6・緋堂ミツキ
6・緋堂ミツキ
以前、客に連れて行ってもらったバーで五時まで時間を潰し、後は当然の顔でサウナへ行った。酒がよく回っていたせいもあり、起きたのは昼の三時だった。
もう一度風呂場へ入る前に外で買い物を済ませ、二十分きっかりサウナで汗を流した。昨日充分に風呂を浴びていたせいで身体の老廃物が落ちている気はしなかったが、酒はどんどん抜けていく気がする。
いつもの食堂で発泡酒を空け、シーフードヌードルに湯を注ぎ、穏やかな日が差しこむ窓の外を眺めた。屋根瓦ばかりで何も見えはしなかったが、外が晴れているというのは夜に向けたプレッシャーが一つ減る。
(来るだろうか……)
それは昨夜知り合った女の子のことで、路上での約束が守られることは少ないと知りつつも、心のどこかでは期待していた。そして期待している自分に気付き、居心地の悪い気分になった。基本的に路上では『後で寄るから』という言葉を信じて裏切られることばかりだったからだ。
カップラーメンだけの朝食だか昼食を食べ終えると、彼は昨夜増えた手持ちに任せて缶ビールばかり飲んでいた。酒のつまみは煙草があればよく、同じように煙草も減らした。二時間で一箱のペースはシンガーにとって有益か不利益か知らないが、彼がそのせいで唄えなくなることはなかった。キーはそれなりに高かったが、声質はしわがれている方だった。なので酒の量も気にしたことはない。
健康のことを考えるときりがなかったが、今日はせめて晩メシを食おうと彼は七時に表へ出た。いつものマンガ喫茶は市役所付近の花畑町にある。メニューは今夜もチキン南蛮定食だ。同じ場所、同じ物、彼が好むものはそういったものだった。生活に大きな変化は求めない。もっとも大きな変化は、土地を動く時だけだった。現状の希望や可能性に見切りを付けて、知らない街を目指す時だけだった。
ルーティンのような作業を一つずつ終え、ミツキは今夜もダイエーの裏を物色する。今夜は手ごろな段ボールが見当たらず、束ねてあった塊から強引に一枚を引き出した。
午後九時、懐の余裕が気持ちの余裕にも繋がっていた彼は、久しぶりに下通りの明るいアーケード下を歩いていた。そこへ、
「緋堂くーん!」
女性の声が背後で高らかに響いた。聞き覚えのある名前と声だったが、ミツキは今夜の一曲目を考えるのに夢中だったので聞き流していた。が、しかし、
「緋堂君てば!」
声は更に音量を増して、しかもゴロゴロとタイヤを引きずる音と共に近付いてくる。さすがに不審な雰囲気に気付いてミツキが振り向いたところ、そこにいたのは昨夜の彼女だった。名前は確か、緋堂ミツキ。
「よかったあ、完全無視かと思っちゃった」
「昨日は、その、どうも」
ミツキはうつむきがちに答える。木材でも積んでいるのか彼女の足元の荷物はやはり大きく、普通の観光客には見えなかった。
「今ね、約束の缶ビール買いに行ってたから、はいこれ」
そう言うと、彼女は左手に持っていた袋をミツキへ手渡した。
「ありがと……で、さっきの緋堂君っていうのは」
すると彼女は怪訝な顔をして、
「名前。私と一緒って言ったでしょ」
ああ、と合点がいったミツキは、
「いや、そうじゃなくてミツキの方。ミツキユウスケ」
きまり悪そうに答えた。
すると、彼女は三秒ほど口を開け、そして息を大きく吐き出しながら言った。
「ああ……そういうことか」
その後、目的地は彼と同じ方向なのか、彼女はミツキの後を追いながら早口に捲し立てていた。
「熊本って、意外と大きい街なんですよね。たまにどこにいるか分かんなくなります」
やはり地元の人間ではないのだと納得した彼は、
「荷物、今日も多いよね。ホテルとかに預けないの?」
「ホテルですか? 預けちゃったら仕事にならないんで」
「仕事? 仕事で来てるの?」
ええ、と笑った彼女はピタリと足を止め、
「ここ、仕事場なんです」
そう言うと、閉店した携帯ショップの前を指差す。
「ここが……仕事場?」
「はい。そうですよ」
訝る彼にも構わず、緋堂ミツキはキャリーの荷物をその場へ下ろし始めた。最初は長い木の板にしか見えなかったそれも、組み立ててみると見覚えのある物体に見えてくる。ミツキの使う譜面台を巨大にしたようなそれは、絵を立てかけるイーゼルだった。
彼女はそのイーゼルへ、取り出した一枚の白いボードを乗せる。
「とりあえず絵描きなんです。今は九州を周ってますけど、生まれは北海道です」
「じゃあ、ここで絵を描いて、売るんだ」
「まあ、そういうこともします」
ミツキも路上シーンでは色々と変わり種を見てきたが、たしかに似顔絵や詩を書いて売る商売もあった。それにしても、ここまで本格的なのは初めてだ。
「今日は昨日頼まれた絵を仕上げてきたんで、まずはそのお客さんから待つつもりです」
そう笑顔で告げると、彼女は折りたたみの椅子へ座った。そして、
「お互い、頑張りましょう!」
やけに明るい彼女に引け目を感じながら、ミツキは段ボールを抱え直し、いつものビル前へと向かった。
稼いだ翌日はさっぱりな日も多い。
