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「ひどい」
泣き出しそうな声で国広を非難したのは、奏だった。
「奥さんがかわいそう」
胸を突き刺すような奏の言葉を、国広は甘んじて受け止める。
酷いことをしている自覚は十分にあった。
奏の声が国広を責める。
「奥さんだって不安だったに決まってるよ。男の人と違って女の人は自分の体に命を抱えて過ごすんだよ。何か少しでも失敗したら、赤ちゃんが死んじゃうかもしれない。命を預かる責任をたった一人で抱えて、毎日恐怖と戦いながら生きているの。おじさんは、奥さんが喜びを深めていったって言ったけど、本当にそれしか見えていなかったんだとしたら、あまりにも理解が浅すぎる」
一度言葉を切って、奏が憤りをぶつけるような声で呻いた。
「二人でつくったものを、怖いからって勝手に放り出すなんて、おじさんは卑怯だ」
「奏」
割って入った理人の声は奏を諌めるためのものではなかった。
空色の光に紫の色を差した理人が、気遣うように奏を覗き込む。
群青色に沈んだ光をたたえて必死に泣くのを堪えているような奏は、きっと感受性が強いのだろう。話を聞く過程で一香に共感し、悲しくなってしまったようだ。
理人が何事か奏に囁く。席を外すよう促したのか、それとも話を切り上げようかと提案したのか。いずれにしろ奏を気遣ったに違いない理人の言葉を、彼女は首を振って退けた。
小さく息をついてから、理人が国広を見上げる。
「奥さんの光は見ましたか」
「──見た」
最後に見た妻の光をまざまざと思い出して、国広は胸が締め付けられるのを感じた。
「彼女の言う通りだ」
奏を示して、国広は言葉を絞り出した。
「妻はずっとひとりぼっちで息子の命に向き合っている。不安なことも、一人では手がまわらないこともあるはずなのに、俺に助けを求めたことは一度もない。俺は父親失格だ。だけどそれ以前に、人でなしだ」
苦しかった胸の内を吐露すると、思いがけず涙が迫り上がって言葉を切った。見ないように、考えないようにしてきたこの一年と数ヶ月の出来事が、次々と蘇って国広を苛む。
あんなに好きだった、一香の笑顔を失ったのは自分のせいだ。あの人を幸せにしようと、誓った気持ちは今も何も変わらないのに。
「最後に見た妻は、モノクロにくすんだ光をまとっていた。諦めと絶望と疲労と。そうしてそれら全ての感情を押し殺すような、抑圧された色だった。妻の気持ちは察するにあまりある。むしろそれは、俺にとって目の当たりにしたくないものだ」
だから思いを知りたい相手が一香であるはずがない。
結論づけて、国広は涙の代わりに大きく息を吐き出した。
鳥の鳴く声が聞こえる。青空にはゆっくりと秋の雲が流れていた。
「僕は、おじさんが人でなしだとは思わない」
穏やかな理人の声が、川縁を滑る風に寄り添うような音で響いた。
「おじさんはきっと、正解を探してしまっただけです。小さな息子さんを守るために、奥さんを守るために。そうして幸せな家庭を築くために、正しい父親になろうとした。それはとても、優しい思いつきです」
花弔いを習慣とする一香に向けたのと同じ言葉で、理人が国広を表現する。
「大事にしたかったから考えた。向き合ってしまったから思い悩んだ。奥さんとは違うベクトルで、おじさんはちゃんと家族を愛していたと思う」
胸を突かれて息を呑む。
無情な葛藤だと悩み続けた思いを愛だと言われて、国広はとっさに反応できなかった。
晴れた空と同じ色の光をまとった理人が、ゆっくりと国広を見上げて言った。
「だけどおじさんの欲しかった答えは、この世のどこにもないんだ」
正しい父親がどんなものかという問いに、答えなんかないと理人は断言する。
「家族の形に正解なんて存在しない。性格も、考え方も、心の震えるタイミングも違う人間が集まって一つのコミュニティを作るんです。そのどれもに共通する正解なんて、あるわけがないんだ。一見、耳を疑うような形でも強い絆で結びついている家族もいるし、反対に良き父、良き母として完璧に見える夫婦の狭間で不幸を感じる子どももいます。家族の間にあるのは相性と、それから時間だけです」
「で、でも。細かい所までよく気がつく母がいいとか、家族の指針となる父がいいとか……否定しない親がいいとか、叱らないで励ます親がいいとか、い、色々あるじゃないか」
拘ってきた価値観を根底から揺さぶられて、国広は抵抗した。
巷には、選べないほど多くの善と悪の事例が溢れている。目を覆いたくなるニュースも、なるほど、と思う啓蒙番組もある。全てが無意味とは、国広には思えなかった。
「そうですね」
一定の理解を見せて、理人が頷く。
「対処療法的な正解や不正解は、確かにあるでしょう。だけど家族間の絆という意味では、やはり答えはないのだと思います。それぞれの家族が、それぞれの家族にあった形を手探りで作り上げるしかない」