9・最終日
9・最終日
十月も半ばを切って、熊本の夜は今日も過ごしやすい。地域によってはそろそろ長袖が必要なのだろうが、これから鹿児島を目指す彼には、まだ半袖Tシャツだけでよかった。夜の野宿も、広島のネットカフェでくすねていたブランケット一枚でいい。とにかく荷物を増やしたくない彼にとって、かさばる衣類は相性の悪い荷物だった。毎年ゴールデンウィーク辺り、冬場に使ったハーフコートやフリースの類をまとめて公園の屑籠へ捨てるのは最早ミツキの風物詩だった。
頭の中では今日を最終日に決めた彼は、いつものダイエーの裏で段ボールを二枚拾う。一枚はいつもの座布団代わりで、もう一枚は看板用だった。看板の文字はすでに決めており、『お世話になりました! 本日熊本最終日! 旅唄い・ミツキユウスケ』がその文面だ。
大した意味もあると思わなかったが、それが少しでも呼び水になればよかった。
少し早い出勤になったので、携帯ショップの前に緋堂はいなかった。
下通りアーケードは昨日と同じく人通りも多く、そして弾き語りも多く、早い連中はすでに路上での演奏を始めている時間だ。大抵が二人組で、ストラップを付けて立ちスタイルだ。そしてお決まりのようにタンバリンを持っている。
その様子に彼は、この明るい中でよく唄えるものだと半ば感心する。しかし彼らから見ればわざわざトラブルの待ち構えている薄暗い飲み屋通りで唄うミツキの方が不思議なのだろう。健全な集客を望む彼らと、不健全でもチップをもらえればいい彼。そこにはどれだけの隔たりがあるのかも分からない。ただし、少なくとも今感じられる隔たりは絶望的であり、そして彼にとっては残された希望だった。誰かにとっては薄暗く陰鬱な飲み屋街も彼には救いなのだ。飲み屋街の路上は、自分に残された僅かな人間らしさを確かめられる唯一の場所だった。
しかし彼は、この街へ今夜、掻き立てられるように見切りをつけようとしている。
二枚の段ボールを面倒臭そうに小脇へ抱え、辿り着いたビルの前にはなぜか緋堂がいた。
「おはよう。昨日はよく眠れた? 私は熟睡し過ぎて起きたらお昼だったよ」
そう言うなり、荷物をほどき始めた。
「ちょっと。またここでやるのか?」
「ん? ダメ? ミツキがダメって言うならやんないけど」
そういう言い方をされると、ダメだとは言いづらい。そこで、
「昨日も客はついてなかったろ。俺と一緒じゃ難しいんじゃないか?」
ミツキは上がりの話を持ち出して、彼女を牽制した。が、
「そういう訳でもないんだよ。昨日の話してたオジさんに大作を一枚頼まれてさ。なんか事務所に飾るらしいんだけど、ホテルで仕上げてきたから今日渡す予定なんだ。ここにいた方が分かりやすいと思って。ダメかな?」
緋堂はそう言うと額縁に入ったB3サイズはありそうなパネルを取り出してみせる。彼女の絵は初めて見たが、黄色を基調に、ハートをモチーフにした幾何学的というか抽象的な絵だ。絵心のないミツキには感想の言いようもなかった。
「まあ、別に緋堂がそれでいいなら構わないけど」
そう言うと、ミツキはさっさと段ボールを敷いて演奏準備を始めた。すると、
「あ、今日の分のビール忘れちゃったよ。買って来るね」
「いいよ。自分で飲むのは自分で買ってきてるから、それに――」
そこへ現れたのはうなぎ屋の女将だ。
「あらあ、今日で最後ねえ。寂しゅうなるねえ」
手にしているのはいつもの瓶ビールだ。ミツキはそれを受け取りつつ、
「また年内に寄らせてもらうと思います。お世話になりました」
精一杯作った笑顔で答えた。
「じゃあ、お代わりいるならまたもっておいで。今日は大サービスするけん」
そう言うと女将は手のひらで髪を押さえながら店へと戻った。