それは金曜日とて例外ではなく、ミツキは低めのテンションでチューニングを済ますと、おもむろに一曲目を唄い始めた。曲は昨日の一曲目と同じ雨の香りがする曲だった。せっかく晴れた空には申し訳なかったが、まだ暖まっていない喉にはちょうどよいキーだったもので、その曲にした。一曲目の選曲というのは大抵そうやって決まっていく。一曲目が決まれば二曲目も決まり、その流れで三曲目へ続く。そして飽きたら別のリストへチェンジするのだ。いつも一曲目が決まっていた時代が今は懐かしい。
「おう、連日頑張っとるな」
声は板金屋のオヤジだった。ミツキは胸を撫で下ろして笑顔を作る。これで今夜の千円はキープだと。
相変わらず歌は聴かないが金だけは払ってくれるオヤジは財布を覗きながら、
「そいにしても長かねえ。次はどこに行くとね」
思いがけぬタイミングで訊ねられたミツキは、
「そうですね。次は鹿児島に行こうと思ってます」
表情を読まれぬように、笑顔でそう答えておいた。本心では稼げるものならこのままひと月くらいは稼がせてもらおうと思っていたからだ。
「鹿児島かあ。自由人じゃなあ。ま、身体に気を付けて」
「はい。ありがとうございます」
そうしていつもの千円を置き、どこへ飲みに行くのか静かに立ち去った。
(いつまで……か)
その思案は始めるととめどなくなりそうだったので、後に回した。
緋堂ミツキからもらった缶ビールを傾け、次の曲を唄い出すと、すぐに中年の集団客が付いた。それを上手く唄い過ごすと今度は若い男の二人組が近付き、
「リクエスト出来ますか?」
と寄ってくる。その客を捌いているうちにまた次が現れるといったふうで、客足は十時半まで途絶えなかった。とりあえず途中集計にケースを覗いてみると、千円札で四枚と小銭が千五百円ほど入っていた。
(昨日の今日でこれか)
呆気なく覆されたジンクス。しかも時刻はまだまだ宵の口で、これからの集客も充分あり得る。焦らずのんびりと唄えば声も一時まではもつだろう。
知らない街が唄い慣れた街へと変化してゆく瞬間を、ミツキは冷静さの中に感じていた。それはひどく脆い現実で、二日前まで白川のほとりで寝泊まりしていた自分を思い出すと、この場所で日常化してゆく路上演奏が堪らなく怖かった。路上の掟は、物珍しがられているうちに撤退することだったからだ。
(いや。まだだ。まだ世間は好奇の目をもって俺を見てくれている。まだこの場所で稼げるだけ稼がなければ)
その後、何もなく午後の十一時がやってきた。
ミツキはひと通り唄い終えた今日のセットを繰り返すか、別の曲にするか悩んでいた。正直なところこの数年、彼はもう唄うことに飽きていた。気持ちを込めて唄えるのはいつも始まりの数曲だけで、残りは心を消して唄っていた。メシの種になるから唄っているだけで、やめられるのならいつやめても構わなかった。それを押し殺して唄えば唄っただけ、彼の心は壊れてゆく。無節操に歌を重ねてゆく度、初めて唄った頃の純粋な思いから遠ざかってゆく気がするのだ。そういう意味で彼は今、心を砕きながら生きながらえているに過ぎない。それはよくないことだろうか。
自問するほど無機質になってゆく心の隅に、ひとつだけ譲れないものがある。それが何だか分かるまでは唄い続けよう。そんな危うい決意だけで、彼の路上演奏は続いている。
午後十一時の人並みは金曜らしく賑やかだった。しかし今夜はゴールドビルのママからも声はかからず、うなぎ屋の女将からの差し入れもなく、あれから道行く人もミツキの演奏に気を留めず、向かいのビルのポリバケツに野良猫が顔を出し始めた頃、ケースの中は一銭も増えず十二時を迎えていた。
と、そこへ荷物を転がす音が響いた。こもった振動を路面に響かせるその音は間違いなく彼女のものだ。
「お疲れ様ー。今日はどんな感じ?」
緋堂ミツキは髪を後ろにまとめ、ついでに荷物もまとめた様子で現れた。ミツキは段ボールの上から彼女を一瞥すると、その質問に答える。
「見ての通りだよ」
するとギターケースをひと眺めした彼女が、
「ふーん、昨日の勢いがないなあ」
「あれはたまたまだから」
「そっか。じゃあまだやるんだね」
「一時過ぎまでは」
「それじゃさあ」
と、彼女は後ろ手にしていた左手を前へと回し、
「私もここで描いていいかなあ」
そう言うと缶ビールを一本取り出してミツキへ渡した。普段ならその申し出には答えたくないミツキも、昨夜のこともあったので、彼女をサクラにするのもいいと思った。
「いいけど……どこで描くの?」
ミツキは、構わない、と答える代りに彼女へ訊ねたが、
「うん。君の後ろでいいよ。私の絵って風景画じゃないからさ。何が見えても気にならないの」
彼女はそう言い切り、彼の背後でイーゼルを立て始めた。そして、
「真後ろだけど気が散らないかな?」
「まあ、出来れば少し横に動いて欲しいというか」
「横だね。分かった」
あっという間に自分の城を築いた彼女は折りたたみ椅子へ腰かけ、
「じゃ、よろしくお願いしまーす」
と、屈託のない声で絵筆を握った。




