8・広島
8・広島
――「俺も行きますよ!」
当てのないその思い付きに、タイジはいつもの体育会系のノリで顔を寄せてきた。
広島で路上を始め二年ほどが経っていた。彼自身、その継続に驚いていたが、そこにはもう親からも期待されず放置されている身の上がある。彼は『自分で稼いでいる』と主張したが、『そんなものは仕事ではない』と、彼の言い分は両断されていた。
ミツキはいつものハンコ屋のシャッター前を動き、三十メートルほど離れた中央通の居酒屋ビル前へ陣取っている。そこで張り立ての弦の調子を確かめながら言う。
――「まだ言わんでくれよ。特に阿保さんには」
するとタイジは深々と頷き、
――「分かりますよ。だって絶対に止めるでしょうから。阿保っちさん、最近ほとんど唄わないじゃないすか。そのくせ分け前の時間になったら必ず来るんですから。俺はね、ミツキさんももう皆と同じ分け前でいいと思うんすよ」
タイジの言う通り、ミツキの扱いは二年経った今も新入りのままだった。皆と同じように唄うが、ケースに入ったチップの中から小銭だけをもらい、それで終わりだ。しかも札の入りが悪い時には、
――「五百円が偏っとるから、ちょっとこっちにもらうわ」
と、そこから更に徴収が待っていた。
それも理由の一つだったが最も大きいのは、タイジの言ったように阿保の唄う時間が短くなっていったことだ。よその路上連中の所に若い女の子が集まっていると聞けばギターを放り出して顔を出し、たまに唄ったかと思うと、やはり集まった女の子を引き連れ、
――「ワシちょっと部屋に戻るけえ」
と、徒歩五分の雑居ビルへ姿を消した。昼間はそこで美容エステをやっているらしいが、それをダシにして女の子を誘うのが阿保の手だった。実際の所それさえも怪しかったが、親は結構金を持っていてボンボンだという噂は聞いていた。それは阿保と不仲なグループのリーダー格から聞いた話で、
――「ミツキ君。あいつんとこ別れてワシんとこ来んさい。チップもまともに分けて貰えんのじゃろう」
その話には遠慮したミツキだったが、いつか一人で唄ってみせるという、その意思表示が今日からの場所移動だった。
――「動く時、絶対教えてくださいよ。俺もついて行きますから」
タイジは真剣な眼差しでミツキを見据える。
――「分かったよ。で、阿保さんに今日のこと聞かれたら、体調不良で出とらんとか適当に言っといて」
――「はい、じゃあ俺戻るんで」
スポーツインストラクターらしい俊敏さでその場を去ったタイジに、ミツキは後ろ手に手を振る。
タイジに話していたのはギターだけを頼りにこの街を離れるという話で、しかも当てのない旅の話だった。まだまだ二十二歳のタイジには刺激的で、この上なく魅力的な話だったろう。その話をタイジへ振ったのは、もしかして彼も同じ不満を抱えてはいないかと踏んだからだ。そして予想はほぼ的中だった。
最年少のタイジは言動も幼かったが、彼の人懐っこさは旅をする上で貴重な財産になるかも知れない。ギターのテクニックはミツキよりも遙かに格上で、そのタイジとボーカルをハモるとピタリと合い、自分が一端のミュージシャンになった気がするのだ。
そんな折、弦の調整を終えて譜面を出していると、
――「今晩は」
見覚えのない少女が一人、彼の前へ膝を折って座った。十時を過ぎた時刻を考えるともう出歩けない年頃の少女だ。
――「は、はい」
緊張の面持ちで少女を見返すミツキだったが、少女はおかしそうに笑う。
――「ふふっ。びっくりしとるでしょ」
――「あの、どこかで会いましたっけ」
擦れた喉でミツキが言うと、
――「覚えとらんの。阿保っちさんのとこで会うたよ」
