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この国にはまぼろし病と呼ばれる奇妙な病が存在する。
西洋医学にも東洋医学にも分類されないその病は、ほとんどの人間がその存在を知らぬまま一生を終えるほど、希少な病だ。
その病を代々追い求め、研究しているのが、九々重一族。元は別々に存在した五つの家を統合した一族で、落星、瑠上、波鳥、路河、草音の姓を持つ者はその正当な血筋といえる。
一方、九々重の血脈ではないまぼろし病の研究者達を、総じて外野と呼んだ。
外野は全国を移動しながら病を追う九々重とは異なり、一つの土地に留まって本業を持ちながら研究を進め、その業績と引き換えに助成を受ける仕組みを利用している。
地域に根付く外野にはそれ故、病の研究以上に期待される役割があった。
九々重の庇護だ。
寄る辺もなく、土地から土地へと移動する九々重を助け、時に宿を提供し、つまり庇護する。その助力を乞う際に使われるのが、件の合図であった。
そうは言っても、基本的に自力で流浪する九々重が外野を頼ることはほとんどない。だからこそ、合図を放たれる意味は重かった。
「こっちです」
小走りで先を行く少女は、自身を蒼衣奏と名乗った。
冬の外気に白い息を吐きながら、奏が足早に路地を抜けていく。
草音の家から若い識者が出た、という話はルイスの耳にも届いていた。
古い歴史を持つ九々重では十五歳を成人と見なし、この歳を迎えると家を出て独立した識者として活動することが認められるようになる。
具体的には個人に助成の予算がつくようになり、研究内容も個人の名で届け出る事ができるようになるのだ。
しかし時代は移り変わり、現代では二十歳を超える前に独り立ちする識者はほとんどいないと聞く。多くが大学を出てからの旅立ちを迎えていて、これは社会の変化にあわせて考えれば当然の傾向だと言えた。
そんな中、十五歳を迎えた途端に独立して九々重の末席に名を連ねたのが、草音理人だ。
彼は囁かれる生い立ちも含めて、明らかに異端の存在であった。
グレーのダッフルコートを追ううちに、ルイスは古びた駅舎に足を踏み入れていた。無人駅の改札をためらいもなく通り抜ける奏に面食らいながらも、彼女に習ってホームに駆け込む。
一時間に一本しか電車の来ないホームには、今は人っ子一人いない。冷たい風が吹き抜けるホームを駆けて、最近できたばかりのガラス張りの待合室に滑り込んだ。
「理人!」
奏がまっすぐに飛びついたのは、壁にもたれてぐったりと目を瞑っていた少年だ。
億劫そうに瞼を上げた少年が、奏を見るなり困ったような、怒ったような光を瞳に宿して唇を動かした。
「奏……勝手に動かないでって、あんなに……。知らない土地ではぐれたりしたら……」
ぼそぼそと苦言を呈する少年が、ふと近づくルイスに気がついた。
真っ黒な癖っ毛。真っ黒な瞳。前髪は眉にかかるほど長く、細面の顔は少年から青年に変化する途中の柔さが見て取れる。どちらかといえば整った顔立ちなのだろうが、はっきりとした眉が全体のバランスをやや欠いているようで、同時に彼を男の色気から遠ざけていた。
誰だ、と警戒する理人に向かって、ルイスは微笑んでみせた。
「初めまして。九々重の草音理人くんですね。僕は君たちの外野のルイス・クロフォードです。」
驚いたように見開かれた理人の瞳が、ややあって、ああ、と納得したように細められる。
「名前を……論文で……」
そのまま意識を手放した。外野と聞いて安心したのかもしれない。
「理人!」
悲鳴に近い声を上げて、奏が理人の体を揺さぶった。その手を制して、ルイスはみるみる色を失っていく理人の頬に触れた。顔色に反してひどく熱い。
「熱があるね。一先ずうちに連れて帰ろう」
抱きかかえようとすると、意外に重くて手こずった。子どもとはいえ意識のない男を一人で抱き上げるのは難しいらしい。
少し考えてから、ルイスはコートのポケットからスマホを取り出した。
喫茶店に残してきた友人の顔を思い浮かべながら画面をタップして、コール音を聞く。
「──あ、樹くん」
繋がった相手に手を貸してほしい旨を伝えるとと、相手は快く承諾してくれた。
彼らが到着するまで少しある。
待合室の長椅子に理人の体を横たえてから、ルイスは傍らで怯えるように震える奏の肩に手を置いた。
「大丈夫。僕は医師だし、今来てくれる友人は救助隊の隊員だ」
心配ないよ、となだめた奏は、それでもかわいそうなほど真っ青な顔をして、一時も理人から目を離さなかった。