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悠久の昔から、人々の口端に乗る不思議な病が存在する。
あまりにも稀少で、医学会では認知すらされていないその病の名は、『まぼろし病』。
この国の者にしか罹らないその病は、昔々、まだ八百万の神達に名前もなかった頃、神が確かに人に触れた証なのだと信じる者もいるという。
「人が人でないものと親しく交流していた時代、神々は時に触れるほど近くにいたと言われています。彼らが触れたところにはこの世の理屈では通らない、不可思議な現象が現れました。奇妙な病はその名残だという解釈です。神さまが触れたという意味を語源にして、地域によってはこれを『さわり』と呼んでありがたがるところもあるそうです」
川の流れを見つめながら滔々と語る理人の言葉は、もう何度も同じ説明をしたことがあるように淀みない。
「まぼろし病にしろ、さわりにしろ、どちらも病の総称であるということでは共通しています。実際には異なる個別の症状に、別の病名がつけられている」
例えば、と続ける理人の話を国広はどこか遠い国のお伽話を聞くような気持ちで聞いていた。
「ある日突然、体の一部の皮膚が鱗に変わる病気があります。魚の鱗というより、生まれたての竜の鱗のように、玉虫色に輝く少し大きな鱗です。薄くて柔らかいのが特徴で、美しいので高値で取引されたこともあるようです。でも皮膚を剥がすようなものですから、鱗を剥かれた人がその後どうなったのか……あまりいい想像はできません」
声色の変わらない理人の向こう側で、奏の呼吸が怯えるように小さく乱れる。
少し気にするような素振りを見せてから、理人が言葉を続けた。
「鱗は放っておくとあっという間に全身に広がり、最後は魚になって海に還るのだとか、竜になって空に飛んで行くのだとか言われています。これが『竜の禊病』と呼ばれるまぼろし病です」
都市伝説だろうか。それとも童話か何かの派生だろうか。
花弔いのお返しにと理人が語る話は、少々残酷で救いがなかった。
理人はなぜ、自分にこんな話を聞かせるのだろう。
意図が分からず戸惑いのまま押し黙っていると、遠慮がちな奏の声が国広に向けられた。
「信じられないかもしれないけど、理人の言っていることは本当のことです」
まぼろし病は本当に存在するの、と奏が続ける。
「私は、泣いてしまうと涙でその時の記憶を洗い流してしまう病を見たことがあります。他にもどんどん体重が減っていってやがて透明になって消えてしまう病や、一人だけ重力の縛りから解き放たれてふわふわ宙に浮いてしまう病もあるって聞きました。嘘みたいな話だけど、この国のどこかで、そういう説明のつかない不思議な病を煩っている人は確かに存在するんです」
一生懸命説明しようとする奏の声に、たばかろうという意図は感じられなかった。
何より彼らをとりまく光の色がとても澄んでいて、少なくとも悪意を持って話をしているわけではなさそうだと思う。
でも、だとしたらなぜ。
目的が見えず、国広はなんだか座りの悪い思いを抱いた。
理人が再び口を開く。
「まぼろし病には、他にも色々な症状の病が存在します。目や視覚に関わる病気だと、『くらやみ病』と言って、明るい所では辺りが暗く見え、暗い所では明るく見える病もあります」
視覚に関わる病気と聞いて、国広は反射的に身を固くした。
なんだろう。なにかとんでもない事実に踏み込みかけている気がする。
構える国広を知ってか知らずか、理人が流れるような口調で先を語った。
「『きらめき病』という病も、視覚に関わるまぼろし病です。これは人を中心にあらゆる生き物が発光して見える病気です」
「え」
あまりにも核心を突いた言葉に、国広は目を見開いた。心臓が収縮して、嫌な汗がどっと吹き出す。
──この少年は、一体何を知っているのだろう。
すう、と紫の光をまとって、理人がこちらを見上げた。
「きらめき病にかかった人は、最初は生き物の周りに薄く膜を張るような光が見えるのだといいます。やがて光は、個体の認識が困難になるほど強くなる。一方、命の無いものに光は見えないと伝えられています」
目眩がするほどの符号点に、血の気が退いていく。
眼科で匙を投げられ、精神科でも解決できなかった症状を出会ったばかりの子どもが言い当てる。この奇妙な事態に、おののかないはずがなかった。
「おじさん」
確信に満ちた理人の声が国広に確認する。
「おじさんが罹患しているのは、きらめき病ですね?」
「──」
応とも否とも答えられずに、国広は恐れるような眼差しで理人の光を見つめた。
寝物語のように聞き流していた話が、急に現実味を帯びて目の前に突きつけられている。
正直、気味が悪かった。