そう言ってまた笑う。
――「そっか、その、唄ってる時ってあんまり人の顔見ないんで」
いつもと違う緊張が指先まで上がってきた時、
――「歌、聴かせて」
少女は笑みもそのままに膝を抱いた。
まだ十七歳だという少女はありきたりな流行歌ばかりをミツキに申し入れ、その度に彼は微かな記憶を辿り、あまり上手いとも言えないギターで曲を演奏した。歌詞にいたってはボロボロだった。
それでもそんな彼の曲に飽きた様子もなく、彼女はにこやかに歌を、ミツキのギターを聴いている。
――「なんか買ってこようか。せっかくじゃけえ奢るよ」
そう言う彼女へ、ミツキは素直に飲み物を頼んだ。歳を考えれば高校生なのだろう。が、こんな夜中に出歩ける少女をいちいち心配しても仕方がない。歳は子供でも、出会うものには自己責任だ。
(阿保が聞けばすっ飛んで来るだろうに)
それを伝える義理も術も、ミツキにはなかった。携帯電話は自力で契約したが、支払いが滞って半年前から繋がっていない。小銭ばかり、一日に二千円ほどの路上収入ではコンビニバイトより稼げないのが実情だ。
(それも今日からは違う)
今日からは稼ぎの全てが自分のものだ。そして自分の責任だ。そう思うと気が引き締まる思いだった。
――「ただいまあ」
コンビニの袋を抱えてきたのは、もちろん十七歳の女子高生だ。が、
――「あれ、ビールって……」
ミツキが手渡された缶ビールに面食らっていると、
――「ジュースよりこっちの方がええじゃろ?」
彼女は当然の顔で微笑むと、缶チューハイを開けた。どう見ても女子高生だったとして、それでも深夜のコンビニは酒を売るのだとミツキは静かに納得していた。
――「乾杯!」
――「ああ、乾杯……」
少女に付き合ってビールを開けたミツキは、思いがけぬ爽快感に喉を鳴らした。酒は苦手な方ではなかったが、路上で飲むビールは格別に思えた。そしてその癖は三年後まで続く。
――「どうして向こうで一緒にやらんの」
缶チューハイを美味しそうに飲んだ彼女が、ストレートな質問を投げてきた。
ミツキはつい唇を歪めながら、
――「一人でやりたくなって……もうじきここも離れるだろうし」
余計な一言を付け加えてしまう。
――「どこか行くん?」
彼女は無邪気に訊ねてくる。
――「うん……旅に出ようと思ってて」
酒に任せ、いらぬ言葉は後を追って湧いて出る。
すると、
――「ほじゃったら大阪にきんちゃいよ。今私、大阪に住んどるけえ」
早くもチューハイを飲み干しにかかった彼女が笑う。
そういえば学生は春休みだったと思い出し、
――「そっちの学校に行ってるんだ」
すっかりギターの手を止めて話し込んでいる自分に気付いたが、話は止まらない。
――「基本、通信なんじゃけどね。キャバでバイトしながら月一くらいで通っとる」
奔放な明るさの秘密はそこかと納得しながら、ミツキは悪い話ではないと思った。思いつつも、タイジに話すとどうなるだろうかと迷った。『一緒に行きましょうよ!』と熱く語ったタイジの言葉は恐らく本心からだと彼にも分かっている。しかし、さすがにこの話は切り出しにくい。
ギターを抱えたままボンヤリと考え込んでいるミツキを気にしたか、彼女は、
――「また明日来るけえ。また唄うてね!」
笑顔で立ち上がると、アーケードへ続く信号を小鹿のように軽快に跳ねて行った。
*
(ここまでくると天晴れなもんだ)
暗い仮眠室で目を覚ましたミツキは三日目となる広島時代の夢に瞬きで別れを告げ、四度目の夢に寝覚めを襲われないよう、このところ日課になっているサウナルームへ向かった。
結局のところ俺はすべてを裏切っている。