そこへ、緋堂が尻すぼみな質問を投げた。
「ねえミツキ。今日で最後って言うのは……」
「ああ。鹿児島に行くんだ。緋堂とも今日でお別れだ」
「そうか、行くんだ」
彼女の作った沈黙によりお互いに準備の手が止まったが、上手い具合いにゴールドビルのママが通りかかり、
「ミツキ君おはよう。今ねえ、フォークソング大好きなお客さんの来とらすとばい。後で呼ぶけんヨロシクね」
「じゃあ今日は最終日なんで張り切って唄わせてもらいます」
「あら、そげんね。寂しゅうなるたいねえ。また絶対おいでよ」
「鹿児島と宮崎辺り周ったら、また戻りますよ」
「そうねそうね、そげんせんね」
いつものようにパンプスをパタパタ鳴らしながら、ママはエレベーターのエントランスへと消えた。
「愛されへるんらねえ、ミフキは」
いつの間に口へ絵筆をくわえた緋堂が、イーゼルへスケッチブックを乗せている。それには、ミツキも逸らかさずに答えた。
「ああ。愛されてると思うよ。たかが路上の歌唄いが受けるには大き過ぎるくらい」
愛着はあっても愛情を持てたことのないミツキには、自分の言葉が上滑りして聞こえる。
出だしの遅い十時台を六曲で乗りきり、少しばかり客足も流れ込み始めた十一時。緋堂の待ち人も現れて諸々整った頃。
「お、今日もやっとるなあ」
板金屋の石田のオヤジがやってきた。そして、
「たまには一曲聴いていこうかねえ」
珍しく財布を手に立ち止まった。いつも歌を聴かずに通り過ぎるせいで、正直このオヤジがどんな曲を聴くのかも知らないミツキは、逆にこう訊ねてみた。
「石田さんって、どういう歌がよかったんですかね」
「俺か? 俺はなあ三橋美智也とか春日八郎やねえ。お兄ちゃん唄えるか」
さすがにその持ち札はないミツキが必死でネタ帳を探っていると、
「アリスも好きばい。アリスにしてくれんね」
と助け舟を出され、『遠くで汽笛を聞きながら』を唄った。何もいいことがなかったと唄うこの街は、それでもミツキに優しい街だった。この街が自分の故郷であったらとどこかで思いながらも、生まれ故郷だからこそ出来ないこともあるのだと古びたスリーコーラスの歌を唄いながら考えた。
「ありがと、ありがと。なんね今日は最終日て書いとるたい。どこに行くとね」
「とりあえず、鹿児島を目指してみます」
「そうね。じゃあ今日はチップば弾まんばねえ」
そう言いつつ石田のオヤジが出したのは五千円札だった。思いがけぬ高額紙幣に、
「いや、そんなにいいですよ」
今までの恩もあり本気で断ろうとしたが、
「良かと良かと。あったらあったでろくな店に落とさんとやけん。お兄ちゃんに餞別たい」
「じゃあ、ありがとうございます」
唄い始めの十時からまるっきりチップの入らなかったギターケースへ、誇らしげな紙幣が一枚落とされる。
頑張れよ、とエールを送りながら、石田のオヤジは下通りの方へ消えた。
最終日らしくなってきた、とミツキは気合を入れ直す。
と、そこへ、
「ねえミツキ。とりあえず聞くんだけど」
背後で息を潜めていたような緋堂が声をかけてきた。
「何を?」
「この辺で近いトイレってどこだと思う?」
「ああ」
と、今までどこへ行っていたんだろうかという疑問はさて置き、
「ここの三階に行ったら貸してくれるぞ。ピアニシモっていうスナックだ」
ミツキはそう答えた。
「それって私でも貸してくれるかなあ」
「さっき見てるし、大丈夫だと思うよ。なんだったら俺の名前出していいから」
「……うん、分かった」
神妙に頷いてエレベーターへ向かったが、それが十分たっても二十分たっても戻る様子がない。さすがに三十分過ぎた時にエレベーターへ向かうと、
「おうミツキ! お疲れー!」
やけに上機嫌な緋堂がこちらへ向かってくる。
