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まぼろし病と患者達  作者: 風島ゆう
きらめき病
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1


 ──この世は光にあふれている。


 なんて言ったら、さぞや素晴らしい世界が広がっているように聞こえるが、生憎、桐生(きりゅう)国広(くにひろ)が目にしている世界はそれほどいいものではなかった。


 ひんやりとした早朝の空気と湿った草の温度に目を覚ますと、国広はまず、息を潜めて近くに人の気配が無いかを確認した。


 幅の狭い川が流れる古い橋の下、背の高いすすきが群生するその中で、じっと耳を澄ませる。


 今は使われていないらしい橋の下は、手入れから遠ざかっているようで雑草が伸び放題だ。


 それでも川の近くはいくらか開けていて、地面が顔を覗かせている。


 水音しかしないのを確認して、それでも悠に三十は数えた。


 よれたスーツに汚れた革靴。髭も当たれず風呂にも入れず、雑草にまみれて縮こまっている姿からは、誰も自分がつい一週間前まで大手商社の営業課でトップに君臨する成績を収めていた男だとは思わないだろう。


 滑稽さに虚しくなって、国広は、はあ、と息を吐き出した。


 川の音ばかりだ。誰もいない。

 少なくとも人間はいないと確信を得て、国広はすすきの間から這い出した。


 腹が減っていたが、努めて気にしないことにする。

 スーツのポケットには財布も携帯も入っていて、胸ポケットにはカードも入っているから、金には困っていない。


 少し歩けば二十四時間開いているコンビニがあることも知っている。

 その気になれば食料の買い出しなど簡単な事だったが、国広にはどうしてもそれを避けたい理由があった。


 水でも飲もう。ついでに顔くらい洗ってもいい。


 さらさら、くるくる、流れる水の音に誘われて国広は川縁に近づいた。

 この辺りは都心の開発から逃れた、中途半端に自然に近い土地だ。

 山に囲まれているせいか川の水はきれいだし、ぽつぽつと田畑も残っている。車で三十分も走れば開けた駅前に出て、そこから都心までは電車一本だ。


 奇跡的な利便性と残された里山風情に惹かれて居を構えたのは、たった一年前のことだった。

 産まれて来る子どもにいいだろうと、古巣を捨てて引っ越したのだ。

 三十も半ばに届かぬ身の上では少し早いかとも思ったが、念願のマイホームであった。


 今はもう、戻る事もできない。


 ぱしゃん、と小さな音を立てて川に手を浸す。

 刺すような冷たさが、脳を叩き起こした。


 ──なぜ、こんなことになった。


 数えきれないほど繰り返した問いを無理に飲み込む。

 それに答えがないことなど、自分が一番良く知っていた。


 襟ぐりが濡れるのも構わずに顔を洗い、いくらか水を飲むと少しさっぱりした。


 ハンカチを出しかけて、洗濯していない期間を思い出し、断念する。

 しかたが無いので二、三度手のひらで顔を撫でてから、国広はもといた場所に戻ろうと背後を振り返った。


 群生するすすきがぼんやりと光をまとっておいでおいでと揺れている。

 視界を横切るトンボが二匹、やはり薄い光にくるまれて目の前を通り過ぎた。


 この世は光にあふれている。


 その異常な状態に気がついたのは、一ヶ月ほど前の事だった。

 上司や、同僚、顧客の顔がなんだか見えづらいと感じたのが始まりだ。


 顔を縁取る輪郭がはっきりとしない。見つめると少し眩しい。暗い所では、人の動きに合わせて光の尾が見える。今思えば、それは兆候だったに違いない。


 最初は疲れ目だろうと思っていた。


 働き過ぎだ。疲れているのだ。慢性的に人手の足りない職場では、仕事など、終えても終えても溜まっていく一方だ。仕事に追われて、忙しさにかまけて、自分でも気がつかないうちに近視になったのかもしれない。


 だからせいぜい、近いうちに眼鏡を作るようかな、と思った程度で深くは考えなかった。


 しかし次第に人の判別が難しくなるほど人体を包む光が強くなるに至って、国広はようやく事態の異様さに気がついた。


 人が光に包まれている。

 人だけではない。動物も、植物も、自分以外の生きているものは皆、光をまとって見えるのだ。


 これはおかしい、と眼科に駆け込むと、精神科に回された。

 お疲れですね、と苦笑されて出された薬は、ちっとも効かないのですぐに捨ててしまった。


 仕事に支障が出始め、ごまかしが効かなくなってきた頃、国広の目に映る光に、とある変化が訪れた。


 色だ。おそらくは本人の感情の変化にあわせて、光が色味を含むようになったのだ。

 これは人間に限った事のようで、他の生き物には見られない変化であった。


 怒っている、あるいはやる気に満ちている者のまとう光は赤みが強く、深く考え込んでいる、もしくは落ち込んでいる者のまとう光は青みがかって見えた。


良い感情を伴うと明る色、そうでない感情を伴うとくすんだ色に見え、頑なになると不透明色が強くなる。


 ゆらゆらと絶えず揺らめく光の色彩を目にするうち、国広はついに耐えられなくなった。


 愛想良く笑っている相手の光がどす黒く輝いて見え、心配する素振りで近づく相手が嬉々として明るい色の光をまとう。


 色となって突きつけられる明確な感情は、どんな責め苦よりも辛かった。


 目に見えて疲弊し業績も上げられなくなった国広に、上司は休養を言い渡した。

 途方に暮れて戻った家で見たものは、妻の形がまとう光。


 いつからそうだったのか。それともずっとそうだったのか。


 色彩などかけらもない、モノクロに沈んだ無彩色の光が彼女をくるんでいるのを見て、国広は悲鳴を上げて家を飛び出した。


 それから一週間。国広は一度も家に帰らず、人目を避けて隠れるように日々を過ごしていた。


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