ミツキはサウナ室を開けながら無感動にそう思った。タイジにも、そして彼女にも、何一つ真実で応えていない。いつも逃げるように生き延びている。歯車を違えた瞬間にはそれと気付かず見過ごしていたことが、時計仕掛けのように今、襲ってくる。ツケが回るとはこのことだと、熱気に身を任せて後悔を洗い流そうとするが、過去はそう容易く流れ落ちてはくれない。
壁の時計を見ると三十分を回っている。これ以上は危ないだろうか。
入る前より一層重くなった気のする身体を起こし勢いで立ち上がると、一瞬めまいが襲った。が、よろけたはずみで触れた壁石の熱さに目が覚め、なんとかサウナを出た。
嫌な覚醒の仕方だと食堂へ向かい、いつもの発泡酒を買う。食事は昨日の居酒屋以来腹が減っていないので今日は見送ることにした。
気付けの酒も今日は効きが悪く、煙草を吹かしながら思うのは広島での最後だ。
結局ミツキは大阪へ向かった。一緒に旅をしようと意気込んでいたタイジに何も言わず、彼女の住む大阪へ向かった。その後のことはあまりにも馬鹿馬鹿しくて思い出す気にもならない。
日の落ちる時刻を発泡酒二本でやり過ごすと、仮眠室の方から頭の禿げあがった爺さんがやって来た。
そして、ミツキと同じ販売機でビールを買う。発泡酒ではなく百円高いビールを。
ミツキはそんな様子を見て思う。爺さんに限らず、あの世代は発泡酒を毛嫌いしている感があると。こんなひなびたサウナで見栄を張ってどうすると彼は思うのだが、信念なのか何なのか、こだわりでもあるように発泡酒には手を出さない。知らないものには手を出さない、信用しない、というのであれば、吸っている煙草がフィリップモリスなのが腑に落ちない。ゴールデンバット、とは言わないまでも、缶ピースかわかばでも吸っていて欲しい。
それに引き替え、たまに来る土木作業員たちは判で押したように発泡酒だ。サウナでも振る舞いが決まっていて、まずは風呂より何より酒を浴び、コンビニで買ってきた六缶入りの発泡酒を二つも三つも積み上げ、レンジで温めるまでもないつまみを肴にして酒盛りを始める。泥と油に汚れた作業着姿の酒宴は見ていて痛々しく、それはミツキにすら注視に耐えないものだった。
他人事はいいと、ひとまずミツキは自分自身の埃を叩き落とす作業に向き直る。心を煩わせる一つ一つを静かに払い落とし、成すべきことを考え始めた。
もしかすると今夜が熊本の最後になるかも知れない。厳密に言えば熊本での路上演奏最後の日になるかも知れなかった。出発は月曜を考えている。それは知らない街で迎える日曜日というのが恐ろしかったからだ。右も左も分からず、唄えるか唄えないかも分からない街に対して、日曜日を選ぶのは冒険を通り越して危険行為だった。
手持ちの余裕は二万円。今夜の土曜日で稼げなくとも、次の目的地に決めた鹿児島までの余裕はある。余裕の内訳は鹿児島行きの四千円強と二日分の生活費六千円、それに鹿児島で稼ぎが悪いと判断した時に移動するための旅費だった。要は鹿児島で最悪の事態に陥った時の保険だ。比較的稼ぎのいい熊本でさえハプニング的要素に助けられている現状、念には念を入れた方がよかった。
それを伝えるべきはゴールドビルのクラブのママと、うなぎ屋の女将くらいなものだろう。滞在中に無償で世話になったのはそのくらいのものだ。運が良ければ石田のオヤジも入れておく。
温くなった発泡酒を口へ流し、心の靄がいくらか晴れたミツキは、もう一度仮眠室へ行ってリクライニングシートへ横になった。瞼を閉じた暗闇に浮かぶのは、やはり広島のことで、その頃に掬い取れなかった心の澱が揺らめく水面で濁るのを感じていた。