「何やってたんだ」
女性のトイレに色々と突っ込みは避けたかったが、あまりといえばあまりな時間だ。
「あのねー! 早くミツキのこと呼んでこいって!」
なるほどこの長さは酔わされるまでの時間だったらしい。
「そりゃ、伝令お疲れ」
彼女が席を立っている間にもう一枚千円札が入っていた。鹿児島行きの片道運賃が出来たと思えば、後は熊本ラストのおひねりを目当てに撤収というのもいい頃合いだ。
ただ、
「緋堂、俺ここ片すからさ。何だったら下通りに戻っていいんじゃないか」
が、彼女は一切耳に入っていない様子で、一心に道具を片付けている。
「じゃあ、俺行くから。こっちでは色々ありがとな」
するとキャンバスをつかんだままの姿勢で、彼女はミツキのTシャツを引っ張る。
「ちょ、ちょっと待った! 私も呼ばれてるんだよ。一緒に行こうよ」
「本当かよ……」
ママから呼ばれたのなら、恐らくゲスト扱いだ。ただ、ミツキが気にしているのはそこではなかった。緋堂が余計なことをやらかしてチップの入りが悪くなることだけが心配だったのだ。まさかとは思うがアーティストアピールして、客から金を取らないだろうか。
*
午前零時半。
「じゃあミツキ君、気を付けてね」
「行ってらっしゃい」
ほどよく酔ったママに次いでバイトのアサミちゃんが言うと、ミツキも深々と頭を下げた。奥の方ではミツキの演奏中に止まっていたカラオケがフル回転している。
「また寒くなった頃に戻ってきますんで、その時はまた」
「ミツキちゃんの方はまだ熊本におらすとやろ?」
彼の隣りで恐縮している緋堂は、なぜか借りてきた猫のように大人しくなっている。よほど酔ったのか、三階から降りてきた時の勢いがまったくない。
「私は……まあ、またいるかも知れません」
「じゃあ、いつでもおいでね。待っとるけんね」
今度こそ二人で頭を下げ、エレベーターに乗り込んだ。扉が閉まった途端に、
「ああ、緊張した」
と彼女。
「その割に飲んでたような気もするけど」
「君に気を遣ってたんだよ! 主役を食わないようにさ」
なるほど、と無言で頷き、ミツキは時計をチラリと見た。
「出発って明日なの?」
エレベーターが一階へ着くと、そのタイミングで彼女が訊ねてきた。
「いや。日曜日の出発は大変だから月曜にするよ」
「そう? よかった」
「よかった?」
うん、と笑顔で答える彼女は隠し事があるようだった。
「あのね、今日はウチに泊まってもいいよ」
意味深な口ぶりでそう言った彼女は、もう酔っていない様子だ。
が、酒の勢いでないと分かると、今度は返事が面倒だった。
「泊まってって、ホテルだろ。フロントごまかしても後が面倒だ」
「そこは大丈夫。きちんと差額払って泊まれば大丈夫だから。ツインの広い部屋、持て余してんだ」
「なんとなく理由は分かったけど、行きずりの見知らぬ男をそういうとこに呼んじゃダメだろ。ていうか、呼ぶ人間も信用出来ない。俺は充分、サウナに泊まる金あるから」
そう言うとあからさまに不機嫌な顔で、
「ぶー。だって分け前は折半なんでしょ。鹿児島行きの餞別に何かしてあげたいなって思っただけなのに」
彼女はキャリーを前後に揺らしながら唇を尖らせた。
「分け前って、緋堂は今日稼ぎなかっただろ」
「なに言ってんの? 大作が売れた日じゃない」
「いくらで売れたんだよ」
「三万。フレーム込みでね」
「……俺のことボロい商売だとか言っといて、自分もボロいじゃないか」
「へへえ。だからね、おいでよ」
と、緋堂は天使の顔で笑う。数秒の逡巡は裏側にある悪魔の顔を見抜くための時間だったが、ミツキはそこに何も見つけられず、
「ただの飲み会でいいなら」
軽い気持ちで承諾した。




