った後に、オルカはディアマンテを示して紹介する。
こうして紹介されたために、ディアマンテはどういうお辞儀をしたらいいのかわからなかったのだが。
ナタリーがにこにこと微笑んで手を差し出してきて、彼女の宙をさまよった手を握ってふった。
「まあまあ、シャチの小僧のもろに好みの女性じゃないの。あなた嫁探しでもしていたのかしら! そうだそうだ、キャリーから聞いたかしら、ここ一年くらい六島に船がいけないって話」
「それは船を都合してもらって、おれも確認するんだよ。おれが行けないわけないからな」
「その自信がある所が頼もしいわ。わたしの亭主もあそこの染め物の材料が手に入らなくて、空色の衣類が値上がりしているのよ」
「六島の特産物だったもんなあ、群青紺の根。あれ雑草代わりに建物にこびりついてるから、きっと六島ではたまりにたまってえらい事になってるぜ」
「他国とか他の地方とかからの注文が相次いでいるのに、おろすのもできないって亭主が叫んでいたもの。これ以上値上がりなんてできないって」
「あの、群青紺の根が高くなっているのはそのせいだったの?」
彼女も知っているような事であったために、ディアマンテも会話に入ってしまった。
本当は、相手の会話に入り込んだらいけないのかもしれなかったが。
聞いてみたくなったのだ。怒られたりたしなめられたりしたら、それまでだと思う事にして。
「あなたも知っているの?」
「アシハラでは色々な仕立て屋がそう言っていたの。青色を使えないって。青色のための染料が手に入らないって。でも一年前に王女殿下が、それはそれは青いドレスを新しい形で披露したから、青色のその姿のドレスにとても人気が出てしまって、いくら高くしても追いつかないって」
「そうだったの。まさかその時にこんな事になるなんて、誰も思わなかっただろうからねえ。代替品じゃあの薄い溶けるような青色は出せないし」
ナタリーが困った顔でそういう。その後に期待したようにオルカを見た。
「あんたが行けるっていうんだったら、あんたの乗せてもらう船に、家の人も乗せてもらいましょうかしら、誰に載せてもらうの?」
「ロゼ・ダミアン」
「まあ、ロゼのところだったら亭主も乗せてもらえるわ! ロゼとはいい酒場友達だもの」
上機嫌になった彼女だったが、次に聞こえてきた声であわてて店に入る。
「ナタリーおばさん! 魚が焦げる!」
「おっといけないわ! シャチの小僧、美人さん、二人とも食べて行ってちょうだい、安くしてあげるから。何なら塩も振ってあげるわよ!」
「そうこなきゃな! ディアマンテ、揚げたての魚と芋の揚げ物だ!」
オルカはそれの美味しさをよく知っているのか、舌なめずりをせんばかりに笑って歓声を上げた。
「こんなに食べていいのかしら」
「大丈夫だろ、値段手ごろだし」
「わたくしまた太るわ」
「船に乗ってるだけで体鍛えられっから。それにディアマンテはおれが見るに、かなり小食だ」
彼女からすれば大きな魚の揚げ物に、芋の揚げ物。それに簡単に塩を振った物はとてもおいしかったのだが、揚げ物だという事でなかなか不安を覚える物だった。
「おれなんて。揚げ物揚げ物の世界でも、意外とこの腹回りだしな」
オルカは言いつつ、自分の柔らかいのか固いのか、いまいちわからない腹を叩く。
彼女が思うに、彼の筋肉は柔軟でとても動く筋肉である。おそらく彼の、びっくりするほどの大力はそこにあるのだ。
「あなたとわたくしは違うわ」
「でも食った方がいいって、これから大変だから」
「大変なの?」
「そうだぞー。掃除の手伝いしてもらうからな」
「わたくしも、手伝っていいの?」
「時間がかかっても、ちゃんと覚えたいならちゃんと教えっから」
な、とにいと笑ったオルカが、湾に幾つもつき立つ棒の上にある、鐘を見て言う。
「そろそろだ」
「なにが?」
「鐘がなるんだ、見てろ?」
いうや否や鐘が、瞬く虹色の光を振りまいてひとりでに動いた。
「どういう仕組みなの?」
「あれは中にいくつも歯車が組まれていて、ギシギシ回ってんだ。それが一定の時間になると自動的にああいう光が発動するようになっていて、鐘が鳴ると同時に光る」
「鬼術なの?」
「ちょっとした応用だな」
「でも、綺麗ね」
「暗くなるともうきれいできれいで仕方がないぜ、今晩見ような」
「ええ」
日中でもきれいなそれなので、暗くなって光がよりはっきりわかるようになれば、もっとすてきだろうと彼女は思った。
そしてこう言った。
「ありがとう」
「へ?」
彼女のお礼の言葉に、驚いた顔の彼。
「こういう物も、あなたが連れ出してくれなかったら見る事が出来なかったから」
「そんなの、おれが連れ出したかったんだからいいんだ。ディアマンテはかわいいから」
「わたくしが可愛いというのは、否定するわ、こんな醜くて太っていて脂っぽいのに」
「やーらかくてだっこしてて心が安らぐぜ、それに足に負担がない程度のぽっちゃりは気にしない方がいいんだってばばあが力説してた」
ナタリーの所の魚と芋の揚げ物を食べ終えた二人は、その足でキャリーの船に戻った。
昼を過ぎると市場は撤収するのか、船は次々と動き出している。
「ああ、遅いとは言えないけれど、この時間に乗り遅れたら大変だと思っていたのよ」
キャリーが迎えてくれて、オルカが当たり前の顔で錨を上げ、船を動かし始めた。
それをぼんやりと眺めていると、キャリーが言った。
「あなたもオルカを手伝ってちょうだい」
「どうして?」
「どうしてって……どうして手伝わないと思ったの?」
ディアマンテの言葉に、キャリーが目を丸くした。しかしそれを見ながらの彼女の言葉に、躊躇はなかったのだ。
「足手まといだわ、逆に」
「そう。でもオルカ一人じゃ色々手が回らないわ。私も動くしあなたも動くの、ほら」
そういう物なのか。今までオルカが助けてくれていたので、思い至らなかったディアマンテは深窓の令嬢で間違いない。
「では、何をすればいいのかしら、教えてくださいますか」
「外に出ている衣類を中にしまってほしいわ。私もお手本を見せるから」
「はい」
何で自分が、とひねくれるには、彼女は少し令嬢としてはおかしくなっていた。
一か月の塔での孤独な生活の結果だろう。
彼女の傲慢な部分は、そこでの孤独により崩壊してしまったわけだ。一人で生きていて傲慢も減ったくれもあるわけがないのだから。
船の衣類をきちんとたたんでしまう。何か物をたたんだ事すらなかったのでそれは新鮮であり、大量の衣類をきちんと手早くしまうのは技術が必要だ。
それをキャリーがいとも簡単に行うのに、自分はつたない動き過ぎて。
初めてだから仕方がないと頑張って心の中に言い訳をし、ディアマンテはそれらを手伝った。船が到着したのは夕方ごろであり、その頃になるとどの船もとっくに帰宅している状態になっているらしい。
幾つもの船が家の扉の前で泊まっている。
その光景を物珍しい物だとみていると、彼女はさっそく手を引かれ、一つの部屋に案内された。
これはオルカが手を引き、キャリーが案内したわけである。
案内された部屋は見事に散らかっており、どことなく薄暗くて汚い。
「ここを綺麗にして使ってちょうだい」
「しかし汚いなあ、どんな客をここに入れてたんだっての」
見るや否やのオルカの言葉は、正しい。
キャリーが肩をすくめた。
「とっても高いお金を払って、ここに掃除しに来ないでほしいと言った人がいたのよ。その人が帰ったらもう、こんな有様なわけ。時間もないし部屋が一つだけ使えないだけだし、放っておくしかなかったのよ。私には怪しげないかにもな術の抵抗手段なんて物、ないんだから」
「確かにいくつか変な術の残滓を感じるけどな、正体はおれだってわからないぜ」
言ったオルカは続けてこう言った。
「でも、大した術はかかってないだろうよ」